足利義満と織田信長が失敗し、徳川家康だけが唯一成功したマウンティング計画とは? 天皇を超えようとした武士たちの飽くなき戦い
足利義満と織田信長が失敗し、徳川家康だけが唯一成功したマウンティング計画とは? 天皇を超えようとした武士たちの飽くなき戦い

世界史では「宗教」を抜きにして歴史は語れないというのが常識だと、歴史家の井沢元彦氏は言う。日本人が無宗教だと言う人も多いが、日本の歴史を辿ってみると、日本固有の宗教観があることに気づける。

 

『真・日本の歴史』(幻冬舎)より、一部を抜粋・再構成してお届けする。

「日本国王」の称号を受けた足利義満

源頼朝は、平家を滅ぼし、本格的な武家政権である幕府を鎌倉に樹立します。しかし、源氏は3代しか続かず、本来はその家臣に過ぎなかった北条氏が、ちょうど天皇家を藤原氏がコントロールしたように実権を握り、「北条執権体制」が始まります。

武士が天皇家を滅ぼすチャンスが巡ってきたのが、北条義時のときでした。しかし、この時代には天皇は神の子孫で特別な家系であるという信仰が完全に確立していたため、他の国なら君主になれていたはずの義時ですが、天皇家を滅ぼすことはついにできませんでした。

その鎌倉幕府が滅んだのは、後醍醐天皇が一時的ではあったものの、反幕府の武士たちをまとめるのに成功したからです。

とはいえ、このとき足利尊氏を筆頭とした武士たちが望んでいたのは幕府という武士による支配体制をなくすことではなく、あくまでも幕府のリニューアルでした。そのため尊氏は、最終的には後醍醐天皇を追放して、新たな武家政権「室町幕府」を開きました。

ではそれ以降、武士の中に天皇を超えようとした人間は一人も現れなかったのでしょうか?

実はいました。それが織田信長と、その後継者とも言える徳川家康です。

そして、その前にもう一人。ただ、彼の場合は、正確には天皇を超えようとしたのではなく、「天皇と対等になろうとした」と、見るべきだと思っていますが、その人物とは、室町3代将軍・足利義満です。

足利義満というのは、京都の金閣寺を建てたことで知られる将軍ですが、実は日本で武士の身ながら初めて天皇の権威に挑戦した人間として特筆すべき人物なのです。

そして彼の独創的な点は、天皇の権威に対抗するために「国際的な権威」を利用しようとしたことです。

彼が利用したのは、大陸の大国「中国」の権威でした。

紀元前、中国にも戦国時代というのがあり、7つの国家が覇権を争っていました。この時代の中国における最高の身分を表す言葉は「国王」でした。つまり、7人の国王が群雄割拠し、覇権を競っていたのです。

その中で天下を統一したのが「秦」という国でした。秦の国王である嬴政は、王をすべるものとして新たな称号を創設します。それが「皇帝」でした。つまり、始皇帝です。

これ以後、近代に至るまで、中国全土を支配する人間の称号として、この皇帝が使われることになります。そして皇帝が生まれて以降、国王というのは、大中国に臣従する周辺国家の首長を意味する称号になりました。

日本は昔から中国と深い関係を持っていましたが、白村江の戦い以前の日本は弱小国家で、卑弥呼の時代からずっと、中国へ朝貢(貢ぎ物をし、その代わりとして庇護を受ける)し、「国王」に任じてもらっていました。

しかしその後、国家意識を高めた日本は、国王という称号を使うのをやめ、独自に「天皇」と名乗るようになります。これは明らかに、もはや日本は中国の臣下ではない、という対等意識の表れです。このような考えのもと実行に移したのは、東アジアでは日本だけです。

ところが、その「天皇」を超えようと思った足利義満は、中国(当時は明国)に使いを送り、「日本国王」の称号を受けたのです。

幕府は朝廷より上だということを示して作った金閣寺

義満の行為は、せっかく先人が勝ち取った対等の立場を自ら捨て去る愚行のように見えるかもしれませんが、注意すべきは、これによって国際的には、日本の代表者は天皇ではなく日本国王の足利義満であると認められた、ということなのです。

もちろん、これはあくまでも国際的な立場であって、国内では依然として天皇の方が立場は上でした。

国際的には自分が日本の支配者であると認めさせた、あとは国内の問題を解決するためである、と考えた義満が次に目論んだのは、自分の息子を天皇の跡継ぎにして、自らは天皇の父ということで上皇になろうというものでした。

