「野球を辞めて大阪に帰る」高校時代のダルビッシュを悩ませた部員との対立…「あんときの俺、ひどいキャプテンだったな」
「野球を辞めて大阪に帰る」高校時代のダルビッシュを悩ませた部員との対立…「あんときの俺、ひどいキャプテンだったな」

盛り上がりを見せる“夏の甲子園”の地方予選。この大会で注目を集め、日本プロ野球のみならず、世界へと羽ばたいていった選手は数え切れない。

中でもダルビッシュ有の存在は特筆すべきだろう。なぜ彼は日本人投手として最も長くメジャーのマウンドに立っていられるのか。

 

その背景について、野球著作家であるゴジキ氏が著した『データで読む甲子園の怪物たち』(集英社新書)より、一部抜粋、再構成してお届けする。

多彩な球種で甲子園を沸かせた大エース

ダルビッシュ有(2003・2004年、東北)

21世紀の怪物─そう言われたときに真っ先に思いつくのが、ダルビッシュ有(現・サンディエゴ・パドレス)だ。

ダルビッシュは、中学時代から190㎝を超える高身長とそのポテンシャルの高さから、高校入学時から注目を集めていた。

東北で指揮を執っていた若生正廣氏が、「なにしろ、スピードだけじゃないんだよ。まっすぐの質や球威はもちろん、真横に滑るスライダーなど、変化球のキレがすごい。大型のわりには器用で、フィールディングもサマになっている。あんなピッチャーとは、初めて出会ったよね」とコメントしているように中学の時点でスターの素質を持っており、当時から高身長と甘いルックスで人気も非常に高かった。

そしてその期待通り、高校3年間でその才能を伸ばしていった。

ダルビッシュの特徴といえば、その球種の多さである。ストレート、スライダー、カットボール、カーブ、ツーシーム、フォークなど複数の球種を投げ、それらすべてが一級品だ。そのピッチングスタイルは、高校時代から一貫している。

当時の高校野球において、変化球が多彩な投手は珍しく、エース格の投手は「速いストレートと一つの圧倒的な変化球」というイメージが強かった。

また、20世紀~21世紀初頭まではダルビッシュと比較すると球種も少なく、例えばストレートとカーブといった少ない球種を投げるシンプルな投手が多くいた。そのため、変化球が多彩な投手の多くは「器用貧乏」と見なされていた。

決め球がないから変化球を増やしているような選手がほとんどであったからだ。

しかしダルビッシュは、すべての球種がほかの投手よりも優れていた。とくに、高校時代はシンカーを一番の決め球としており、高校生ながらカットボールも投げていた。
ほかにも、スライダーやフォークなど多彩な変化球を投げており、器用なピッチングを見せていた。

また、「遊びまくっていた時代だったので。変化球で。縦スラで何種類も遊びで投げて、カーブでもナックルでもありとあらゆる球を投げていました」と高校時代を振り返る。

さらに、1年生から147㎞/hを記録するストレートを投げており、16歳にして投手としての完成度は非常に高かった。

名将・木内監督から見たダルビッシュ

このダルビッシュのピッチングスタイルは、のちの高校野球にも大きな影響を与えた。一つの変化球を磨くのではなく、複数の球種を磨く投手が増えたのである。

新しい高校野球の当たり前を作ったという意味で、高校時代からダルビッシュはほかの高校生投手に比べてワンランク上のレベルにいたからこそできたのだろう。

しかし、そんな彼を苦しめたのが「成長痛」である。その痛みから試合においても、全力投球できない場面が多々あり、そのため「手抜き」をしていると言われていたこともあった。

初めて甲子園の土を踏んだのは、新2年生として臨んだ2003年のセンバツだった。初戦の浜名戦では1失点完投勝利も、3回戦の花咲徳栄戦では6回9失点で敗退。

この屈辱を乗り越えて同年夏にも甲子園に出場。この2年生夏の成績は、4試合に先発で登板して1試合を救援、34回1/3を投げて3勝1敗、奪三振30、防御率1・05を記録。
筑陽学園との初戦では、先発して2点を失うとあっさりとマウンドを降りるも、2回戦の近江と3回戦の平安の2試合は連続完投勝利を挙げた。

