
某県警で約10年鑑識として勤務していた藍峯ジュン氏は、数年前からYouTubeにて警察にまつわる奇怪な体験談を「警察怪談」として投稿している。今回は、藍峯氏と同じく鑑識として勤務しながら不思議な経験をしたという男性の話を紹介する。
『警察怪談 報告書に載らなかった怖い話』(KADOKAWA)より、一部抜粋・再構成してお届けする。
※紹介する全ての話は個人情報の特定ならびに捜査情報流失を防ぐため、事件事故および場所や人物の状況等を元の話から一部変更を加えている。また本書には、詐欺を目的に行われている悪質な霊感商法を肯定する意図は一切無い。
見えざる証人
鑑識は殺人や窃盗といった刑事事件のみを担当している訳ではなく、警察の各部署が管轄する全ての事案において現場臨場し証拠資料採取活動を行っている。
もちろん事案発生率に偏りはあるので、窃盗や暴行傷害といった現場に臨場する割合は実際に高いのだが、刑事事件に迫る高い割合で臨場する部門の現場がある。
それは交通事件の現場だ。
当て逃げや飲酒運転事件でも臨場する場合があるが、特に轢き逃げ事件が発生した際は必ず現場に鑑識が臨場し、被疑車両が残した僅かな痕跡を見つけ出して採取している。
交通事件現場は専門の交通鑑識が臨場するものと思っている方もいるが、実は全国的に見ると交通鑑識部門が充実している県警は少ない。一応交通鑑識は設置されているものの、所属する人数が少なかったり、そもそも設置されていない県警もあるのが実情だ。
そのような場合、普段は刑事部門に所属している鑑識が交通事件の現場にも臨場して現場作業を行うことになる。
これは某県警の刑事部門で鑑識をしていたOさんが死亡轢き逃げ現場に臨場した際に体験した話である。
ある日の真夜中、Oさんは携帯電話の着信音で目が覚めた。寝ぼけ眼で見た携帯電話の液晶画面には「警察署」の文字が表示されている。
「はい、Oです」
「当直の○○です。隣の署の管轄なんですけど死亡轢き逃げがありまして、近隣一帯の鑑識に現場応援要請が出ました」
「あー、了解です、すぐ行きます」
そう答えるとOさんは布団からむくりと起き上がり仕度を始めた。
死亡轢き逃げ事件は殺人や強盗と同じく重要事件の扱いとなるため、発生した際には管轄警察署だけでなく、近隣警察署もそれぞれの管轄地域内で一斉検問を行うのだが、鑑識は管轄地域という概念に関係なく緊急招集がかかり、遠方地域であっても現場臨場を行うのである。
夜中の呼び出しはいつになっても嫌なものではあるが、隣接署の現場応援ならば近くて少しは気が楽だなと思いつつ、バタバタと準備を済ませたOさんは警察署に行き、事案の状況を当直員達から聞いた後に、鑑識車を緊急走行させて現場へと向かった。
現場は山間部の住宅地域にある国道。
直線が多く見通しも良い道路だったが、周囲に信号や街灯は無いため夜中になると暗闇に包まれる場所だった。
110番通報をしたのは付近の住民。就寝中、国道から大きな衝撃音が聞こえたことで目を覚まし、まさかと思って外に出たところ、国道の真ん中に倒れているお婆さんを発見した。
あの衝撃音から考えても車に轢かれたに違いない、と思ったという。
だが、その住民はお婆さんを撥ねたと思われる車を見てはおらず、車種も逃げた方向も、何もかもが分からない状況だった。
お婆さんは救急隊によって病院に搬送されたのだが、全身を強く打っており、後に死亡が確認されたという事案であった。
地面ギリギリまで顔を近づけたその時…
Oさんは自分の警察署を出発してから一時間近くかかってようやく現場に着いたのだが、既に国道は数百メートルにわたって封鎖されており、周辺はたくさんの警察車両の赤色灯の光と、いち早く駆け付けた一部マスコミのライトで煌々と明るく、野次馬達で騒然としていた。
鑑識官達は現場の道路端に集まっている。
停車後、証拠汚染防止の手袋やヘアキャップ、マスクを着けてから鑑識官達の元へと走った。機動鑑識の隊長が改めて状況の説明と指示を行う。
被害者が倒れていた地点について、目立ったブレーキ痕はまだ見当たらず、被疑車両の特徴及び逃走方向など未だ不明である。
目についた塗膜片やガラス片などは片っ端から目印を付けること、鑑定可能であるか否か、採取する価値があるか否かは、後ほど来る鑑識課長や科捜研職員で選別をしていくので、まずはどんなに僅かな痕跡も絶対に見落とさないように。
隊長の言葉を聞いた鑑識官達は、横一列になって地面に伏せ、少しずつ匍匐前進をしながらアスファルトの鑑識作業を始めた。
作業が始まってから約2時間経った。
鑑識官達は誰も言葉を発することなく、ただひたすら黒く冷たいアスファルトに這いつくばって残されている僅かな痕跡を探し出していた。
少しだけ集中力が落ちて来たことを感じていたОさん。道路のアスファルト上には塗膜片やガラス片が無数に落ちている。
もちろん衝突地点から離れた場所に落ちている塗膜片などは被疑車両と無関係の可能性が高いのだが、だからといって適当にあしらう訳にはいかない。
万が一の可能性を考えて現場観察を行うのが鑑識の仕事である。
再度気合いを入れ直したОさん。また這いつくばって、地面ギリギリまで顔を近づけたその時だった。
顔の真横──Oさんの進行方向側からこちらに向かって、靴も履かずに早歩きでヒタヒタと通り過ぎる素足が視界に入った。
(え!?)