実際、この計画は着々と進んでいたのですが、義満の突然の死をもって潰えてしまいます。

私は、義満は暗殺されたのだろうと考えています。

計画が未遂で潰えたのなら、なぜ義満が天皇の父「上皇」になろうとしていたと言えるのか、と思われるかもしれませんね。

実は証拠があるのです。

一つは彼が建てた金閣寺の構造に、もう一つは彼の戒名に残されています。

まず金閣寺の方からお話ししましょう。

金閣寺は、今でこそ寺として使われていますが、義満の時代においては、国賓を接待する「迎賓館」として使われていました。

3階建てのその構造は、一番下の第1層が寝殿造、その上の第2層が武家造、そして、一番上の第3層は中国風の禅宗仏殿造と、階層ごとに異なる様式となっています。

なぜ層ごとに様式を変える必要があったのでしょう。

実はこれ、一言で言うなら「マウンティング」なのです。神殿造は天皇や公家が住む住宅の様式なので、第1層は朝廷を、武家造は文字通り武士の住宅の様式なので室町幕府をそれぞれ意味しています。つまり、幕府は朝廷より上だということを示しているのです。

幕府の上を示す第3層は中国風の禅宗仏殿造ですが、これが意味するのは中国皇帝ではありません。中国皇帝から認められた唯一の日本人、つまり足利義満を象徴しているのだと私は考えています。

しかもその義満を暗示する第3層の上、つまり金閣の屋根には瑞獣「鳳凰」が羽を広げています。

瑞獣とは、古代中国で理想的な君主が出現したときに、瑞兆として姿を現すとされている霊獣です。つまり、この第3層に象徴される義満が、そういう理想的な君主だということを金閣の構造は示しているのです。

もう一つの証拠は戒名です。

足利義満の正式な戒名は「鹿苑院天山道義」ですが、実は彼と縁の深い寺に、「太上法皇」という称号が用いられた戒名を記した位牌が存在しているのです。

なぜこのような戒名が存在しているのかというと、義満が亡くなった直後に朝廷から「太上天皇」の称号が贈られたという事実があるからなのです。

結果的にはこの称号は義満の跡を継いだ4代将軍・足利義持によって辞退されているので、正式な戒名には用いられていないのですが、朝廷がこの名を亡くなった義満に贈ったのは事実です。

このことが意味しているのは、朝廷は義満の計画を知っており、あえて死後に彼が望んでいた称号を贈ったということです。本書をここまで読まれた皆さんには、なぜ朝廷がそのようなことをしたのか、説明しなくてもおわかりでしょう。

そう、義満が怨霊化しないように、死者の大いなる希望を叶えるべく手を打ったのです。これも、日本独自の宗教という視点を持たなければ見えてこないことだと言えるでしょう。

信長は自分の誕生日を「聖なる日」とした記録がある

足利義満が果たせなかった天皇を超えようという目論見を、より完全な形で実行しようとしたのが織田信長です。

義満は大国中国の支配者である皇帝の権威を用いて天皇を超えようとしましたが、信長のやり方はもっと根本的かつ画期的なものでした。

そもそも、天皇はなぜ尊いとされたのかを思い出してください。

神の子孫だからですよね。それもアマテラスという最も清らかで尊い神の子孫であるからです。そんな誰もが認めている家系を超えるには、一体どうしたらいいと思いますか?

信長が考えたのは、驚くべき奇策でした。

なぜなら、彼が行ったのは、自分以外の者が持つ権威を利用するのではなく、自らが権威となること、もっとわかりやすく言えば、自分が神になることだったからです。

私が最初にこの説を唱えたとき、多くの歴史学者が私を異常者扱いしました。宗教という視点を持たない彼らには、天皇の尊さの理由も、そのようなことを信長がする必要性も、まったく理解できなかったからです。

信長は、おそらくこう考えたのでしょう。

神の子孫である天皇の権威を超えるには、自らが神になるしかない、と。彼がそう考えたのは、日本が「人間が神になれる国」だったからでしょう。

菅原道真の例を思い出してください。

菅原道真は平安時代に実在した官僚です。しかしその死後、祟りをなしたと信じられたため、火雷天神、略して「天神」という神に祀り上げられました。

確かにこの点で、元人間の菅原道真は神になったと言えます。しかしこれは、道真が生前計画してやったことではありません。

私が信長の目論見が画期的だと申し上げたのは、彼以前に「自己神格化」を目指した人は一人もいなかったからです。

でも、誰も思いつかなかったことだけに、どうすればいいのか、さすがの信長にもわからなかったのだと思います。

そんな信長の試行錯誤を記録している人がいます。イエズス会の宣教師として当時日本に滞在していたルイス・フロイスです。

ルイス・フロイスの記録には、信長は自分の誕生日を「聖なる日」とした、とあります。

聖人の誕生日を祝う習慣は世界中にありますし、クリスマスや花祭りのように神仏の誕生日を祝うという習慣もあります。そういう習慣に則って、信長は自分自身を神に祀り上げようとしました。他にも、安土城を築いたとき、信長は自分の像を築き、家臣にそれを礼拝するように命じたりもしています。

