2006年に中国に移住し、蘇州、北京、広州、その後上海に約8年在住。情報誌の編集長を経て現在はフリーランスとして活躍する大橋さん。

今回は、上海を拠点に活動していたタレントの小松拓也さんが日本に拠点を移し、日中をテーマとした舞台を実現させるまでの苦悩と、日中友好への思いをレポートします。

 上海で情報誌の編集をしていた頃は、政治家に経営者、作家、文化人、アーティスト、タレントなど、いろいろな方にお会いする機会があり、その度に刺激を受けてきた。小松拓也さんもそんなひとりだ。

中国の人気TV番組への出演で一躍有名に

 上海を拠点に芸能活動を行なっていた小松さんは、2007年に「加油! 好男児(今風に訳すと「頑張れ! イケメン」といったところだろうか)」という人気オーディション番組に出演したことで人気に火が付いた。高視聴率番組だったことから、若い女性を中心に多くの中国人から知られるようになる。

 2010年に開催された上海万博では開幕式に出演。

日本人では、谷村新司さんと小松さんだけという快挙だった。ドラマやイベントを中心に活躍し、順風満帆な芸能生活を送っていた小松さんだったが、ある出来事を契機に一変する。12年の日本政府による尖閣諸島国有化だ。

 中国で反日デモが激化した時、小松さんは、ドラマ『金田一少年の事件簿』の撮影で香港に滞在していた。上海では激しいデモが行なわれなかったため、撮影後に戻っても、テレビやネットで見るような悲惨な光景はなく、いつもと変わらぬ日常があるように見えた。予定されていた仕事がいくつかキャンセルになったが、その時点では、長期化するとは思いもよらなかった。

 ところがその直後にドラマの撮影で日本に一時帰国すると、小松さんはその温度差に驚いた。メディアは一様に中国政府や中国人を激しく批判していた。

「破壊行為にかかわっていたのはほんの一部の中国人なのに、日本の報道を見ていると、ほとんどすべての中国人が行なっているような印象を受けました。中国人にだって、素晴らしい人はたくさんいるのに」

 小松さんが会う中国人は皆冷静だったし、日本人のことを心配してくれる人も少なくなかった。この経験から、個人と個人がつながっていくことが重要だと小松さんは強調する。

 中国人との友情を再確認する一方で、仕事面ではなかなか事態が好転しなかった。

主演を務める予定になっていた中国映画への出演が見送られるなど、進行中のプロジェクトが相次いで中止に追い込まれた。

 テレビに日本人が出演することも許されなくなった。テレビ局による自主規制ということだったが、中国のテレビ局は政府の管理下に置かれているため、政府が指示していたと見るほうが自然だ。

 当時、中国では小松さんのように活動している日本人タレントが何人かいたが、一斉にテレビから姿を消した。以前は引っ張りだこだったイベントも、日本人が出演するというだけで許可が下りなくなったし、日系企業のあいだには、イベントの開催そのものを自粛する動きが広がった。活動の場を失い、小松さんも当初帰国を考えたが、まずは中国にとどまることにこだわった。

「日本と中国で活動することで、両国の少しでも多くの人たちから受け入れられ、文化交流につながっていけばと思ってやってきました。それこそが、僕の最大のモチベーションです」

 しかし、“日本人禁止令”が長引くと、理想だけを掲げているわけにはいかなくなった。各所に売り込みに行っても、「日本人だから」という理由だけで門前払いされ、自分の力だけではどうにもできない無力さを痛感させられる。いったいいつになったら元の生活に戻れるのか。前に進みたくても進めない、先の見えない毎日に、小松さんは次第に精神的に追い込まれていく。そして13年3月、小松さんは拠点を日本に移す決意をする。

芸能界引退も考えた帰国後の日々

 反日デモの一部が暴徒化した映像は日本で大きく報道されたが、我々中国で暮らしていた日本人にとっても非常にショッキングな出来事だった。ある経営者は「自分がいままで中国でやってきたことはなんだったんだろう」と失望感を口にしていた。

 しかし小松さんは、日本に帰国したあとも中国と関わり続けようと決意した。中国で挫折を味わいながらも、なぜ折れずに深く関わり続けようと思ったのか。その理由は、小松さんが芸能生活をはじめたきっかけと無関係ではない。

