
「Plurality」(プルラリティ)とは多元的な考え方を認め合い、テクノロジーと民主主義の共生を目指すことで、社会的・文化的な違いを超えた相互理解と尊重を育む新たな道である。法学者の駒村圭吾は、現在の日本はイデオロギーによって「タテ」に仕切られた社会になりつつあるが、プルラリティによって対立する者たちをテクノロジーの力で橋渡しすることで「ヨコ」のチャンネルを開き、手を取り合える社会に戻れる可能性があると指摘する。
プルラリティは憲法改正に匹敵する
書籍『PLURALITY』を一読した感想を述べる。
はっきり言おう。プルラリティという改革構想は憲法改正に匹敵する。否、今の日本の憲法改正論の水準に照らせば、はるかにラディカルであり、ずっと検討するに値する提案だ。
本来、憲法改正に先立って、≪この国の将来像をどのように構想するか≫というクリエイティブな議論が行われるべきである。そのようなクリエイティブな社会構想がまずあって、次に、それを実現するためには憲法のどこを改める必要があるのか…という順序でことは進むべきなのである。
プルラリティはそのようなクリエイティブな改革提案の有力候補だ。まず、これを真正面から議論して、憲法が定める統治上の約束事を変えなければならないとなれば改憲をし、そうでなければ憲法は放っておけばいい。
今の改憲論は、まるで、病状も明らかにしないまま、患者のウェルビーイングも脇に置いて、「まあ、とにかく手術しましょう」と勧める医者みたいなものである。
病気を治すために手術(改憲)するのではなく、手術するために病気を探しているのである。プルラリティはそうではない。病状を特定し、社会のウェルビーイングのかたちをしっかりと提示し、テックの力を借りて自然治癒力(自己統治能力)をまずは鍛えてみて、どうしても必要なら手術(改憲)をやりましょう……。
これこそ、本当の意味で統治のあり方を根本的に考えることであり、真の憲法論ではないか?
政治はオワコンになりかけている
では、プルラリティの目指す方向性がいかに憲法的に重要なのか?それを明らかにするには、まず今のデモクラシーの現状を確認することから始めなければならない。
ここでも、また、はっきり言いたい。政治はもうオワコンになりかけている。
政局にならないと何も動き出さない。現金給付2万円のニンジンをぶらさげればウマは喜んで食いつくと見くびられている。
立候補すれば、スキャンダルを暴かれ、突かれ、捏造され、不倫疑惑を否定しても「認めない限り疑惑は晴れない」という不条理にさらされ、あの手この手で金を集め、違法すれすれの危ない橋を塀の向こうに落ちるのを覚悟で渡らされ、感謝しても口先だけと言われ、謝罪してもうわべだけと言われる。
政治家になったらなったで上からも下からも理不尽な要求を突き付けられる……。こんなんで、いったい誰が政治家になろうと言うのか。もうこうなると罰ゲームである。ロシアンルーレットである。この世に未練のない人くらいしか挑戦しなくなるのではないか?
今の政治家は、「大衆」という、どす黒い「波」のうねりをサーフィンするようなものだ。うまく波に乗ればスターになり、一歩間違えれば海のもくずとなる。
こうして、意図的に「分断」が創り上げられる。「分断」こそが支持者を集め、自陣に固定化するワザであるから、毎回、より刺激的な扇動を行って、「分断」をどんどん強化していく。しかも、ネット上の仮想空間だけでなく、現実空間も仮想化できると考える人が増え、デマが真実となり、真実がデマとなる。ポスト・トゥルースがあふれ、協調と利害調整という生活の必要に根差したリアルな政治など、どこかに吹っ飛んでしまう。
分断の再生産で疲弊していく社会
オードリー・タンとグレン・ワイルが目指すのは、この「分断」状況を見据えた上で、「連帯」の可能性を模索することである。
もう少し正確に言おう。プルラリティは「分断」の解消を安易に約束するわけではない。対立する両当事者をテック的に「橋渡し」しようとするのである。
「橋渡し」によって何が生まれるのか。
温暖化や食の安全、シャッター商店街問題、いじめや労働環境の改善、等々は、性別や政党や国籍やイデオロギーに関係なく、みなが連帯して取り組める争点である。