すぐにOさんは顔を上げて後方を振り返ったのだが、現場内を裸足で歩いているような人物などどこにもいない。規制線の中に部外者は絶対に入れないし、鑑識作業中の事件現場を裸足で歩く警察官などいるわけがない。
辺りは暗く、警察車両やマスコミが使っているライトの灯りが常にチカチカしているし、光と影の錯覚でそう見えてしまっただけに違いない……しかしあんなにはっきりと足のように見えるもんなんだな……凄いな人間の脳ってやつは。
そんな事を思いつつ、鑑識作業に戻った。
Oさんの顔の横──また視界に入った素足は…
その後、作業は順調に進み、衝突地点と思われる付近では被疑車両の物と見て間違いがないであろう真新しいガラス片やバンパー片も採取された。
轢き逃げ現場の鑑識作業は往復して行われることが多い。証拠の見逃しを防ぐためである。
例に漏れずОさん達も折り返して作業を行うことになり、その頃には夜明けも近くなっていたことから空は白み始め、ライトが照らされていなくても周囲の状況がよく見えるようになっていた。
もう一度全ての範囲を観察するのだが、目ぼしい遺留物にはマーキングをしているし、あとは取り残しが無いかを確認していくだけなので一回目ほどの時間は掛からないはずである。
薄暗いとはいえ明るくなってきたため、最初は見えなかった遺留物にもすぐに気付けるようになり、作業も順調に進んでいたその時だ。
Oさんの顔の横──ヒタヒタと通り過ぎていく素足が、また視界に入った。
今回は素足がまだ視界の中に入っている時に顔を上げて振り返ったのだが、やはりそこには誰もいない。
先ほどは暗い中で色々なライトの灯りが周りにあったから見間違いをしたのだと思っていたが、今は夜明け前で周囲は明るくなってきている。
ライトを見間違うとは到底思えない。
──汚れて表皮が剝けたボロボロの素足。
横で黙々と作業をしている他の署の鑑識官に声を掛けようかと思ったが、変な噂を立てられたら困るし、馬鹿にされるのがオチだろう。
そう思い、荒くなる呼吸をなんとか抑えて残りの鑑識作業をこなして行った。
もうすっかり日が昇り、陽がさんさんと降り注ぐ中、鑑識作業も大詰めになっていた。
科捜研職員や鑑識課の幹部が、現場資料として正式に採取をする遺留物の選定を行い、採取する物品には数字やアルファベットなどの番号票が割り振られて写真撮影が行われたのだ。
重要事件が発生した際、現場から採取する資料の数は膨大なものになる。
採取資料の状況を写真撮影する時は各番号が被らないように置く位置に気を使わないといけないのだが、これが意外に苦労する。
写真撮影をする鑑識がファインダーを覗きながら番号の確認をし、重なって見えなくなっているものがあれば「その番号をこのくらいずらしてくれ」と周りに指示を出していくのだが、轢き逃げなどの場合はその範囲がとても広い。
数十メートル先にある番号を細かく移動させて欲しい時もあるのだが、その都度大声で叫んで指示を出すことになる。
動かす役割の鑑識もカメラ担当の指示がよく聞こえない場合があるため、採取資料が多ければ多いほど写真の撮影は時間が掛かるのである。
この時、Oさんはカメラからだいぶ離れた場所で番号を調整する係になった。
道路脇にある民家の生垣に隠れつつ、数十メートル先にいるカメラ担当をチラチラと覗いて様子を見ていたところ
「おー………どけ……れ!」
とこちらに向かって何か言っているのが分かった。きっと採取資料番号票の位置をずらして欲しいのだろう、しかしなんと言っているのか聞き取れない。
「はーい!どれを動かせばいいですかー!!」
大声でそう返し、〝何番を動かしてくれ〞と返事がくるかと思いきや、カメラ担当は手で大きな丸を作っている。
どうやらもう良いらしい。特に何もしていないけど……。
ちょっとだけ違和感はあったが、そのまま採取資料状況の撮影は順調に進み、昼前には全ての現場作業が終了。夜中からほぼ休憩なしの長丁場であった。
被疑者が出頭。供述した証言の内容に…
