
牛丼280円時代はいまや昔。気づけば、牛丼500円時代に差し掛かっている。
そんななか、年間100杯以上の立ち食いそばを食べ歩く筆者が注目したのは、今年春に東京・神保町にオープンした「梅市」。なぜこの逆境の時代に、新たに店を始めたのか。その理由に迫った。
働きながら週3バイトで修行の日々
2025年4月19日にオープンした立ち食いそば「梅市(うめいち)」。カウンターのみの小さな店舗で、かけそばは390円。富士そば、ゆで太郎が430円の中で、これはうれしい価格だ。
それでいて、天ぷらは揚げ置きではなく、注文後に揚げ直しされてアツアツで提供される。「熱いものは熱く」という店主のモットーのもと、回転率を犠牲にしてでも味を優先する。
そのこだわりは、実際に食べればすぐにわかる。揚げ直された玉ねぎのかき揚げは、じゅわっとした甘味が立ち上がる。そして、おススメだというニラ天は、想像を遥かに超えた。
口に入れた瞬間、衣がカリッとほどける。その直後、ニラの風味が一気に広がり、鼻に抜ける。強くて、香ばしくて、炒めたニラとはまったく別物の存在感がある。
揚げ置きのニラ天によくある“グニッ”とした歯ざわりもなく、風味がぼやける感じもない。
「正直、なめてた」なんて言うと失礼かもしれないが、ニラ天にここまでのポテンシャルがあることを、この店で初めて思い知らされた。
そんな“熱”のあるそばをつくっているのは、52歳で一念発起し、この店を始めた店主だ。一体、なぜこの時代に、立ち食いそば屋を?
話を聞くと、そこには「ひとりでやる」ということへの、強い想いと覚悟があった。
「会社で働いときに、次はひとりでできる仕事をやりたいって思ったんです。会社だと、自分がこうしたらいいのに……と思っても、なかなか簡単に動かすことはできない。自分の好きなことを、好きなようにやるって難しいと感じました。そこでそれまでやっていた事業の業態を変え、店を始めようと思いました」
選んだのは、子どもの頃から親しんできた“立ち食いそば”。だが、いきなり開店できるほど甘くはない。
「月水金は会社、火木土はそば屋で修業。日曜は食べ歩きと物件探し。2、3年くらい、そんな生活でしたね。そば屋での仕事は最初は皿洗いから。これが一番キツかった(笑)」
昼時には次々と押し寄せる客。どれだけ手を動かしても追いつかない。それでも夢のために懸命に続けた。
製麵所との奇跡の出会い
「そこで全部やらせてもらえたのは、本当にありがたかったです。自分でやるために必要なことを、全部経験させてもらえた」
だが、今の時代に立ち食いそばを始めるのは簡単ではない。物価高騰で、軒並み値上がりをしている。
「イカも高いし、お米も肉も全部値上げ。ガス代や冷房代もびっくりするような値段。
あとは、家族経営でやってるので、そんなに人件費がかかってるわけでもない。お店を続けられて、生活できればいいかなっていうのがあります。それに、今この物価水準で始められたっていうのは、結果的によかったとも思っています。前の時代の価格帯で始めていたら、今ごろ苦しかったと思います」
確かに、値上げを前提とせずに始めた既存店が苦しむ中、梅市は“いま”に合わせたスタートダッシュを切れた。
「もちろん楽じゃないですけど、物価高騰で苦しいのはどこも一緒だと思っています」
そして店を開く以上は味にこだわる。天ぷらの揚げ直しはもちろんだが、もうひとつ、味に関して外せない話がある。麺だ。
「いろんな製麺所を試したんです。どこの麺がいいかなって、食べ歩きの際も気にしながら見ていました。ですが、ピンとくるところがなかなかなくて……」
そんな中、ふと通ったことのない裏路地で偶然見つけたのが「岩野製麺所」。
「本当にたまたま見かけて、小売りもしていたので購入。家で食べてみたらすごく美味しくて。家族にも好評。これだって思いました」
梅市で提供されるのは、その岩野製麺所の生麺。少し太めで、冷やしにすると特にコシが際立つ、モチモチの食感が特徴的だ。店主イチオシの「冷やし肉ラー油そば」は、この麺のポテンシャルをフルに発揮した一杯となっている。
「ただ、太い分、茹でるのに3分くらいかかるんです。だからお客さんをお待たせしちゃうこともあって……。でも、少し待ってもらってでも、美味しいのを出したいという思いがあります。それだけはちょっとこだわってますね」
開店から2か月ちょっとでまさかのハプニング
そうしてようやく開店した念願の自分だけの城。だが軌道に乗ったとたんに、トラブルが襲う。
「ある日、足がすごく腫れちゃって……。熱も39度くらい出て。営業中だったんですけど、閉店15分くらいに前に、無理だと思って店を閉めて、病院に行ったら即入院することに。そこから、1か月以上休業することになってしまいました」
ようやく店に立てるようになったのは7月半ばのこと。時間を短くしながらの営業再開。以前来てくれていた常連の姿はまだ戻りきっていないが、「また一から、積み上げていくしかない」と語る。
「やっぱり“おいしかった”って言われると、うれしいんですよね。自分でつくって、自分で出して、それで喜んでもらえるっていうのが、一番やりがいになります。常連さんの定着は、それだけおいしいと思ってくれているんだという励みになっています」
これからは新メニューの開発など、飽きられない工夫も続けていきたいという。まさに、自分ひとりに決定権があるからこその楽しみだ。
50歳を過ぎて一から修業を重ね、自身の理想をかたちにした店主。
取材・文/ライター神山