「メッタ斬り」といえば大森望・豊崎由美(ザキは、本当はつくりの上が「立」)。
そういう共通認識ができあがって久しい。
私の手元にはこんな(別欄写真参照)同人誌まである。パロディ本が作られるまでになったんだなー。
その〈メッタ斬り〉シリーズも、今回の『文学賞メッタ斬り! ファイナル』で最後ということなのである。「えー、終わっちゃうんだ、残念ー」という大勢の意見と「あー、やっと終わってくれるのか、やれやれ」という少数派の意見を私の妄想電波塔はキャッチしたような気がする。後者は主に某大手出版関係者ね。
シリーズ第一作の『文学賞メッタ斬り!』はPARCO出版から2004年に刊行された(現在はちくま文庫)。
第1章は「純文学新人賞の最高峰は本当に芥川賞なのか?」と題され、末尾に「文学賞の心得【一】」として「芥川賞は、目利きじゃない。村上春樹も島田雅彦も高橋源一郎も逃している」と書かれている。第2章は「エンターテインメント対決! 直木賞VS山本賞」。末尾の「文学賞の心得【二】」は「直木賞は、賞を与えるタイミングを間違えている」である。第3章の題名は「文芸誌主催の新人賞、えらいのはどれ?」。このへんで最近の読者はあれ? と思われているかもしれないが、そうなのである。
今でこそ芥川・直木賞に特化したイメージがある『メッタ斬り!』だが、最初は「小説好きによる小説好きのための小説賞ガイド」として、あまたある小説対象の文学賞をなべて批評するガイドとして始められたものだったのだ。
だが、現在のスタイルは第4章ですでに確立されている。題して「選考委員と選評を斬る!」。芥川・直木賞を中心に代表的な文学賞の選評が俎上に載せられ、文字通りメッタ斬りにされている。津本陽の評言が凡人の理解を超えたおおらかさに満ちていることを発見し「ツモ爺」と命名したように、選考委員にキャラクターを付与して選評を味わうという遊びはこのときから始められていたのである。相性の悪い石原慎太郎、宮本輝、渡辺淳一の3氏に対する舌鋒も、最初から厳しさを極めていた。

この無印版には巻末に2003年、2004年の文学賞受賞作をすべて大森・豊崎の両名が読んで評点をつけるという「文学賞の値うち」一覧がつけられており(元ネタは福田和也『作家の値うち』)、以降も毎回の名物となっていった。この総まくりはたいへんな労力だったと推察される。今回でシリーズが打ち止めになるのも、この「文学賞の値うち」をやるのがしんどくなったのが理由の1つなのではないか、というのは外野の勝手な推測である。
第2巻にあたる『受賞作はありません編』、2008年に『文学賞メッタ斬り! リターンズ』の刊行は無印版の3年後の2006年。ここから恒例の芥川・直木両賞予想が始まっている。以降2007年に『たいへんよくできました編』が刊行された。
そして約4年の沈黙の後、今回の『ファイナル』の登場となったわけである。

帯には大きく「さらば、石原慎太郎」の文字が躍っている。言うまでもなく、メッタ斬りコンビが一方的にライバル視していた石原慎太郎の芥川賞辞任を受けてのものである。第3章ではその56年間に及ぶ作家生活を概括し「なぜ石原慎太郎はああなってしまったのか」を検証している。自身が若い頃に受けた批判の文言を、そっくりそのまま選考委員として他の作家にぶつけていることを評して「これが選評の憎しみ連鎖。ひとは、自分が言われて一番傷ついたり不愉快だったりしたことを他人に言いがちなんですねー」(豊崎)と指摘するなど、なるほどと思わせる個所が多い。

第1章、第2章は第144回直木賞を受賞した道尾秀介、第146回芥川賞を受賞した円城塔をそれぞれ加えての鼎談の章である。候補に挙げられること6回でようやく栄冠を与えられた道尾は、つまり5回もおあずけを食らわされるという理不尽な扱いを受けたわけでもあるが、あったであろう不満を少しもにおわさない強心臓ぶりを発揮している。また円城は、その作品が受賞作に決定したことで石原慎太郎を激怒させ選考委員辞任を決意させた(一説によると同じく円城否定派だった宮本輝が寝返ったことが直接の引き金となった)「文学賞史上の功労者」である。受賞作『道化師の蝶』読解のためのヒントも散りばめられているので、気になる人はやはりここも必読だ。