とくに、平安戦では延長11回15三振を奪って2安打完封と、その怪物ぶりを見せつける。

この試合を機に、不安定なピッチングが目立っていたダルビッシュはひと回り、ふた回り成長し、試合のなかで高い修正能力を見せつけ甲子園のマウンドで輝きはじめたのである。

もっとも、その安定を支えていたのは、2番手投手の真壁賢守の存在が大きかった。

調子が悪くとも信頼の置ける投手がいることは、ダルビッシュが投げる上で大きな安心感になっただろう。

この点においても、ダルビッシュは総合力の時代の怪物とも言える。

しかし、この大会中右足のすねを痙攣させ、「過労性骨膜炎」と診断されて準決勝はマウンドには上がらなかった。

ただ、決勝ではエースの意地を見せるかのようにマウンドに上がった。決勝において名将木内幸男氏が率いる常総学院はダルビッシュを打ち込んだ。

「ダルビッシュは完投しようとしてっから、どっかで力抜くんだよ。そういうボールは球質が軽いんだ。だから『その球を狙いなさい。長打になっから』と。で、あの時のダルビッシュは2年生でしょ。まだ幼さがあったんだ。えい! って投げた球をこっちがカーンって打つとムキになって、また同じ球を投げてきて。それをまたカーンって」と木内氏がコメントするように一方的に打ち込まれる試合となった。

「野球を辞めて大阪に帰る」キャプテン・ダルビッシュが起こした事件

しかし、この名将との試合でダルビッシュの投球術はさらに磨きがかかったと言っていいだろう。

2年生エースながら甲子園で注目を浴びたことにより、3年生になったダルビッシュには大きな期待がかかった。センバツでは熊本工戦でノーヒットノーランを達成。夏の甲子園では1回戦から2試合完封と状態がいいときは相手打線がまったく手がつけられないことを証明した。

また成長痛などの痛みを抱えているときも打者の目線やタイミングを変えるためにサイドハンドから投げるなどの工夫を凝らしながら相手打線を抑えており、「悪いときにでも勝つ投球を工夫する」という点においてプロ顔負けの実力を発揮していた。

しかし、この春夏ともに優勝候補と目されていた東北は、いずれも決勝の舞台まで勝ち上がれずに敗退する。

ダルビッシュはキャプテンに就任したことで、技術的な部分よりも自身のキャプテンシーに悩みを抱えていた。

全体練習が基本の高校野球において、練習方法に関する考え方の違いで一部のレギュラーメンバーと対立し、秋の明治神宮野球大会で済美に負けた直後、ダルビッシュが「野球を辞めて大阪に帰る」と同級生全員の前で発言。2時間話し合い、最終的には撤回させたという事件もあった。

チームメイトだった大沼尚平氏は、ダルビッシュとのコミュニケーション不足が敗因の一つであったと振り返っており、チームメンバー全員が各々責任感があったからこその衝突であったことがうかがえる。

ダルビッシュ自身も後に「あんときの俺、ひどいキャプテンだったな」と述懐しているが、この経験があったからこそいまでは頼れる兄貴分として2023年のWBC日本代表チームやパドレスでは投手陣を引っ張る役割を引き受けているのだろう。

その後の活躍は、多くの人が知る通りである。

文/ゴジキ

『データで読む甲子園の怪物たち』

ゴジキ
「野球を辞めて大阪に帰る」高校時代のダルビッシュを悩ませた部員との対立…「あんときの俺、ひどいキャプテンだったな」
『データで読む甲子園の怪物たち』
2025年7月17日発売1,056円(税込)256ページISBN: 978-4-08-721371-3

甲子園を沸かせてきた高校野球の「怪物」たち。

高校生の時点で球史に名を残した選手たちは、プロ野球選手として大成功した者もいれば、高校時代ほどの成績を残せず引退した者、プロ野球の世界に入れなかった者もいる。

甲子園で伝説を残した選手のターニングポイントはどこにあるのか? そしてプロでも活躍する選手たちが持っている力とはなにか?
名選手たちの甲子園の成績や飛躍のきっかけになった出来事の分析を通して、高校野球における「怪物」の条件と、変わりゆくスター選手像、球児たちのキャリアを考える。

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