ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。今回は佐村河内守を追った映画『FAKE』を扱います。
ネタバレあり。

佐村河内守を追った森達也の映画「FAKE」は何が問題なのか
『FAKE』公式サイトからキャプチャ

オウムを内部から撮った『A』同様、今回もマスコミ批判の映画だが…


藤田 ドキュメンタリー監督の森達也さんが、ゴーストライター騒動で一世を風靡した佐村河内守さんとその妻・香さんを対象に撮った作品が『FAKE』ですね。森さんは、かつて、オウム真理教を扱った『A』『A2』や、東日本大震災の直後に現地に行った『311』などの共同監督作品がありますね。
 森さんの作品の特徴として、マスメディアで話題になった人物の「別の顔」「裏側」を見せることで、ぼくたちの、マスメディアに構成されやすい認識を異化するという側面があるのですが…… 今回も、その意味では、『A』『A2』に連なる作品でしたし、何故遺体をマスメディアを映さないのかという問題提起を突然する『311』と共通の問題意識の作品でしたね。
 真相を知ろうとする『A3』や、とりあえず被災地に行ってみる『311』、とはアプローチが異なっていて、むしろ『A』『A2』に戻った感じがしました。むしろ『職業欄はエスパー』に近いかも……

飯田 僕はYahoo!個人にウンチクも感想もあらかた書いてしまったのでまずはそちらを読んでいただきたいのですが……。
 素朴に「佐村河内にもいいところがあった」とか「ウソばっかりじゃなかった」ふうの反応をしているひとがいっぱいいて、びっくりしたんですよ。

 佐村河内関連の本や映像をフォローしてきた人間からすると、むしろ、やっぱりウソつきでデタラメばかりで「弱者のフリをし、批判できないようにして相手を抱き込む」という手法を相も変わらず使い続けていることがボロボロとこぼれ出ているドキュメンタリーなんです。その無防備さが相当おもしろい。
 森さんが本心では佐村河内についてどう思っているのかは知らないしあまり興味もありません。ただこれは「佐村河内守からは世界がこう見えている」という主観を撮った作品であり、そういうスタンスに共鳴するそぶりを見せないと撮れなかったことは間違いない。よくぞ潜入してくれたと思っています。
 ちなみに記事の反応で新垣隆さんの公式アカウントから「驚きました。
(スタッフ)」というリプライがあったのと、佐村河内のペテンを暴いたジャーナリストの神山典士さんから感想メールをいただき、今度お会いすることになったのが、記事公開後のトピックとしてあります。公開後に森さんサイドと神山さんはFacebook上でバトっていますが、神山さんによると森さんおよびプロデューサーがウソをついているところもあって(『FAKE』で佐村河内に騙されていた義手のバイオリニスト・みっくんや被災地の女の子にコンタクトを取ろうとしたが出てもらえなかった、と言い張っているそうですが、神山さんはそのふたりとも新垣さんともずっと連絡を取っているから、そんなことはありえないと断言できる、とか)、「ウソつきを撮ったひとたちもウソつきだった?」みたいな悪夢的な様相を呈しています。

藤田 森さんは、佐村河内さんの磁場には完全に入っていないと思いますよ。『A』などでその批判を受けていましたが、今回は『A』『A2』よりも遥かに距離があるし、自己言及もしている。フジテレビのバラエティの人が、佐村河内さんを出演させるときに、明らかに笑いものにしようとしているのに、真面目な番組にするかのように言うでしょう。TV局もフェイクを演じている。
あれと同じことを、森さんは確信犯的にやっていると思う。自分がしていたことは「信じているフリかもしれない」と佐村河内さんに最後に言っているし。
 新垣さんがTVに出ているときに、森さん、「佐村河内さんが出てたらスタンスが違ったと思いますよ」という趣旨のことを言っていますし、新垣氏にこの映画の出演依頼をして断られたことも作中で明らかにしていますから。「面白くしようとしているだけ」というバラエティへの言葉は、半分自己言及のようにぼくには聞こえます。
『FAKE』という作品自体が、フェイクに満ちた作品で、どっちとも解釈できるように作られていて、油断できない作品ですよね。

「本当は曲が作れた!」……だから何なの?


