「死んどるのに死んどらん」生死すら不明の「幽霊戸籍」の人々…広島・原爆供養塔に眠る7万人の名もなき犠牲者と今も続く家族探し
「死んどるのに死んどらん」生死すら不明の「幽霊戸籍」の人々…広島・原爆供養塔に眠る7万人の名もなき犠牲者と今も続く家族探し

アメリカ軍による原爆投下から80年が経った今でも、広島では800人を超える犠牲者の遺族もまだ見つからず、7万人もの身元不明者が供養塔に眠っている。世界で唯一の被爆国である日本には「核」の悲惨さを伝え続ける義務がある。



書籍『原発回帰を考える 3.11から15年目の大転換』から一部を抜粋・再構成し、被曝の惨状を伝える広島平和記念資料館に展示されている「人影の石」に刻まれた物語を紹介する。

忘却に抗って書く─「負の記憶」を伝えるために

原爆供養塔納骨名簿遺族を捜しています

夏が近づくたびに広島市内や各自治体に掲げられるポスターがある。「原爆供養塔納骨名簿遺族を捜しています」と書かれた下には、800人を超える犠牲者の名前が並ぶ。

「氏名に心当たりのある方は、お知らせください」との呼びかけにもかかわらず80年以上過ぎても名前が記載されたままなのは、名乗り出るべき人々もおそらく一緒に犠牲になってしまったということなのだろう。

原爆供養塔には、名前しか判明していない方々と共に名前さえ判明していない7万人のお骨も納められている。数でしかない人々だ。

数でさえない人々もいる。市が一瞬で壊滅したために、いまだに行方や身元の知れない人々が、文字通り数え切れないからである。

2025年初夏、一人の方の身元が判明した。80年かかってようやく「この世にいた一人の人間」として親族にまみえることができたのだ。しかし同じ夏、新たに供養塔に祀られた遺骨や遺灰もあった。前の秋、安佐北区の寺で見つかった名前も数も知れぬ犠牲者のものである。

私が高校生だった頃──戦後四半世紀以上経った1970年代──になってもなお、広島では誰かを捜している人が大勢いた。

街で見かけた人に追いすがっては顔を確かめる老婦人、子どもが行方知れずになった場所に立ち続ける母親。まるで今朝出ていった人のことのように「うちの娘がのう……」と話し始めるのをよく聞いてみれば、あの日出かけたきり帰ってこなかった身内の話だったりする。

身近にも、ずっと母親を捜していた人があった。

あの朝、銀行前の石段には一人の女性が座っていた。開店を待っていたのである。夫は数年前になくしていた。娘が一人あった。銀行から生活費を引き出したら、娘の待つ疎開先の村に戻る予定だった。実はこの女性は私の姻戚にあたる。名前を越智ミツノさんという。

うつむいて考え事をしていたようだと、最後にミツノさんを目撃した隣人は語った。オート三輪で銀行前を通りかかって声をかけたら、顔を上げて平素のように優しい表情で挨拶を返してくれたと。

その場を隣人が離れてまもなく、午前8時15分、廣島市の上空で原子爆弾が炸裂した。空には巨大な火球が出現し、途方もないエネルギーが放出されて地表温度は3000度から4000度にもなった。銀行は爆心地から260メートルしか離れておらず、ミツノさんが座っていた石段は爆弾が投下された方向を向いていた。ほぼ即死したであろう。

遺体収容にあたった兵士の証言によると、頭のない黒焦げの身体を持ち上げたら、石段に濃い緑色のあとかたが残っていたという──人のかたちの〈影〉が。〈影〉とはなんだったのか。人の〈影〉だけが残されるというようなことがありうるのだろうか。

長いあいだ一般に理解されていたのは、黒い御影石の階段が強烈な熱線によって白変したが人が座っていた部分だけ盾となって黒いまま残った、という説明だった。

ミツノさんの一人娘幸子さんは、疎開先から市内の実家に戻って母を捜し回った。実家の留守を預かっていた下宿人の話から、ミツノさんは原爆が炸裂した時間には銀行にいたのではないかと思われた。だが、銀行周辺にも救護所にも姿はなく、ミツノさんの行方は杳として知れなかった。

終戦から数日後、ミツノさんがいつも身につけていた火災保険証書が届けられた。

暁部隊の兵士が銀行前で拾得したという。不思議なことに、封筒の端がわずかに焦げていただけだった。原爆投下時、塀などの遮蔽物のおかげで被害が減じたり奇跡的に助かったりした例が報告されているが、この封筒も物陰にでも吹き飛ばされたのだろう──激烈な爆風によって。

