
千葉市で人気を博している平壌冷麺の店「ソルヌン」を夫婦で営む文蓮姫(ムン・ヨンヒ)さん(34)に冷麺のルーツをたずねると、朝鮮半島と日本をまたぐ家族史が浮かんでくる。日本から来た元在日朝鮮人の一家に生まれたことが人生の障害になると気づき、脱北を決断したと文さんが振り返る。
祖父は朝鮮労働党の地方組織幹部、父は朝鮮人民軍関係の重職
――北朝鮮ではどのような生活でしたか?
文蓮姫(以下、同) 私は東部の元山で1991年に生まれました。父方の祖父は在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の創成期の幹部で、(1959年に始まった)在日朝鮮人の「帰国事業」を率いる形で北朝鮮へ渡り、望んで暮らした元山で朝鮮労働党の地方組織幹部も務めました。
父も朝鮮人民軍関係の重職にいたので、日本や韓国の生活レベルとは比べ物になりませんが、それでも食事に困るようなことはなく、中学生の途中で平壌に引越し大学も卒業しました。
でも祖父は北朝鮮が想像していた国と違ってストレスをためたのか早く亡くなり、父もよく北朝鮮の国に対して「くそ」と悪態をついていました。その時だけは日本語でした。
――北朝鮮で在日出身のかたは苦労をされたと聞きますが。
在日出身者は北朝鮮で出身が悪いとされ、地方の厳しい職場に配属され苦しい生活をした人がほとんどで、私の家族のような人は数パーセントだと思います。
元山ではピアノも習いました。一緒に通った子のお母さんがアメリカとか韓国の映画のDVDを売って金儲けをしたという罪で私が中学生の時に公開処刑にされ、それを見学させられました。
銃殺刑で、一発でも十分なのに何発も…。付き合いのあった人に死刑を見せて恐怖を与える目的だったと思います。でも私は殺すほどのことなのかと思って、その後、逆に韓国ドラマを見るようになりました。その前も家族で『タイタニック』を見たことはありましたが。
――それが脱北の理由ですか?
いえ。ショックでしたがそれは脱北を考える10年ほど前のことで、韓国ドラマを見ることも怖いと思いませんでした。当時はDVDなどの販売は死刑でしたが、観ることも厳罰になったのは私が高校生になったころだったと思います。
「この国はだめだ」と言い続けた祖母の勧めで脱北
――家族と料理とのかかわりはどのようなものですか?
済州島(韓国南部)の海女だった母方の祖母は1930年代ごろに日本に渡り、同じく済州島出身の祖父と結婚し、大阪で革製品の工場をやっていたそうです。
その後東京に行き、母が生まれた後の1960年代中盤に帰国事業で北朝鮮へ行き、南西部の海州(ヘジュ)で料理関係の企業所で勤めた後、祖母が平壌冷麺の店を始めました。あの時代に自分の店をもつのはかなり異例なことだったようです。
その娘である母は看護師でしたが、父と結婚後に料理の研究をする「料理士」になり、平壌に引っ越した後、ついには北朝鮮で最高の「高麗ホテル」の地下に場所を借り、店を開くまでになりました。
――どうして脱北を考えたのですか?
私は平壌の商業大学を卒業しましたが、大学の時に父が亡くなりました。すると後ろ盾を失った母に当局の圧力が強まったんです。店で、禁止されていることをしたと言われたり……。私自身も卒業後に決まっていた人民軍部隊への配属が取り消されました。
そこは賄賂も使ってつかんだいい配属先で、そこでの勤務の後は大学で学んだマネジメントの道へ進むことを考えていたのですが、それがなくなった。金日成(主席)と抗日闘争を一緒にしたという人物の孫娘がそこへ配属され、私は出身が問題になってこの先もチャンスはないと祖母に言われたんです。
その祖母は「生まれた済州で死にたい」と言って2014年に一度脱北しました。でも中国で捕まって送還され、収容所に入れられました。出てきた祖母は「この国はだめだ」と言い続け、私に脱北しなさいと勧めたんです。
それで私が先に脱北し、母は当時人民軍にいた弟が戻ってきたら一緒に脱出することを決めたんです。
辛くて北朝鮮に戻ろうかと思ったほど過酷な脱北体験
――脱北のことを教えてください。
2015年5月に北朝鮮北部の恵山(ヘサン)から鴨緑江を越えて中国へ出ました。ブローカーに3000~4000ドルを支払いました。中国に入り、渡されていた携帯電話で電話をかけようとしましたが、電波がない地域で通じない。それで道がない山を48時間、飲まず食わずで歩き続けました。辛くて北朝鮮に戻ろうかと思ったほどでした。
本当に幸運なことに車に乗せてくれた中国人に、電波が通じる場所まで連れて行ってもらい中国側のブローカーに会えました。電車で中国南部の昆明まで行き、そこから車で南のラオスとの国境を目指しました。
ところが途中の検問で拘束されました。係官を買収しようとしてもだめで、「もう最後だ。北朝鮮に送られる」と絶望して自殺も考えました。でも理由は分からないのですが13時間ほどして釈放されたんです。奇跡としか言えないです。
――それで脱出に成功したんですね。
最後は中国とラオスを結ぶバスで国境を越えました。他に2人の脱北者カップルと一緒で、客席の下にある狭いスペースに3人が隠れラオスに着きました。鴨緑江を渡って9日か10日後のことです。
保護されたラオスの韓国大使館には脱北者が150人ほどいて、韓国への移動に順番待ちで4か月ほどかかりました。それから社会に定着する教育を受けて社会に出ました。アルバイトをした後、出版社に就職しました。
母と弟は2016年11月に、弟が軍隊でけがをして治療で家に戻って来た機会に脱北に成功しました。母は韓国の料理事情を調べ、2019年にソウルに店を開きます。私はそこで働き、当時食べに行った焼肉屋を経営していた旦那さん(夫の勝又成さん)と知り合って結婚したんです。
そして彼も私たちの店に入り、母が一対一で料理を教えました。それで去年3月に千葉に新しいお店を開くことになったんです。
――脱北したことを振り返ってどう思いますか?
北朝鮮はコロナ禍で国境警備を厳重にし、今だと脱北はとても無理でしょう。私は祖母に勧められるまで脱北という言葉も知りませんでしたが、祖母が言わなかったとしても、きっと私は脱北していたと思います。
失敗して北朝鮮に戻されたとしても、また必ず脱北していたと思います。
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班