「エーッとか思ったんだけど…」松任谷由実、デビューの惨敗を払拭した『ひこうき雲』の誕生秘話…「スーパー・ヤング・レディー」の大逆転劇
「エーッとか思ったんだけど…」松任谷由実、デビューの惨敗を払拭した『ひこうき雲』の誕生秘話…「スーパー・ヤング・レディー」の大逆転劇

1月19日に72歳の誕生日を迎える松任谷由実。今なおポップスの最前線で歌い続ける彼女のデビューは決して華やかなものではなかったが、その後、生み出されたアルバム『ひこうき雲』は、日本の音楽史を変えた1枚だ。

その名盤の誕生の裏側を振り返る。

村井邦彦が見抜いた高校時代のユーミンの才能

1966年のビートルズの来日公演から数年ほどが経過した頃、「ニュー・ミュージック」と呼ばれる歌が日本で登場してきた。

マスメディアの一部で使われ始めたその言葉は、「サウンドからも歌詞からも“新しさ”を感じさせる日本語の歌」というような意味だった。

それまではフォークあるいはロックというジャンルに分けられていた。ところが1972年から73年にかけて、新しいタイプの歌が出てきた。

アコースティックギター2本とウッドベースなのに、ソウルやブルースを感じさせるRCサクセション。ビートルズやボブ・ディランの影響を感じさせる井上陽水。スターのオーラを放っていた吉田拓郎のポップな曲などには、「ニュー・ミュージック」と呼ぶに値する“新しさ”があった。

歌謡曲を作っているプロの作詞家や作曲家からは生まれてこない“新しさ”を感じさせる作品は、シンガー・ソングライターの手によって生まれてきた。

そしてアルバム全体で「ニュー・ミュージック」だと思わせた最初のアーティストが、1973年11月にファースト・アルバム『ひこうき雲』をリリースした荒井由実(松任谷由実)だろう。

セカンド・アルバムの『ミスリム』も含めて、ユーミンの歌と音楽は、音楽面で画期的かつ革新的なところがいくつもあった。

そこに必要不可欠だったのが、サウンドにおける新しいビートやグルーヴであり、日本語の表現者としての文学的なセンスだった。

荒井由実のデビュー・シングル『返事はいらない』は1972年7月に発売されたが、そのタイトルや歌詞には、明らかにユーミンだという“新しさ”が刻まれていた。

歌詞は男性に宛てた女性から手紙が主題で、「返事はいらない」というタイトルからして、相手を突き放している。そこには主体的に行動する女性の決断力が感じられる。

女性の意志をこれだけはっきりと打ち出した歌のタイトルは、大正から昭和にかけての流行歌や歌謡曲の中にはほとんど見当たらない。

このシングルが制作されることになったのは、高校生だったユーミンの音楽的な才能に気づいた音楽家の村井邦彦が、シンガー・ソングライターとしての可能性を試したかったからだ。ユーミンはそもそも作曲家志望で、ソングライターを目指して村井のもとに通っていた。

この時に村井がプロデューサーに起用したのが、かまやつひろし。1970年にスパイダースが解散した後にジャンルを超えてソロ活動していた時期だった。

かまやつはユーミンのために、自分の周りで気に入っていた若くて将来性のあるミュージシャンたちを集めてきた。

サディスティック・ミカ・バンドに加入したばかりの高橋幸宏と小原礼は20歳。レコーディング直後に『学生街の喫茶店』がブレイクするガロや、デビュー前だったフォークデュオのBUZZも全員が20代の前半だった。

しかし、自然体でイギリスのストレートなロックにしようと考えていたムッシュと、細かいところも妥協しないユーミンとの初仕事は、いまひとつ歯車が合わなかったという。

空振りに終わった“スーパー・ヤング・レディー”

もうその頃からユーミンは思い立ったらすぐに行動し、19歳にして自分の手で問題を解決していく決断力を持っていた。最終的にはプロデューサーがかまやつひろし、作詞・作曲・編曲・指揮・ピアノ・ハモンドオルガン・歌が荒井由実とクレジットされた。

しかし、キャッチフレーズ「シンガー&ソング・ライター界のスーパー・ヤング・レディー!!」のデビューは、空振りに終わってしまう。ほとんど注目されなかったシングル『返事はいらない』は、まったく売れなかった。

一方のエグゼクティブ・プロデューサーの村井は、「レコーディングに慣れることで歌に対する苦手意識がなくなればいい」と、余裕を持って構えていた。そして出来上がりを聴いたうえで、アルバムのレコーディングでもう一度トライしようと考えたという。

プロデューサーやミュージシャンを変えることで、新たな化学反応が起こることを期待してのことだった。村井は最も信頼していた細野晴臣に力を借りて、アルバム『ひこうき雲』を自らプロデュースするのである。

