河南省政府で文化財の保護・管理を行う部署の省文物局が12月27日、安陽市安陽県の安豊郷西高穴村の「曹操高陵」を、三国時代に活躍した曹操(155-220年)の墓と断定したと発表したことに対して、中国では「異論」が続いている。河北省邯鄲市歴史学界の劉心長会長は、曹操の部下だった夏侯惇の墓の可能性があるとの考えを示した。
新華社などが伝えた。

 劉会長は曹操の墓についての研究を30年以上続け、専門書「曹操墓の研究」も著した経歴の持ち主。「曹操高陵」を曹操の墓と断定するには、いくつかの疑問が残るという。

 まず、河南省文物局が「曹操の墓」と断定した最大の決め手と説明した「魏武王」の文字が刻まれた石板だ。曹操が漢の献帝により「魏武王」に封じられたことは事実だが、埋葬との微妙な前後関係で疑問が残るという。歴史書によると曹操が葬られたのは2月。
「魏武王」の称号を得たのが2月以前ならば問題ないが、埋葬後に称号を得たならば、「石板」の文字は意味をなさないことになる。

 曹操は、自らの「印」も、墓に入れないよう命じたと伝えられる。政敵に墓を暴かれるのを恐れたからで、身分が分かる物を残さないためだ。曹操は自分の墓を分からなくするため、各地に「廟」を作ったとされる。「本当の墓」が分かりにくくなった大きな原因だ。わざわざ「魏武王」と彫らせた石板を墓に入れたのでは、曹操の遺志と矛盾が生じる。


 また、曹操は生前、倹約を旨(むね)としており、金・銀・鉄製武器などを贈答品にしたり副葬品にすることを禁じていた。「曹操高陵」に大量の「禁制品」が副葬されていたことは、おかしい。

 劉会長は、曹操の墓は孤立してはおらず、配下の墓とともに、規模の大きな「墓群」を形成しているはずと指摘。漢の制度を踏襲したもので、劉会長の研究によれば、曹操の墓の近くには26人の墓が設けられた。その筆頭に挙げられるのが夏侯惇の墓だ。

 劉会長は「『曹操高陵』は夏侯惇の墓の可能性がある」と主張。
夏侯惇は曹操が最も信頼した武将であり血縁関係もあった。夏侯惇は曹操のすぐ後に死んだとされている。「曹操高陵」からは、魏の支配者であった曹操が甲冑(かっちゅう)を身にまとい、弓矢を持つ機会はあまりなかったはずだが、「曹操高陵」からは大量の武具が出土した。劉会長によると、「曹操高陵」は武将の墓の特徴を備えている。

 ただし、河南省許昌市内には、かつて「夏侯惇の墓」と伝えられる墳墓が存在したとされる。盗掘や、付近の住民が長年にわたり土を取り去ったため、現存していない。
仮に「曹操高陵」が「夏侯惇の墓」であれば、許昌市にあった墓の主がだれだったかという疑問が出てくる。許昌市の「夏侯惇の墓」のそばには現在でも、同属の夏侯淵の墓が残っている。(編集担当:如月隼人)

【関連記事・情報】
【曹操の墓】現地当局「大発見!」、北京の学者「あやしい」(2009/12/29)
曹操の墓…「断定の決め手」は盗掘者が持ち出した石板だった(2009/12/28)
曹操の墓で女性の遺骨を発見…20歳・40歳前後、殉死と推定(2009/12/28)
三国志「曹操の墓」と断定…河南の墳墓、遺骨確認・副葬品の数々も(2009/12/27)
三国時代「曹操の墓」発見か、カギとなる石牌を確認-河南省(2009/12/27)