電池の歴史は1800年にイタリアの物理学者ボルタが、希硫酸液に浸けた銅と亜鉛を導線で繋ぐと電気が流れるのを発見したことに始まる。ボルタ電池といわれるものだ。


このボルタ電池、ペリー2度目の来航の安政元(1854)年に将軍への献上品として日本に持ち込まれたが、「取扱注意!」の希硫酸が電解液だったため危なくて使えたものではなかったらしい。

その後、安全性を考慮してフランスのルクランシェが塩化アンモン液と二酸化マンガンと亜鉛からなるルクランシェ電池を開発し、これによって初めて電池の実用化の道が開かれたといわれている。その電池をさらに使いやすいものにと考えられたのが乾電池であった。

ところでこの乾電池が明治18年(1885)に新潟県出身の屋井先蔵(おくいさきぞう)という日本人によって世界に先駆け作られていたのをご存知だろうか。彼が乾電池を発明するきっかけとなった事件が起きたのは、時計屋の年季奉公があけ、高等工業学校の入学試験に出かけた日のこと。

このとき先蔵は不覚にも受験に失敗。
わずか5分の遅刻のために、入試会場に入ることを許されなかったからだ。この悔しさに先蔵は、時計の遅れをなくすために、電気の力で多くの時計を連動して時を刻む"連続電気時計"の開発に取り組んだ。この時計の電源に使用したルクランシェ電池は液体だったためあまりに使いにくく、そこで改良を試みて作り上げたのが世界初の乾電池だったのだ。

しかし、先蔵の発明品はあまりにも時代が早すぎた。せっかく乾電池を作っても当時の日本にはそれを使用する肝心の製品がなかったのである。かろうじて帝国大学理学部の地震計に採用されることになるが、これがまた不運な結果となる。
この地震計は明治25年(1892)にシカゴで開催された万国大博覧会に出品され、先蔵の乾電池も世界中の人々の目にとまることになりあっという間にアメリカにコピーされてしまった。万博の翌年には舶来品として日本に輸入されてきてしまったのだ。乾電池の発明当時、先蔵は経済的に苦しかったので特許の申請料がをひねり出せず特許出願をしていなかったのである。

その後、大正12(1923)年に松下幸之助が "エキセル乾電池"と銘打って乾電池を発売。乾電池は自転車灯火用としてし大ヒットしたのだった。時代を読んだ松下幸之助も偉大だが遅刻がきっかけで乾電池を発明してしまう屋井先蔵さんとは本当にすごい人物である。
(こや)