
日本以上の速度で少子高齢化が進む韓国だが、同時に「貧困に陥る高齢者」の問題にも直面している。急速な経済絵成長を遂げた一方で、高齢者の貧困率は約40%にも及ぶ。
『縮む韓国 苦悩のゆくえ 超少子高齢化、移民、一極集中』より一部抜粋・再構成してお届けする。
「65歳から地下鉄無料」は見直すべき?
2023年に、記者はかねて関心のあった、韓国の地下鉄と高齢者をめぐる話題を取材した。少子高齢化という大きな変化がいや応なく社会を揺り動かすなかで、65歳から地下鉄無料といった高齢者を優遇する制度をそのまま続けていくべきか、論争になっていた。
ソウルの中心部にある公園には連日、市内や近郊から高齢者が集まってくる。ベンチに座って知人らと談笑したり、1人で景色を眺めたりして思い思いに過ごす人が多い。
ソウル北部に暮らす男性(78)もそうした一人で、週に数回、地下鉄に乗って公園に来る。「特に知り合いがいるというわけじゃないけどね。ここで過ごし、また帰るんだよ」多くの高齢者が気軽に訪れる大きな理由は、地下鉄に無料で乗れるからだ。
老人福祉法には、こんな趣旨が定められている。「国または地方自治体は、65歳以上の者に対し、輸送施設などを無料または料金を割引して利用させることができる」。ソウルに限らず、高齢者にいわば「移動する権利」を保障するような形で地下鉄の無料制度は定着してきた。
前述したが、この無料という「恩恵」を生かしたビジネスが「地下鉄宅配」のサービスだ。
事務所の待機場所に、7年ほど働く男性(80)がいた。年金だけでは生活できず、週に4~5日の出勤で多いと月40万~50万ウォン(約4万~5万円)程度の収入になる宅配が頼みだそうだ。「65歳から無料は早いという話を理解はできるけど、地下鉄に乗るたびにお金を払うならこの仕事は出来ないよ」と話していた。
「65歳にもなれば、国から何らかの恩恵を受けてもおかしくない」
「65歳から無料」が始まったのは1984年。当時はソウルの地下鉄の路線も今よりはるかに少なかった。軍事政権下で、当時の全斗煥大統領が高齢層にアピールして支持を得ようとしたとの見方もある。
以来、40年の歳月が過ぎた。当時は4%ほどだった韓国の高齢化率は20%に迫りつつある。
こうしたなかで、ソウル市の呉世勲市長が23年1月から2月にかけてSNSに相次いで投稿し、無料の対象になる乗客が増えて財政負担が重くなっていると訴えた。ソウル市に取材したところ、議論を重ね、当面は制度を続けることにしたが、コストについて国に支援を求めていくとも説明した。
一方、南東部の大邱市は無料乗車の開始年齢を28年まで段階的に70歳まで引き上げることにした。市は「年齢引き上げの議論は全国的にも必要だと思われる」と取材に答えた。
韓国の高齢化率は今後も高まっていく見通し。65歳以上を無料にし続ければ、50年には対象者は10人中4人となりそうだ。見直しが必要だという意見は少なくない。世論調査機関ギャラップの23年2月の調査では、無料乗車など「敬老優待」の対象を「70歳」以上にすることに賛成が60%で、反対は34%だった。15年10月の同様の調査では賛成46%、反対47%だったので、だいぶ状況が変わってきている。
ただ反発もある。ソウル東部に住む男性(74)は「65歳にもなれば、国から何らかの恩恵を受けてもおかしくない」と言っていた。
見直し論に強く異議を唱えていたのが、高齢者団体「大韓老人会」会長だった金浩一さん。国会議員を3期務めた金さんは討論会で「高齢者が地下鉄で(韓国中部の)天安まで行き、スンデ(豚の腸詰め)とともに焼酎を一杯。そんな幸せをなぜ奪うのか」と訴える様子が、韓国メディアで報じられていた。
格差拡大や将来への閉塞感の漂う韓国社会
ソウルにある大韓老人会の事務所を訪ねると、「この問題に関心を持ってくれて、ありがとう」と金さんが迎えてくれた。金さんが制度を維持すべき理由としてまず挙げたのが、生活が苦しい高齢者が多いことだった。
「年齢が引き上げられれば打撃は大きい。『人生100年時代』と言われるほどに寿命が延びたといっても、老後の経済的な準備が出来ていない人が多いのです」。韓国では定年は「60歳以上」とされ、高齢者が十分な所得を得られる職は限られる。金さんは「高齢者が家にこもらずに地下鉄で出かけ、歩くことで健康にもなる。医療費の大きな節減につながっている」とも主張した。
現在の韓国の高齢者は1960年代後半以降の急速な経済成長の陰で社会保障などの整備が後手に回ったあおりを受けた世代だ。高齢者の貧困率は約40%に達している。
韓国政府の「高齢者統計」によると、65歳以上で国民年金などの公的年金を受給している人の割合は、少しずつ増えてはいるが、2021年で約55%にとどまっていた。
一方で、支え手となる若い世代も不安定な雇用や住宅費の高騰、教育費の負担など悩みは尽きない。世界的にも異例のペースで進む少子化は、結婚や子を持つことへの価値観の変化に加え、経済的な問題や将来への不安なども背景にある。
高齢者が現状のまま「恩恵」を享受し続ければ、いずれ自分たちに跳ね返ってくるのではないか─。若い世代にはそんな思いもあるようだ。ソウルに住む会社員の女性(29)は「高齢者が増えているし、無料にする年齢は70歳や75歳まで上げてもよいのでは。地下鉄の赤字が減り、運賃値上げもしなくて済むのならその方がいい」と話していた。
経済成長で全体として豊かになった一方、格差の拡大や将来不安といった閉塞感も漂う韓国社会。「若い社会」だった40年前とは様変わりしたなか、長く続く「老後」をどう豊かにし、どう支えていくのか……。世界でも有数の「長生き社会」になった韓国の人々は今、そんな問いに直面していると言えそうだ。
取材・文/朝日新聞取材班 写真/shutterstock
『縮む韓国 苦悩のゆくえ 超少子高齢化、移民、一極集中』(朝日新聞出版)
朝日新聞取材班