 小松さんは高校生の頃にスカウトされたことで芸能界入りするが、そのスカウトした現所属事務所の社長は、偶然にも母親と同じ名前だった。

小松さんが14歳の時、母親は交通事故で亡くなっているが、生前NHKの中国語講座を撮りためて中国語を勉強していた。驚いたことに、その母親と同じ名前の社長は、会うなり台湾への語学留学を勧めてきたのだ。小松さんは、運命を感じずにはいられなかった。

 小松さんは高校を卒業すると台湾に渡り、母親が熱心に勉強していた中国語を習得した。そして、2003年には台湾でCDをリリース。2万枚のセールスを記録し、一定の成功を収めた。

 ところが帰国すると、売れない不遇の時代が続いた。腐りそうになっていた時、芸能人生を賭けて臨んだのが、くだんの「加油! 好男児」だった。小松さんの人生の転機には、常に中華圏との関わりがあったのだ。

 その一方で、長く中華圏で活動して日本に戻った小松さんには戸惑うことも多かった。

「帰国当初は、中国にいたあいだに勉強が疎かになっていたのではないかという反省で苦しんでいました。けっしてあぐらをかいていたわけではないのですが、中国でチヤホヤされていた時期があったのは確かです。日本の同世代の役者やミュージシャンと闘っていけるのだろうかと、自分の無力さを感じていました」

 小松さんはこの頃、芸能界からの引退が頭によぎるほど追い詰められていた。しかしそれを救ったのは、舞台だった。

「久々に日本の舞台に出演してみたら、まだやれるというか、やってみたいという思いが芽生えてきたんです」

 上海での経験は無駄ではなく、その後、小松さんはフジテレビ「バイキング」のレポーターを務めたりドラマや舞台に出演したりと、日本での活動の場が増えていく。

 尖閣諸島国有化から1年が経つ2014年頃からは、在上海の日系企業のイベントに呼ばれたりファッションショーの司会をしたりと、上海での仕事のオファーも少しだが来るようになった。

 そして、15年に転機が訪れる。上海テレビの外国語チャンネルICSの番組「中日新視界」のプロデューサーからいっしょに何かやらないかと提案を持ちかけられたのだ。漠然とした誘いだったが、小松さんは上海在住の頃からやってみたいと思っていた演劇のプロデュースを実現してみようと考えた。これに賛同したのは、ドラマや舞台を中心に活躍する尾本卓也さん。ふたりは、上海で公演を行なうことになった。

 ただ小松さんは、1回だけで終わらせたくはなかった。これを日中の文化交流の場として続けていきたいと考えたからだ。

「日中関係はこれからもアップダウンを繰り返していくのでしょうが、関係がよくなっても悪くなっても、文化交流を訴えかけていくことに意義があると思うんです」

 継続していくための受け皿として、小松さんは演劇ユニット「Team Moshimoshi?」を立ち上げる。「もしもし」という日本語は、中国人にも広く知られているが、「会話のはじまりであり、人と人とのコミュニケーションは相手を知ろうと言葉を投げかけてみたり、興味を持つことからスタートする」という意味が込められている。

 旗揚げ公演は、セリフが日本語のみだったため、日本語を理解できる中国人を対象に行なわれた。コメディであるため、理解されるか不安だったそうだが、客席からはちゃんと笑いが起きていたという。この公演の模様は、「中日新視界」でも放送された。

帰国後もついえない中国人への恩義

「Team Moshimoshi?」はまもなく第3回公演『3年前の君へ』を上演するが、小松さんはこれまで、時代性にこだわってきた。

「日中をテーマにした作品は戦争ものが多く、いまのリアルな日本と中国の関係性を描く作品はあまりありません。こうしたテーマは、中国で生活をした経験のある人間でないと、発信できないと思うんです」

 稽古場を拝見したが、確かに中国人と暮らす私が見ても、中国人の描き方にリアリティを感じる部分が多かった。

 過去2回は、出演者は2~3名だけで公演も上海のみだったが、今回は規模を拡大し、出演者は7名。しかも日本でも公演する。今年は日中国交正常化45周年、来年は日中平和友好条約締結40周年の節目にあたるが、同公演は、外務省から記念事業にも認定されている。