藤田 最後に、一見作曲が可能であったかのように見えるように作られていますね。飯田さんのご指摘の通り、カメラが回っていない瞬間に捏造することはいくらでも可能なので、本当に作曲していたのかは不明ですが。
しかし、シンセサイザーというテクノロジーのおかげで、楽譜読めなくても演奏能力が高くなくても「作曲」はできるだろう、と観ることも可能である、という解釈も可能ですよね。それを否定したらDTMとかダメになってしまう。あの安っぽい、クラシックの音をフェイクで模した壮麗な音は、象徴的だと思いました。
 ぼくは感動しましたよ、ラストに、佐村河内さんが演奏するところに! シンセサイザーってすごいなぁと。ああいう壮麗で崇高っぽい音が鳴ると脳が自動的に感動するなぁ、脳のそういうスイッチ押してくるなぁ、と、技術に感動していました。
 ラストの演奏が「本当に作曲しているのか」も怪しい、怪しいけど、あの音と構図で観ると、感動してしまう。
そのインチキな仕組みそれ自体を投げ出していると思いますよ。観客にも見抜くこと、どっちなのかわからなくなることを期待しているというか。

飯田 たしかに、音楽つくるソフトの「ガレージバンド」とか使えば誰でもそれっぽい曲はつくれる時代です。打ち込んでいたとしても「あれがそんなにすごいことか? 驚くことか?」と思う。神山さんも新垣さんも「ゲーム音楽時代には佐村河内がシンセで断片的に打ち込みをつくって、それをもとに新垣さんが作・編曲していた」ことは否定していないですからね。
 しかも森さんは「佐村河内は作曲できるか?」問題の何が問題だったのか全然わかっていない。
「作曲のプロセスに密着してすべてを収め、作曲したという決定的な証拠を撮る」ことができなかったのが佐村河内を取り上げたNHKスペシャルの問題点だったんです。対して「AERA」や2000年代半ばのフジテレビ報道局のように、佐村河内に密着取材したけれども、「あやしい」と判断して企画をとりやめたケースもあります。おそらく、楽器を手元に置かない佐村河内が作曲したと言える瞬間、つまり「楽譜に記す」という行為を絶対に撮らせなかったからだと考えられています。「曲づくりを引き受ける」「曲づくりで悩んでいる」シーンと「できあがった楽譜やトラックを見せる」「できあがった曲を聴く」シーンをつないだって、「作曲した証拠」にはならない。つまり、森さんは今回、自らの手でテープを回しっぱなしでシンセの打ち込みの全プロセス……がむりなら主要なプロセスの多くにきっちり張り付いて記録しなければ、疑惑を否定したことにはならなかった。でも森さんはしばらく佐村河内宅に通うことをやめていて、曲ができあがったという報告を受けてからまた行っている。これじゃあ、やってることはNHKスペシャルのディレクターだった古賀さんの二の舞、いや、それよりひどいですよ。佐村河内がいくらでもなんでもできるような余地を与えているんだから。話にならない。
 そうは言いつつも、僕もラストの曲は嫌いじゃないです。「佐村河内は本当にこういうムダに壮大な曲がつくりたかったんだなあ。だからオーケストラ使ってド派手にやりたかったんだ」って改めてわかった。クラウス・シュルツとか喜多郎系ですよね。
 ただね、佐村河内は自伝『交響曲第一番』ではこう書いていたんですよ。

「楽譜に記譜することこそが作曲、という気持ちはつねに変わりませんでした」と(幻冬舎文庫版83p)。

『FAKE』で彼が一生懸命「新垣とは共作だ」と主張し、シンセで新曲を作ったところで、楽譜に書いてないわけだから、かつて自分で言っていた作曲の定義とは違います。
「それでなんで『曲を作った』ことになると思ってるの? なんで『すみません、作曲の定義を変えました』って素直に言えないの?」と哀しくなりますね。

奥さんの謎の表情が意味するものとは……?


藤田 森監督が、最後に、奥さんを撮れてよかったと言ったじゃないですか。その前の演奏シーンでの、奥さんのカットが決め手なのかぁ、と思うような言い方だったのですが、演奏中の奥さんの表情や、手の中で光っているものなどについて、どう解釈されました? ぼくは、あそこが一番腑に落ちないのです。演奏している佐村河内さんから目を逸らし、応援しているようでもない、あの表情や仕草が、何を示唆しているのか(示唆していると森監督は考えたのか)が読めないんです。「インチキがバレないかハラハラしてる」って感じですか?

飯田 それもあるかもしれないけど、別にまたバレても世間に対して失うものはそんなにないから……何かあるとしたら夫に対してでしょう。
「佐村河内にマインドコントロールされてる」と奥さんの母親は言っているそうです。そうなのだとしたら、何かされることを考えてビビっていたのかもしれない。ふたりだけでいるときにどんな関係なのかは、本当のところよくわかりません。
 親との縁を事実上切って佐村河内を選んだわけだから、サマナ(出家したオウム信者)みたいなものですね。そう思うと『A』『A2』からつながっている。