政党や利益団体やイデオロギー団体によって「タテ」に仕切られた構造しかない社会は、結局、分断の再生産で疲弊していく。哀れな破壊的末路はもうすぐそこまで来ている。この国は、どこかで「タテ」の構造を「ヨコ」に開くチャンネルを設けないと、対立と憎悪と混沌によって崩壊するほかない。オードリーとグレンの挑戦はそれを救うかもしれないのだ。
憲法的「不断の努力」のためのプラットフォーム
私は、2023年に『主権者を疑う』(ちくま新書)を発表した。
その中で、「デモでは誰も名刺交換はしない」というある市民運動家の言葉を引用した(同書247頁以下)。
名前も地位も分からない見ず知らずの人たちとともに歩む、これが市民社会の原風景だと思ったからである。プルラリティは、このような原風景を、政策形成や合意調達という政治的次元において、どうにか実現させようとする冒険である。
ところで、日本国憲法12条は次のように定める。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
自由や権利はタダではない。「不断の努力」によってメンテナンスしなければならないのだ。しかも、自由や権利は「常に公共の福祉のために利用」せよ、と憲法は言っている。「分断」の拡大再生産はこの条文に反する。他方で、プルラリティはこの条文の要請を果たすためのプラットフォームを提供しようとしている。これは、やはり、憲法的である。
文/駒村圭吾
PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来
オードリー・タン (著)、 E・グレン・ワイル (著)、 山形浩生 (翻訳)、⿻ Community (その他)
世界はひとつの声に支配されるべきではない。
対立を創造に変え、新たな可能性を生む。
プルラリティはそのための道標だ。
空前の技術革新の時代。
AIや大規模プラットフォームは世界をつなぐと同時に分断も生んだ。
だが技術は本来、信頼と協働の仲介者であるべきだ。
複雑な歴史と幾多の分断を越えてきた台湾。
この島で生まれたデジタル民主主義は、その実践例だ。
人々の声を可視化し、多数決が見落としてきた意志の強さをすくい上げる。
多様な声が響き合い、民主的な対話が社会のゆく道を決める。
ひるがえって日本。
少子高齢化、社会の多様化、政治的諦観……。
様々な課題に直面しながら、私たちは社会的分断をいまだ超えられずにいる。
しかし、伝統と革新が同時に息づく日本にこそ、照らせる道があると著者は言う。
プルラリティ(多元性)は、シンギュラリティ(単一性)とは異なる道を示す。
多様な人々が協調しながら技術を活用する未来。
「敵」と「味方」を超越し、調和点をデザインしよう。
無数の声が交わり、新たな地平を拓く。
信頼は架け橋となり、対話は未来を照らす光となる。
現代に生きる私たちこそが、未来の共同設計者である。
主権者を疑う ——統治の主役は誰なのか?
駒村圭吾
主権とは何か? 主権者とは誰か?
恐怖と期待が入り混じる、この〝取り扱い注意〞の概念といかにつきあっていくか?
近年の改憲ムーブメントで連呼された「最終的に決めるのは、主権者たる国民の皆様です!」――私たちは改めて主権者としての自覚が求められ、いよいよ最後の出番に呼び出しがかけられている。しかし、主権とは何で、主権者とは誰なのか? 本書は、神の至高性に由来するこの“取り扱い注意”の概念を掘り下げ、新たなトリセツを提示する。ロゴスから意思へ、神から君主そして国民へ、魔術から計算へ、選挙からアルゴリズムへ――中世神学から現代の最新論考までを包含しためくるめく“主権者劇場”がここに開幕!
「国家統治という入口も出口も休演もない〝劇場〞に、〝舞台〞だけでなく、舞台から降りて〝客席〞に座り、統治劇を眺めることも、居眠りをして自分だけの夢想にふけることも憲法は可能にした」(本文より)
テクノ専制とコモンへの道 民主主義の未来をひらく多元技術PLURALITYとは?
李 舜志
しかし、オードリー・タンやE・グレン・ワイルらが提唱する多元技術PLURALITY(プルラリティ)とそこから導き出されるデジタル民主主義は、市民が協働してコモンを築く未来を選ぶための希望かもしれない。
人間の労働には今も確かな価値がある。あなたは無価値ではない。
テクノロジーによる支配ではなく、健全な懐疑心を保ち、多元性にひらかれた社会への道を示す。