しかし結果から言うと、信長の自己神格化計画は失敗します。その最大の理由は、神学が欠けていたことだと私は考えています。

家康の神としての名前は「東照大権現」

神学というのはキリスト教で使われる言葉ですが、簡単に言えば、イエス・キリストはなぜ神であるのか、ということを研究する学問です。

神学では、イエスが人間ではない理由は明確です。イエスが十字架に磔にされ殺された後、復活しているからです。人間なら復活することなど不可能です。人には不可能なことを行えたのは彼が神だからである、というわけです。

信長は、こうした多くの人を納得させる神学を確立させることができませんでした。そもそも神学が必要だということ自体、わかっていなかったのかもしれません。

しかし、そんな信長の試行錯誤を近くで見ていた徳川家康には、信長に欠けていたものが見えていたのでしょう。

徳川家康もこの時代の日本人で、しかも相当頭のいい人ですから、天皇を超えるためには神にならなければいけないという理屈は理解したはずです。それに加え、信長を見ていて、彼に欠けていたものにも気づきました。問題は、どのようにして一般大衆を納得させるだけの神学を確立させるかです。

家康が賢いのは、ここで宗教的ブレーンとも言える天海僧正を採用したことでした。宗教の問題は宗教の専門家に任せたのです。これによって家康は、見事に自己神格化に成功しました。

成功の秘密は、彼の神名を見るとわかります。

家康の神としての名前は「東照大権現」。この「権現」というのがカギなのです。

権現とは何かと言うと、人間界の不幸を救うために、仮に人間の形をとって地上に降りてきた神を意味する言葉なのです。

つまり、天海僧正は、「家康様は乱れに乱れた戦国の世で苦しむ多くの人々を救うために、仮に人間の形となって地上に降りてこられた権現様なのである。だから人間のように亡くなったのではなく、その使命を終えたので、本来の姿である神として天上の世界に帰られたのだ」という神学を構築したのです。

見事な説明です。これなら誰でも納得すると思いませんか。

実際、人々はこの神学を受け入れ、家康は神になりました。

さらにもう一つ、この神名には大きな意味が込められています。

東照大権現。私たちは通常、この神名を「トウショウ」と読んでいますが、それは本来は日本にはない音読みです。日本古来の読み方である訓読みでこれを読んでみてください。「アズマテラス」になりますよね。

もうおわかりでしょう。つまりこの東照大権現という神名は、次のように主張しているのです。

これまで日本という国は、アマテラスの子孫である天皇家が治める国であった。しかしこれからは、権現様、つまりアズマテラスが地上に降りてきたときに、人間の女性と交わって生まれた子孫である徳川将軍家が治める国となった。

だからこそ徳川家は、260年も続いたのです。

徳川家康は、信長にもできなかった自己神格化に成功しました。

しかも、家康は死の直前に「自分が死んだら、日光に関八州の守護神として祀れ」と遺言しているのです。

この意味がおわかりでしょうか。

家康は、生前に自らの意志で宣言することによって神になった、ということなのです。

こんなことを試みた武士は、日本史上、信長と家康の二人だけ。そして成功したのは、家康ただ一人です。

文/井沢元彦 

『真・日本の歴史』(幻冬舎)

井沢 元彦
足利義満と織田信長が失敗し、徳川家康だけが唯一成功したマウンティング計画とは? 天皇を超えようとした武士たちの飽くなき戦い
『真・日本の歴史』(幻冬舎)
2024/7/181,980円(税込)360ページISBN: 978-4344043091

日本とはこんな国だったのか
日本人の行動原理はここにあったのか
あなたの知っている日本の歴史がひっくり返る!
目からウロコ  衝撃の面白さ
ゼロから学び直す真(シン)・日本史!


教科書も学者も教えてくれない「歴史の流れ」がわかる! 謎が解ける!
「比較」と「宗教」の視点を持てば、日本史ほどユニークで面白い歴史はない。
シリーズ累計580万部突破『逆説の日本史』著者による、30年の歴史研究のエッセンス。

編集部おすすめ