「『日中友好』を口にするのは簡単ですが、行動に移すことは大変です。僕のできることはちっぽけですが、日本国内にもこのエネルギーや思いを伝えていく活動をするべきではないかと思い、日本でも公演したかったんです」

 その思いをダイレクトに伝えるべく、今回は小松さん自らが脚本を書いている。

 中国の通販サイトの個人ショップ内で、服や化粧品などを転売するビジネスを展開し成功する李採妮(サニー)が横浜を訪れていた際、駅のホームから飛び込み自殺を図ろうとする柏木進を助けることから物語ははじまる。二人は公私にわたってパートナーとなり、結婚を誓い合ったところで物語は急転する……。

 ストーリーの着想は、ホームに落下した日本人を中国人が助けたというニュースを目にしたことにあるという。2001年1月、新大久保駅で線路に落ちた男性を助けようとした日本人カメラマンと韓国人留学生が電車にはねられて死亡した事故が広く知られているが、14年1月、東京都東大和市の東大和市駅ホームでも、線路に落ちた男性を立川市に住む中国人・付鴻飛(フー・ホンフェイ)さんが救出した。日本のメディアの取材に付さんは、「人助けは当然の行ないで、名前を残す必要はない。だが、日本人が中国人に抱くイメージを改善させるきっかけになればと思い名乗り出た」と語っている。

「『加油! 好男児』に出ていた時、自分も中国人に応援してもらい助けられたので、リンクする部分を感じました。だからこそ、今回は中国人を主人公にしたいと思ったんです。自分が一歩下がることで中国人をフィーチャーし、日中友好の象徴にしたいという思いがありました」

 その主演の中国人を、NHK「テレビで中国語」への出演で人気を博した段文凝さんが務める。稽古でもテレビ同様に可愛らしく、堂々とした演技で存在感を示していた。

 出演者は日本人3名、中国人3名、日中ハーフが1名とさまざまなバックグランドを持った役者が揃い、旗揚げ公演にも参加した尾本卓也さんは共同演出も務める。セリフは日本語と中国語が飛び交い(中国語は日本語字幕付き)、テンポよくストーリーが展開していく。

 演劇はひとつひとつのシーン、ひとつひとつのセリフを観客に的確に伝えるため、繰り返し練習するという地道な作業が強いられるが、日本人と中国人がひとつのものを作り上げている光景は、美しくもあった。

上海で築いた人脈を生かし、こぎつけた公演

 今回の舞台は恋愛ものではあるが、そこには、小松さんが中国で感じたことや思っていることが散りばめられているように思う。小松さん演じる柏木進はいう。

「飛行機でわずか3時間ちょっとの距離なのに、なんて遠いんだ」

 このひと言には、小松さんが中国で味わった苦悩が込められている気がした。いや、小松さんだけではない。あの時、中国にいた多くの日本人。さらには、日本人に親近感を抱く多くの中国人がそう思っていたのではあるまいか。

 小松さんは出演、脚本、演出に加え、本業ではないプロデュース業務も行なっている。スポンサー探しや記念事業認定、後援を取り付けるための交渉ごとから稽古の場所取りといった雑用的な業務までもこなす。

 スポンサー探しは思うようにいかなかったが、小松さんは上海時代、日本人コミュニティに積極的に顔を出していたことから企業との接点も少なくなく、それを仕事につなげてきた。そんな1社である旅行会社の担当者から、今回の舞台を応援する意味も込めて、インバウンド向けの観光地PRの仕事を受け、その出演料を今回の公演に充てている。上海で培ってきた人脈が、いまここで生きているのだ。

 準備に10カ月以上を要しているが、頓挫しそうになったことは何度もあったという。その苦労がようやく結実し、いま幕が開こうとしている。

「中国人と関わりを持つ人には、何かしら感じてもらえるストーリーになっていると思うので、ぜひ足を運んでいただければ」と話す小松さん。横浜公演は5月15~19日に横浜美術館レクチャーホールで、上海公演は8月19日に万代南夢宮上海文化中心で行なわれる。

(文・撮影/大橋史彦)