藤田 ぼくは医者でもなんでもないので、これは診断ではなく、あくまで印象ですが、いわゆる共依存関係に近い何かなのかもしれませんね。その場合、どっちが主体として「マインドコントロールしている」のか、よくわからない。共依存って、サポート「する」側が、人助けをしている自分=価値のある自分を維持するために、相手をいつまでも弱者にしておこうとする傾向があったりします。

飯田 奥さんは18歳のときから佐村河内と30年以上つきあっているんだから、何も知らないわけないことだけは確実です。それは複雑な表情、複雑な気持ちになるということじゃないですか?
 新垣さんだって、佐村河内から最初のオファーを受けたのは弱冠25歳のときで、そのあと18年パートナーだったんです。長い物語なんですよ、この騒動は。

藤田 こんな表現がよければですけど、奥さんは「虚無」みたいな顔でしたよ……
 旦那さんが、疑惑を晴らすための曲を、作曲に復帰して作り終えたら、もうちょっと感動して音楽に聴き入りそうな感じがしたり、ハラハラして応援したり笑ったり泣いたりしそうなんですが…… あの虚無は、何の意味にも回収できなさそうなしこりとして、ぼくの中に残っています。

何が問題なのかわかってない人が多いので整理しておくよ


藤田 佐村河内さんが……こういう言い方を勝手にすると、医者でもないのに診断して! と怒られたり訴えられたりするリスクがあると思うのですが、ぼくの印象では、パーソナリティ障害のクラスターBの人たちに近い印象を得ました。その人たちの特徴は、感情表現が過剰だったり、演技力があったりね、人はあの磁場の中で虚実がわからなくなっていくんだな……っていうのを、観客も体感させられると思います。

飯田 自己愛性パーソナリティ障害とか演技性パーソナリティ障害でしょうね。自分を大きく見せるために息を吸って吐くように虚言が出てしまう。
 そのナルシスティックで誇大妄想的なところが例の「指示書」や、全ろうで精神疾患で左腕は腱鞘炎が悪化して使い物にならないとか、10歳で母親から「もうピアノについて教えることは何もない」と言われる神童だったとか、「村上水軍の末裔だと思う」だとか、ゴテゴテに盛られまくった設定(100あったら99はウソ)を生んだ。それは一歩引いてみるぶんにはおもしろいし、悲哀を感じるところでもある。
 ただ、障害者や被災者に近づいていって何人も利用したところはひどい。たんにゴーストライターを使っているだけならそこまで問題じゃなかったんだけど……。

藤田 「障害者や被災者に近づいていって何人も利用したところ」みたいな嘘の部分は、ぼくには判断ができませんでした。やっぱり、ひどいんですか?

飯田 佐村河内が近寄っていったので有名なところでは義手のヴァイオリニストのみっくん、それからNHKスペシャルに出ていた、母親を津波で亡くした女の子がいます。よくウソがつけるな、って思います。
 ほかにも障害者施設にいっぱい行っていて、つねに自分の音楽、売り出し方に利用できそうなひとを探していたんですよ。詳しくは神山典士さんの『ペテン師と天才』に書いてあります。ちょっと施設を訪れただけなのにマスコミに対しては「すごく面倒をみている」みたいな見せ方をしたりね。

藤田 映画の中で、耳が聞こえない方が擁護されていたのはどう見ます? 感音性難聴(部分的には聞こえたりする)であるという診断書が何度も出てきますよね。

飯田 そもそも2002年に「全ろうだ」(聴力ゼロです)という診断書をもらい、障害者手帳を発行してもらっていたことが佐村河内の問題なんです。本人の主張では「その後、聴力が多少は回復した」そうですが、現代医学ではそんなことには説明がつかず(ありえないことであり)、高い確率で「全ろう」については詐病であったことがわかっています。
 佐村河内のせいで数多くの聴覚障害者が「こいつもお金がほしくて詐病してるんじゃないの? 簡単にごまかせるんでしょ?」と思われてしまった。それがまずいのです。
 なのに『FAKE』では「2014年に診断してもらって、障害者手帳は発行されるレベルではないが、難聴であることは事実です」「難聴のひとは誤解されやすい」という話に巧妙にすり替えが行われている。それに乗せられちゃってるなあ……と。
 しかも聴覚障害者の方と面会するシーンで、佐村河内は日光を浴びまくってるしサングラスもかけていない。でもウソがばれる前の彼は、日の光を浴びると耳鳴りがひどくてあまりにも辛いから外出は控えているし、部屋の中も真っ暗にしている、特殊なサングラスをかけている、と言っていたわけです。
「ウソをついていない」ことをアピールしたいシーンのはずなのに、「ウソをついていた」「話を逸らしている」ことが露呈してしまっていて「おいおい!」って思うシーンなんですよ、あれは。
 それで聴覚障害者の方に擁護をしてもらう。やっぱり利用しているように僕には見える。

後編記事につづく