『ひこうき雲』は、1973年の初夏に本格的なレコーディングが始まった。演奏を担当したのは、結成間もないキャラメル・ママだった。ユーミンの作る楽曲に期待をかけていた村井は、元はっぴいえんどの細野晴臣にアレンジを頼むことにした。

その頃の細野は、アラバマ州の外れにある小さな町、マッスルショールズのスタジオで仕事をするミュージシャンたちが作り出す、独特のサウンドに強く惹かれていた。

アメリカにはそうしたミュージシャンのチームやスタジオがいくつか存在し、そこでしか出せない独自のサウンドによるヒット曲や傑作アルバムが生まれていた。

1973年2月から3月にかけてレコーディングした初のソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』は、リラックスできる自宅で細野が気の合うミュージシャンたちと、およそ1か月かけてセッションしながら仕上げたものだ。

そこに集まったミュージシャンたちとチームを組んで、その後も活動したいと思って結成されたのがキャラメル・ママである。はっぴいえんどから細野晴臣と鈴木茂、小坂忠のバック・バンドだったフォー・ジョー・ハーフから、林立夫と松任谷正隆が参加した。

当時のレコーディングといえば、そのほとんどは、編曲者が書いたパートごとの譜面をもとにして、ジャズ出身のミュージシャンによるコンボ、またはフルバンドで吹き込むスタイルだった。そこではスタジオに集まった大人数のミュージシャンたちが、機能的に効率よく短時間で仕上げることが基本になっていた。

それに対してキャラメル・ママの場合は、少人数で譜面を用意しないことが多く、リズム・セクションによるヘッド・アレンジに特徴があった。簡単なコード譜や歌詞を手がかりにお互いのフィーリングを尊重し、アイデアを出し合いながらスタジオでじっくり仕上げていく方式だ。

ただし、時間を気にせずにセッションしながら作るとなれば、1時間単位で料金をカウントされるスタジオでは、コストが掛かり過ぎることが問題になる。

しかし、村井は荒井由実に対して、「ユーミンの音楽とブレンドすればきっと素晴らしい作品になるんじゃないか」と、キャラメル・ママとのセッションでレコーディングすることを提案した。

ユーミンの歌の拙さが耳についた…

だが、イギリスのハード・ロックやグラム・ロックが好きだった荒井由実は、アメリカのウェスト・コーストや南部のサウンドにはまるで興味がなかった。

「私ああいう土臭いバンドとかの系統やボブ・ディランは全然聴いてなかったし、嫌いだったわけ。だからエーッとか思ったんだけど、ともかくそれで録音して出したわけ。もう夢中でアルバム作った」

この時に大きな幸運だったのは、村井が念願の自社スタジオをオープンした直後だったことである。

社長である村井の判断で制作費のことなど気にせず、思う存分好きなだけ時間を使えることになったのだ。

村井は初めから、制作に掛かるコストを無視していた。売上げや回収など考えたこともなかったという。最新鋭のマルチ・レコーディング機器が揃ったスタジオが完成し、そこに最高のミュージシャンたちが集まった。恵まれた環境の中、レコーディングはすこぶる順調に進んだ。

しかし、ユーミンには長く辛いヴォーカル録音が待っていた。レコーディングのディレクターだった有賀恒夫が、その当時をこう振り返っている。

「肝心の歌入れは難航しました。いざ録ろうとすると、バックの演奏レベルが高いだけに、ユーミンの歌の拙さが耳についたんです。どうしてなんだろうと考えてみると、彼女の声はずっと細かく震えていたんですね」

“ちりめんビブラート”と呼んでいた細かい声の震えをなくすようにと、有賀はサジェッションして徹底的に追求した。こうしてユーミンのノン・ビブラート唱法が編み出されたのだ。

「私の歌い方はビブラートが綺麗にかかんないし、それだったらビブラートをなくしちゃえって言われて、ノン・ビブラートになったのが今も続いてるわけ。

偶然が重なっているんだよね。私の詞とか曲とかっていうのは、ノンビブラートで歌うことが合ってたのかもしれない。すごく無機的に突き放して歌ったほうがいいのかもしれない。それが新しさだったのね」

若いながらも、時には厭世観さえ漂う詩による、ファンタスティックな世界と色彩を感じさせる新鮮で豊かな音楽の深み。そして日本語のロックを確立したはっぴいえんどの系譜を受け継ぐ、キャラメル・ママのサウンドが絶妙にブレンドされて化学反応を起こした。

こうして、アルバム『ひこうき雲』は、日本の音楽史に新しいページを開いた。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP

参考・引用
『ルージュの伝言』(松任谷由実著/角川文庫)
『週刊現代Special 2016年新春特別版』

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