〈影〉の主

それから数年後、幸子さんは銀行前の階段に残る黒い〈影〉のことを知った。石段に残る人影は被爆モニュメントの一つとして認知され始めていたのである。幸子さんは〈影〉は母のものに違いないと思い定めて、たびたび手を合わせに出かけた。

峠三吉(1917~1953)が当時の石段を描いた詩がある。

ペンキ塗りの柵に囲まれた
銀行の石段の片隅
あかぐろい石の肌理にしみついた
ひそやかな紋様

あの朝
何万度かの閃光で
みかげ石の厚板にサッと焼きつけられた
誰かの腰

うすあかくひび割れた段の上に
どろどろと臓腑ごと溶けて流れた血の痕の
焦げついた影

(峠三吉「影」より、『原爆詩集』青木書店、1952年)

緑色だったという〈影〉は次第にコールタールのような黒色に変化し、その色も時と共に薄れていった。劣化を危ぶむ声から1971年、石段を切り取って平和記念資料館に収蔵、展示することが決まった。

その際、幸子さんが事情や証言を伝えて石段の一部を所望すると銀行側は快く応じた。幸子さんは、もらった石段のかけらを二つに割って一つを墓に、もう一つを仏壇に納めたのである。

石段移設の報道がきっかけとなって、さらに複数の証人が現れたが、それでも、人影が越智ミツノさんだとは公には認められなかった。

親族や関係者の助力も得て、幸子さんの申し立てがようやく認められたのは1997年のことだった。

平和記念資料館に「……この人影は、自分の母親である越智ミツノさん(当時42歳)ではないかと申し出がありました」という解説パネルが追加されたのである。原爆投下から52年が経っていた。

だが、それもしばらくのことだった。2009年にそのパネルが取り払われた主な理由は、

「〈影〉の主は、もしや自分の家族ではないか」と申し出る遺族が他にもあったためである。繰り返すが、広島にはあの朝から現在に至るまで大切な人を捜し続けている人々がいるのだ。

8月6日のうちに約7万人、年内に約14万人が亡くなったと言われているが、実のところ犠牲者数は正確に把握できていない。ジェノサイドのほとんどの例と同様である。

戸籍自体は、市役所が疎開させていたおかげで残ったものの、ことに爆心地では地域全体が壊滅したために一家全滅の例も多かった。生死すら不明で、いまだに「死んどるのに死んどらん」人々がいるのである。このような戸籍は「幽霊戸籍」と呼ばれる。

ミツノさんも、あの朝忽然と姿を消してしまった一人だった。消息がどうしても得られなかったために家族はミツノさんの死亡届を出したが、さもなければミツノさんも「幽霊戸籍」の一人になっていただろう。

ただ幸子さんは、届を出した後も「もしかしたら、おかあちゃんは、どこぞで生きとるんじゃなかろうか」という希望が心から去らなかったと言う。後年、一時とは言え、ミツノさんが〈影〉の主と認められたことで、ようやく諦めがついたと。

文/朽木祥

原発回帰を考える 3.11から15年目の大転換

著者:吉田 千亜、桐野 夏生、鈴木 達治郎、朽木 祥、浅田次郎、野上 暁、橋爪 文、青木 美希、落合 恵子、吉岡 忍、金平 茂紀、ドリアン 助川、編者:日本ペンクラブ
「死んどるのに死んどらん」生死すら不明の「幽霊戸籍」の人々…広島・原爆供養塔に眠る7万人の名もなき犠牲者と今も続く家族探し
原発回帰を考える 3.11から15年目の大転換
2026年2月16日発売1,210円(税込)新書判/256ページISBN: 978-4-08-721399-7

原発新設方針に大きく舵をきった日本政府。
原子力と日本の未来をいま一度問う

原爆被爆から80年の2025年、日本政府は原発新設方針に大きく舵を切り、核活用拡大に転じた。
原発低減・再生エネルギー最優先をやめるという、3.11の原発事故以降最大の方針転換だ。
2026年3月は、福島第一原発事故からちょうど15年。レベル7のあの事故からたった15年で原発回帰へ。
大転換の背景にいったい何があったのか。そもそも地震国日本で原発は可能なのか。
原発事故以降最大のこの政策転換に、我々は今何を学び、何を考え、何をすべきなのか。
原子力と日本の未来について、作家、ジャーナリスト、詩人、研究者らが思いや提言を熱く語る。

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