2014年、日本プロ野球は80周年を迎えた。その長い歴史の中で誰が一番の“スター”選手であっただろうか。
イチローやダルビッシュの名を挙げる人も多いはずだ。

しかし、80年の球史を振り返ったとき、やはり一番の“スター”に相応しい人物は「ミスタープロ野球」長嶋茂雄だろう。
彼にはさまざまなエピソードがあるが、スター性を語る上で外せないのはなんといっても1959年の天覧試合だ。昭和天皇が来場された巨人・阪神戦で長嶋茂雄は、阪神のエースであった村山実からサヨナラホームランを放つ。試合を決めたホームランは、天皇がお帰りになる時間が3分前に迫った中で打った劇的なものであった。
とにもかくにも、彼の印象に深く残る活躍はそれまで「職業野球」と揶揄され、大学野球に人気の面で劣っていたプロ野球を一躍、人気コンテンツへの押し上げた。


しかし、そんな長嶋ほどの選手であっても引退というものは必ずやってくる。
その引退の裏側について、「長嶋茂雄 最後の日。1974.10.14」という書籍を参考にしながら、順を追って見ていこう。

■長嶋茂雄、引退を決意
長嶋は1974年に引退したのだが、実はその前年には「引退勧告」を当時の川上監督にされていた。選手としても下り坂であった長嶋に対し、川上監督は「今年限りで引退しろ。お前が来年からは監督をやれ」と述べる。
しかし、長嶋は畳に両手をついて「どうしてもあと1年だけやらせてください!」と懇願し、結果的には、選手としてラストとなった1974年のシーズンに望む。
不退転の覚悟で今までにないほどのハードな練習をキャンプで行い挑んだ1974年のシーズン。だが、結果を残すことはできなかった。この年、成績不振で入団以来2度目のスタメン落ちも経験した長嶋は、9月に川上監督に引退の意向を伝えたのだった。

■1974年10月14日、引退セレモニー
本拠地最終戦でファンにお別れの挨拶をしたいという長嶋の思いを受け、ファン感謝デーで行なうはずだったセレモニーを、ダブルヘッダー(1日で2試合行なう)の本拠地最終戦に行なうことになった。
さて、このセレモニーといえば、皆さんは長嶋が

「我が巨人軍は永久に不滅です」

と語った名スピーチ(このスピーチはダブルヘッダー2試合目の後、行なわれた)をまず思い浮かべるだろう。


しかし当時を知る人は、ダブルヘッダーの1試合目と2試合目の間に行なわれた場内1周こそが最も感動的な場面であり、引退セレモニーのメインだったと語っている。
事実、当時の新聞を見てみると、「我が巨人軍は~」のセリフは一切見出しになっておらず、記事としてこのフレーズに触れているのもわずか2紙に留まっている。では、その場内一周はどのようなものだったのだろうか。

■涙の場内一周
それは、セレモニーの4日前、長嶋の「グラウンドを一周してファンに直接お別れの挨拶がしたい」という願いが発端だった。とはいえ、警察からファンを煽る演出をしないでくれと何度も釘を刺されていたこともあり、後楽園球場(現東京ドーム)の担当者から却下される。
しかし、「ファンのために」がモットーの長嶋は諦めきれず、当時の巨人広報部長の小野に「なんとかならないか」と引退セレモニー当日にその願いを蒸し返した。


通常であれば、勿論なんとかなるものではない。だが、小野はかすかな望みを抱いていた。というのも、セレモニー当日のスタンドはいつもとは違い「静かで重い雰囲気」であり、長嶋を静かに見送ろうという気持ちが感じ取れたからだ。この観客の雰囲気と長嶋自身の場内一周をしたいという強い思いに押され、小野はもし何か起きた場合、自らが文字通り“腹を切る”覚悟で、場内一周を許可する。

こうして許可された場内一周では、グラウンドは大きな感動に包まれた。ファンは泣きながらただひたすら、長嶋へ自分の思いの丈を必死に叫び、また、長嶋本人もこらえきれずにグラウンドで初めて涙を見せたのであった。
さらには、このときに記者席にいたベテラン記者が皆泣き出してしまい原稿が書けなくなったというのだから、いかに長嶋茂雄と言う人物が唯一無二の存在であったかが分かる。

そしてこの引退セレモニーの後には、こんな逸話が残っている。セレモニーに着たユニフォームを個人で保存したいと語っていた長嶋であったが、すっかり忘れて洗濯カゴの中に。結局それは、カゴの中から長嶋のユニフォームを見つけた樋沢という選手(当時)がいまでも大事に保管しているらしい。いかにも長嶋らしいエピソードだ。
(さのゆう)