しかし夜中から働いているとはいっても早上がりができる訳では無い、現場応援が終わったら速やかに自署へと戻り、本日の通常業務を行わなければならない。Оさんは本部や他署の鑑識官達に挨拶をして離脱することにした。
そして、挨拶回りをしているとカメラ担当をしていた鑑識がいたことから、先ほどは一体なんだったのかと軽い気持ちで尋ねてみた。
「ああ、あの時さ、О君の後ろあたりに女の人が出て来たんだよ。あの家に住んでいる人だったのかな?だから、おーい!その人をどけてくれ!って叫んだんだけど、О君が出てきたら引っ込んじゃったんだ、だから特に問題はなかったよ」
笑いながらそう話すカメラ担当の鑑識官。
納得がいかない。
あの時は周囲にはかなり気を配っていたし、人なんて絶対にいなかったはずである。
ふと──あの素足が頭に浮かんできた。
疲労感と一仕事終えた充実感ですっかり忘れていたが、あの時見た素足で歩く人物が、今自分の真後ろに立っているような感覚に包まれたOさん。
「あーそうだったんですね、すみません気が付かなかったです」
適当な愛想笑いと返事をして、逃げ出すように現場を離れたのだった。
暫くして、本件被疑者が警察署に出頭してきて逮捕されたのだとOさんは聞いた。
当初は何も思わなかったのだが、取り調べを進める中で、被疑者が少し変な供述をしていたらしいという事を知り、その内容が、現場であの体験をしたОさんにとってはあまりにも不気味なものに感じた。
被疑者の供述した内容の一部を下記の通り抜粋する。
お婆さんを撥ねてしまい、慌てて停車した。
恐る恐る外に出ると、テールランプの赤い光に照らされながらお婆さんが痙攣を起こして手足をバタつかせていた。
頭がパニックになり、怖くて動けずにいたところ……すぐ近くに女の人が立っていることに気付いた。
まっすぐにこちらを見つめながら、何も言わずに自分に駆け寄ってきた。
靴も履かずに素足だった。
思わず逃げ出してしまったが……付近の住民か、お婆さんの家族なのかは知らないがあの女に見られたことは間違いない、どうせナンバーも見られているだろうし、捕まるのは時間の問題かもしれない。
自殺も考えたが怖くてできなかった。諦めて出頭することにした。
このように取り調べで供述したそうだ。
これに驚いたのは管轄警察署の交通課員達である。
警察では重要事件が発生した際には〝地取り〞と呼ばれる聞き込み捜査を広範囲で徹底的に行う。科学捜査の時代にはなったものの、やはり地道に近隣住民からの僅かな証言をかき集めていく地取り捜査の重要性は損なわれていない。
もちろんこの事件当日も署員総出で近隣一帯の地取りをくまなく行っていたのだが、事故発生時の目撃者などいなかったのだ。
しかし、被疑者の言う〝事故現場〞にいた女が実在するのであれば、それは大きな証言となる。
その女性を捜すべく、交通課員たちは再度片っ端から周辺の住民に聞いて回ったそうだが、結局、被疑者が見たという素足の女を見つけることはできなかった。
現在、Оさんは警察を一身上の都合で退職し一般企業に勤めている。
当時何故か同僚たちにこの事を話せず、酒の席で思い切って話そうとしたことも何度もあったのだが、なぜかその度に言葉に詰まってしまったそうだ。
今は事件や事故、人の死とは無縁の生活を送るようになって、やっと吐き出せるような気持ちになったのだと言う。
自分自身が見たものが絶対に幽霊だとは思っていないが、絶対に勘違いや錯覚だと言い切れない気持ちもあり、思い出すたびに、生虫が懐に入ったような感覚になる、不思議で奇妙な警察官時代の話だそうだ。
文/藍峯ジュン
『警察怪談 報告書に載らなかった怖い話』(KADOKAWA)
藍峯 ジュン (著)
本当に怖い話は、警察官が知っている。実録警察怪異譚!
死亡事故の現場で、警察官たちが当時の様子を再現して行う照射実験。立ち会った事故の被疑者が恐慌しはじめる。彼だけに見えていたものとは?(「照射実験の夜」)YouTubeで全国の警察関係者から寄せられた怪談を語り、大人気の元警察官の配信者による選りすぐりの実録警察怪談集。