円安が生む「NISA貧乏」が急増か…IMFが日銀に突きつけた“最後の警告”の中身〈金利据え置きは最悪の選択〉
円安が生む「NISA貧乏」が急増か…IMFが日銀に突きつけた“最後の警告”の中身〈金利据え置きは最悪の選択〉

IMFの勧告を「利上げするか、しないか」の話だと受け取ると、本質を見誤る。いま市場が突きつけているのは、円安と物価高の負担を誰が引き受けるのかという問題だ。

政策が動かなければ、市場が先に引き締めを進め、そのツケは家計に回る。生活費を削りながら積み立てを続ける人々の中で、「NISA貧乏」が静かに増え始めている。

IMF勧告の本質は「利上げするか否か」ではない

今回のIMF勧告を、単なる国際機関の定型文として受け流すなら、相場の温度を見誤る。いま日本に突きつけられているのは、「利上げをするか、しないか」という表面的な選択ではない。

本質は、円安と物価高の負担を誰が引き受け続けるのか、その請求書をどの順番で清算するのかという再配分の問題である。

IMFは日銀に対し、段階的な利上げ継続を求めた。この“段階的”という言葉を軽く見てはいけない。これは先送りの免罪符ではなく、中立金利へ向けて歪みをほどいていけという圧力そのものだ。

年内は1%台前半、最終的には1.5%、さらには2%近辺という水準が視野に入る以上、市場はすでにその先を織り込み始めている。ターミナルレートとは終着駅ではない。市場が「ここまで来るべきだ」と先に価格で提示し、それに政策が追いつくかどうかを問う指標にすぎない。

市場が先に引き締めを始めている

その意味で、いま起きていることは明確だ。政策が市場をリードしているのではない。市場が政策を追い立てている。

すでに長期金利は27年ぶりに2.41%を突破した。これは日銀が引き締めているのではない。市場が先に引き締めを始めているということだ。

政策金利がゼロ近辺に張り付いたままでも、資金コストは上がり、生活コストは上がる。それは緩和ではない。家計だけに効いてしまう、最も質の悪い引き締めである。

為替はさらに露骨だ。為替が152円なら2%、162円なら2.5%という水準感を市場が意識し始めているとすれば、現在の政策金利との乖離はあまりにも大きい。つまり市場はすでに「最終的にそこまで来るべきだ」というターミナルレートを逆算している。

最終的に1.5%、さらには2%近辺という水準感自体は、もはや違和感のある話ではない。問題は、そこにどう到達するかだ。日銀が主導して段階的に近づくのか、それとも市場が先にその世界を作り上げ、後から政策が追いかけるのか。

この違いが決定的な意味を持つ。

据え置きは「市場に引き締めを委ねるという、最も荒い選択」

前者であれば調整は分散される。小さな利上げを積み重ね、為替も徐々に落ち着き、負担は時間をかけて吸収される。しかし後者の場合は違う。日銀が動かない、あるいは遅れれば、為替はさらに円安へ振れ、長期金利は一段と上昇し、結果として“2%の世界”が市場主導で先に到来する。

そこに政策が追随する形になれば、調整は一気に表面化する。水準は同じでも、中身はまったく別物になる。前者は正常化、後者は逆回転である。

そして現状は、すでに後者に限りなく近かった。あるいは、すでに後者だった。

では、ここで据え置きを選べばどうなるか。一見すれば、中東情勢や原油高を理由に慎重姿勢を保つことは合理的に見える。しかし市場はそうは受け取らない。

「円安を止める意思がない」「政策は政治に縛られている」と解釈する。

その瞬間、為替はもう一段円安へ走り、輸入インフレは加速し、長期金利はさらに押し上げられる。つまり据え置きとは何もしないことではない。市場に引き締めを委ねるという、最も荒い選択である。

この構図の中で、誰が立ち行かなくなるのか。

「投資は自己責任」と片づけられるNISA貧乏

最初に削られるのは家計である。円安で輸入物価が上がり、エネルギーが上がり、物流が上がる。最後は日々の生活費に跳ね返る。今回の物価上昇は賃金で吸収できる範囲を超えつつある。

そこに原油高が重なれば、体感インフレは一気に跳ね上がる。消費税を数%動かしたところで意味はない。名目の減税より実質の物価上昇のほうが速ければ、「減税したのに苦しい」という矛盾が生まれる。

しかも、その苦しい生活費を削ってまで、政府の旗振りに背中を押されるようにNISAへ積み立てている人が少なくない。

上がっているうちは誰も文句を言わない。だが、ひとたび相場が逆回転し、評価損が膨らみ始めたとき、自己責任という言葉は急に冷たくなる。

紆余曲折あっても10年で見ろという正論は、その途中で生活が持ちこたえられる人間にしか通用しない。日々の生活費に追われながら、将来不安に怯え、それでも積立をやめられない。

その先で下落に耐え切れず、恐怖におののいて評価損を確定させるなら、それは資産形成ではない。政策に促されて始めたはずの制度が、最後には自己責任の一言で片づけられる。その残酷さまで含めて、いまの円安容認政策のツケなのである。

価格転嫁や為替差益の余地がない中小企業

次に痛むのは中小企業である。大企業には価格転嫁や為替差益の余地があるが、中小はそうはいかない。輸入コストをかぶり、価格転嫁もできず、資金コストの上昇に直面する。低金利と円安に最適化された構造の裏側で、現場は静かに圧迫されている。

そして最後に責任を問われるのが政権である。とりわけ、円安を一定程度容認し、その果実を前提に政策運営を続けてきた高市政権は、この帰結から逃れることはできない。

国民は金利や為替ではなく、生活で判断する。

円安容認、物価高容認、補助金でつなぎ、口先で市場をけん制する。その積み重ねの先にあるのは、市場に価格決定を委ね、政治が不満だけを引き受ける構図である。数字が持ちこたえていても、体感が崩れれば支持は離れる。

ここで忘れてはならないのが、相場の本質である。学者やエコノミストたちが声を揃えて、少子化で経済成長が止まった日本の円は理論的に高くなる道理がないと言い切るようになったとき、その瞬間こそが転換点になる。

誰もが同じ方向を向いたとき、価格はすでにそれを織り込み尽くしている。あとは前提がわずかに崩れるだけで、流れは反転する。

今回の円安も同じだ。すべての論理が円安を正当化する。しかし、その“正しさ”が極まったとき、相場は逆に動く。市場は常に少数派が勝利する。

誰もが「もう二度と円高にはならないだろう」と確信した瞬間に、円高への反転は静かに始まる。

IMFの勧告は逆回転が始まる前の最後の警告

すでに長期金利は2.41%に達し、為替は2%から2.5%という金利水準を要求している。この乖離が広がるほど、調整は荒くなる。政策が小さくでも動けば、それはまだ制御された正常化で済む。

しかし動かなければ、為替と金利が同時に巻き戻る形で逆回転が起きる。調整は理屈ではなく、価格で起きる。それが相場だ。

IMFの勧告は、その逆回転が始まる前の最後の警告に近い。利上げしても痛みは伴う。だが、しない痛みは遅れて、より大きく、より深く効いてくる。真っ先に痛むのは家計であり、次に中小企業であり、最後に政治がその代償を引き受ける。

いま問われているのは、利上げの是非ではない。誰がその痛みを引き受け、どの順番で清算するのか。その覚悟だけである。

文/木戸次郎

 

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