全体の中で白眉というべきはメッタ斬りコンビと東浩紀・佐々木敦両氏による「文学賞対策委員会」座談会である。東が「純文学作家は『やりたいことがやれればそれでいい』みたいに言うけど、それじゃ先細りなのは目に見えてるじゃん」という主旨のぼやきを続けて他の3人がそれをなだめる、という展開が非常におかしい(さすが東浩紀!)。
また、〈メッタ斬り〉をめぐる周辺の事情が変容したことについて、佐々木が興味深い発言をしている。少し長くなるが引用しておきたい。

佐々木 (前略)つまり、お二人(大森&豊崎)自身、そういう文学賞的なものを最初は外側から見ていた。/ただ、最近思うのは、たぶん、その内側の世界自体がさらに縮小して、お二人がある意味ではその内側に迎えられていった結果、全体としてやっぱりね、コンセンサスが非常に作りやすくなっちゃってる。つまり、メッタ斬り! の予想がすごく当たるようになっていると。/それは、大森・豊崎的世界に文学が染まっていったわけじゃなくて、「なんかこの人にあげないとダメだよね」っていう考えが全体的に一致するような感じになってきてると。それは悪いことじゃないんだけど、なんでそうなるかっていうと、全体のパイが縮小しているから。(中略)それは、もしかしたら別の意味で危機かもしれない。

この座談会が収録された時点ではまだ実現していなかったが、2010年から芥川・直木両賞の受賞発表及び受賞者記者会見はniconicoで生中継されるようになった。パイが縮小傾向にあるという認識はすでに出版界全体の共通認識となり、現状を打破するための新しい方策が求められ始めているのである。それは素直に評価すべきことではあるが、一方でこれまでは水面下に潜んでいた問題が露呈してきてもいる。芥川・直木賞における作家のパフォーマンスが注目を集めるという現象は「要するに、世の中のほとんどの人は、作品には興味がなくて、人間なんですね。人は見た目が九割、作家も見た目が九割みたいなことになっていて」(大森)といった具合に、タレント作家は求められているが、その作家のタレント(才能)が生み出した作品そのものはそれほどでもない、といった世間の無関心さを如実に示すものだろう。文学賞を起爆剤にして業界全体を盛り上げるという試みは絶対に必要なもので無意味ではないが、それだけではまだ不十分なのである。作品本位の仕掛けが打ち上げ花火のあとには必要とされていくはずだ。

文学賞という閉じた世界の扉をこじ開け、その内実を一方的に(文学賞の側はまったく協力的ではなかったから)追求していくという〈メッタ斬り〉コンビの仕事は、世間一般に「文学賞の楽しみ方」を広めたことで十分な波及効果を上げた。今回で一旦の打ち止めとはなるが、芥川・直木賞予想のような単独イベントは(ラジオなどで)これからも続けられると聞く。もし次に書籍の形で〈メッタ斬り〉が復活することがあれば、それは「文学賞を楽しむ」「選考委員や受賞作家を愛でる」といったイベントや「人」主体のものではなくて、作品を深く読むためのものに変化していくのではないだろうか。
すでに〈メッタ斬り〉コンビの功績を受け、その上に独自のものを積み上げる動きをする人も出てきている。たとえば、niconico生中継で芥川賞候補作の解説を行っている栗原裕一郎は、ポスト〈メッタ斬り〉の最有力候補である(第146回の吉井磨弥「七月のばか」分析は本当に素晴らしかった)。大森・豊崎の下の世代にも、〈メッタ斬り〉が現在占めている位置を狙う野心家は大勢いるはずだ。
一時代を築いたものは、誰かによって乗り越えられなければならない。〈メッタ斬り〉は現状の問題点を指摘しただけではなく、乗り越えるべき壁という大きな課題も提示してその幕を閉じたのである。最後にあの海賊王の言葉を引用してこの稿を終えることにする。
「俺の財宝?ほしけりゃくれてやる! 探せ! この世のすべてをそこに置いてきた」
(杉江松恋)