川上弘美の「神様」という短編の書き出しだ。
こう続く。
“春先に、鴫を見るために、行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持っていくのは初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。”
「神様2011」という短編が『群像2011年6月号』に掲載された。
書き出しは、こうだ。
“春先に、鴫を見るために、行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持っていくのは初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。”
「神様」と、まったく同じ。
「神様2011」はこう続く。
“春先に、鴫を観るために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌を出し、弁当まで持っていくのは、「あのこと」以来、初めてである。
そう。
「神様2011」は、時代設定を2011年3月11日以降にして、「神様」という短編を、そのまままるごと描きなおした作品なのだ。
「神様」は1993年に発表された。
第1回パスカル短編文学新人賞受賞作だ。
この賞は、ASAHIネットで募集されたもの。
まだ基本的に文字中心でやりとりするパソコン通信で、「パスカル短編文学新人賞」の会議室に応募するという形式だった。
応募された作品は、すぐに公表されて、会員なら誰でも読めた。
選考委員は、筒井康隆・井上ひさし・小林恭二の三名。
その三名のみが発言できる「選考会議」や、会員が自由に発言できる会議室なども設けられた。
ライブ感のある賞だった。
新人賞最終決定討論で、井上ひさしがこう評する。
“「神様」はたいへんよくできた、ミューズが宿ったような作品です。あっさりと書いているのに本当に冴えた瞬間がこの作者に訪れたという感じがします。”
隣人のくまと散歩するだけの話なのだが、読んだあと、その何でもない日のようす、人との距離が、自分の中で大切なものであることを実感できる短編小説だ。
隣人との距離って、なかなかむずかしい。いまやマンションだと、越してきてもぜんぜん知らないということも、そんなに特別じゃなくなってきた。「神様」では、引っ越してきたくまは引越し蕎麦をふるまい、葉書を渡してわまる。“ずいぶんな気の遣いようだと思ったが、くまであるから、やはりいろいろとまわりに対する配慮が必要なのだろう”
語り手と、三つ隣に住むくまと、の距離。散歩にいく。それがチャーミングに描かれる。
ぼくは、この短編がとても好きだ。
その「神様」が「神様2011」というタイトルで作者の手によって新しく書き変えられた。
“「いい散歩でした」
くまは305号室の前で、袋から鍵を取り出しながら言った。
“「いい散歩でした」
くまは305号室の前で、袋からガイガーカウンターを取り出しながら言った。まずわたしの全身を、次に自分の全身を、計測する。ジ、ジ、という聞き慣れた音がする。”「神様2011」
話の中で起こる出来事は、まったく変わらない。同じだ。でも、「あのこと」の後では、描かれ方が違う。そのことだけを律儀に書き換えたリメイクバージョンなのである。
風呂に入り、眠る前に少し日記を書くという生活に、総被爆線量を計算するという習慣が付け加わっている。
ぼくが「神様」を最初に読んで感じた「何でもない日のようす」は、そこにしっかり残っている。残っているけれど、それをどう受けとめていいか戸惑っているというのが正直な気持ちだ。
『群像2011年6月号』には、「神様2011」と「神様」の両短編に加えて、「あとがき」が掲載されている。
そのほんの一部を引用する。
“原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という驚きの気持ちをこめて書きました。”
(米光一成)