〈50代母が若年性認知症に〉スーパーで卵を買えない、家族を忘れ徘徊・暴言…それでも「母と一緒にいたかった」親子の10年間
〈50代母が若年性認知症に〉スーパーで卵を買えない、家族を忘れ徘徊・暴言…それでも「母と一緒にいたかった」親子の10年間

『長いお別れ』(中島京子著)のタイトルで小説・映画にもなった認知症は、少しずつ記憶をなくし、その人らしさが失われていくような独特の喪失感を家族にもたらす。 

 

高齢者の病気と思われがちだが、65歳未満で発症する「若年性認知症」もある。

近畿地方に住む田中花畝(女性/仮名)さんの母親は、50代で認知症を発症した。病気と向き合った10年間の話を聞いた。 

「いつかよくなる」と信じていた認知症初期 

きっかけは母親が50代のときの脳腫瘍だった。手術は成功したが、近所に住む知人の家がわからなくなったり、話が噛み合わず周囲から心配されたりするようになった。

東京で働いていた当時20代の田中さんは、ちょうど帰郷を考えていたこともあり、母親と暮らすことを決める。後に医師からは脳血管性認知症とアルツハイマー型認知症の混合型ではないかと指摘される。

「若いので誰も認知症とは思わなくて、高次脳機能障害とか手術の後遺症なのかなと思ったんです。だから一緒に生活するうちにいずれ元に戻ると思っていました。

体は元気ですし、見た目は普通の50代の女性なので。食生活を見直したり脳トレをさせたり、本に書いてあることを全部やってみるような感じで」(田中さん、以下同)

それまでパートタイムで家計を助け、家事をこなしてきた母親。若い頃から病気がちだったが、「もし生まれ変わったら次は健康な体で生まれてくる。そのためにこの体の中にある病気を、今の人生で全部出し切って闘うから」と前向きに体調管理をしてきた。しかし認知症発症後、徐々に計算ができなくなったり、数分前に話したことを忘れてしまうようになった。

「物忘れが始まって、すごく不安そうにしていました。『認知症になりたくない』とよく泣いていました。進行するにつれ、好きだった趣味も好きじゃなくなって、無表情で気力がない感じになっていきました」

スーパーに母親ひとりで卵を買いに出かけ、何も買えずに戻ってきたときのことを田中さんは強く覚えている。その際、失意の母親に一瞬だったが、あきれた顔を見せてしまったことを田中さんは今でも激しく後悔している。料理などの複雑な家事は、母親ひとりでは難しくなっていた。

「よく店のレジ袋を小さく折りたたんで、ゴミ袋に再利用したりしますよね。この頃の母は、それを朝から晩まで折っているんです。『そんなに折らなくていいよ』って言っても、ずーっと折り続けてる。父がきれい好きだったので、母なりに意味があったのかなって」

暴言や徘徊で怒涛のように過ぎ去った数年間 

在宅介護が始まって数年が過ぎる頃、「行動・心理症状(BPSD)」が生じた。もともと内向的で大人しく、子どもたちの話もひたすら傾聴するような優しい母親だった。しかし入浴や歯磨きを嫌がって暴れ、徘徊・幻覚・暴言・暴力・不適切な排泄なども始まる。別人のような変貌ぶりだが、田中さんは衝撃を受けなかったという。

「私の場合はもう必死すぎて。

寂しいとか辛いとかよりも、とりあえず今日一日、自分も含めてどうやって生きようかっていう感じでした。母が大声を出さないように、徘徊しないように、人様に迷惑をかけないように……。

50代は体力もあるので、本気で走り出すと家族も見失うんです。感傷にひたっている時間がなかったです。この数年間は時系列もよく覚えていないくらいで」

悲哀や喪失感というのは、ある程度の余裕があるからこそ抱く感情なのかもしれない。母親は家族の顔も忘れつつあったが、それも田中さんは冷静に受け止めた。

「母は私のことを殺人犯だと思っていました。一番身近な人を泥棒だとか犯罪者だと思い込むのはよくあるらしく、介護拒否も強かった。ただ、私自身悲しんでいる余裕はなくて『教科書通りだな』なんて考えていました。当時は感覚が麻痺していたんでしょうね」

どんなに大変でも施設入所が頭をよぎることはなかったという田中さんだが、それでも近隣への影響は生じた。夜間の足音を軽減するため、母親に分厚い靴下を履かせたことを田中さんは今でも後悔している。

直後に母親は病気で入院し、それ以降、自力歩行ができなくなったからだ。

しかし同時に認知症は末期に達し、行動上の問題が消失して穏やかな日々が訪れた。

「認知症は決して悲劇的な病気ではない」 

母親は車椅子生活となり、今は自発語もほとんどない。田中さんは結婚して実家の近くに住み、ショートステイも活用しながら介護を続けている。

「家族は私が介護することには反対でしたし、いつでもやめていいと言われています。ただ私が母と一緒に居たかったんです。ずっと病気がちだった母の頑張りを見てきて、介護というより『お母さんが最期まで闘い切るのを支えるんだ』という気持ちで」

最近、空洞でいっぱいの母親のMRI脳画像を見て、田中さんは改めてショックを受けた。現実を受けいれているつもりでも、心のどこかで「いつかお母さんが覚醒して、会話ができる日が来るのではないか」と期待していた自分に気づいたからだ。

「自分の親のことなので恐縮なんですが、うちの母親は背も低くて目もくりくりと大きくて、毎日ニコニコとすごくよく笑ってくれて、今の母が可愛くて仕方がないんです。

でも一方で、もし魔法で『お母さんを元に戻してあげますよ』って言われたら泣いて喜ぶと思います。もう一度、天気の話とか食事の話とか、特別なことじゃなくても話ができたらいいのになって……たぶん私の中でも強がっている自分と、本音の自分が交差しているのかなと思います」

しかし田中さんは認知症を決して悲劇的な病気だとは考えていない。社会的な制度も整い、ずいぶん助けられていると話す。

「医療関係者も福祉関係者も真面目で誠実な方が多くて、恵まれていると感じます。

認知症ってすごく怖い病気だと思われていて、母も泣くほどでしたが、そんなことはない。生活はちゃんと続いていくし、当事者の尊厳が守られていることを知ってもらえたらなと……」

母親との日々を、田中さんはコンテンツ投稿プラットフォーム「note」でエッセイにしている。時間は有限だからこそ、今できていることをありがたく思って毎日を過ごしたいと話す。

取材・文/尾形さやか 

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