親戚の家で見つけた『須坂の母ちゃん頑張る』という古い本。
長野県のローカル有名人の体験記などかと思いきや、これは1978年に刊行された、JOICFPドキュメント刊行委員会・著、財団法人家族計画国際協力財団の発行の本だった。


いったいどんな頑張りなのか……手にとってみると、そこには想像とはまったく違う、衝撃的な事実が綴られていた。
冒頭から、ここにご紹介したい。

「ええッ!? 年に五回も中絶したって! 一人がですか」
「そうなんですよ。しかも、それが一人だけじゃない。公式統計に出ただけで、二人もいたんです」
「!?」
「何しろ、年に三回以上も、中絶を繰り返したひとが、長野県下に、なんと三十九人。三十九人も、いたんですよ」
これは昭和25年の数字だそうで、「こと中絶に関する限り、長野県は、日本最悪の多数記録だった」とある。

このこと自体も驚きだが、さらに驚きなのは、これがあくまでも公式統計の話であって、現実ははるかに深刻だったということ。
なにしろ戦争中には「産めよ殖やせよ」だったものを、そこから180度の転換を図るには、相当の苦労があったらしい。

長野県の「日本一貧しい村」とお墨付きをもらうほどの生活のなかで、そんな状況を「何とかしなくっちゃあ」と立ち上がったのが、保健婦さんと農家の主婦たちだったのだという。
とはいえ、当時は「家族計画」などという言葉自体が驚きだった時代。
先頭に立つ保健婦さんといっても、若い独身女性ばかりで、避妊器具などの存在を全く知らず、出てくるのはこんな会話ばかりだったという。
「サックと同じかい」
「話に聞いちゃあいたけど、先に、こんなものが出てるなんて、ネェ」
避妊器具を普及させるために「夫婦同伴の講習会」も開かれたが、「照れくさい父ちゃんの中には、出がけに、一杯ひっかけてくるのもいる」という状況もあったようだ。


数々の講習会を重ね、徐々に普及した後は、避妊器具の「処理」の問題が噴出した。
「取り水に、サックが流れ込んでるぞぉ」といった苦情が役場に寄せられたり、「ゴムだから、焼いたら、くせぇだナシ」といった意見も出る。

さらに、県の公衆保健課の委託事業で、避妊器具の仕入れに関する「需要調査」(性交の回数)を行い、その「具合」についても「きつい」「ゆるい」等々の調査も保健婦さんが行った。また、「保健補導員制度」の土台も作り上げたという。
かあちゃんの頑張りは、つまり「避妊方法」「家族計画」の普及であり、村の人たちの意識と生活を変えていくための努力であった。

本書は残念ながら現在は入手できないようだが、今では考えられない、そして教科書にも載っていない家族計画の事実・普及の歴史が綴られている。
今でこそ学校で性教育を行い、早期に教える必要性を説く大人たちもいる。その一方で、「できるだけ知らせずにいたい」と願う親心もあったりするが、全く知識のなかった時代の苦労とは……と、いろいろ考えさせられる資料である。
(田幸和歌子)
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