アルコール依存症患者の鴨志田穣を夫に持っていた西原理恵子。
アルコール依存症患者として入院生活を体験し、現在は断酒中の吾妻ひでお。

この二人が同じく依存症から断酒生活という体験を経ている詩人の月乃光司と鼎談を行った。
『実録! あるこーる白書』がその本だ。
自分もお酒は飲むけど、まだまだ依存症にはほど遠い。
そう思っている人は、晩酌をする日を一回減らしてちょっと手に取ってみたほうがいいと思う。それで、「うん、大丈夫」と確信を持てたらまた飲んだらいいんじゃないかな。

依存症患者からの被害を受けた1人と、入院体験者の2人が話していることは結局、以下の3点に尽きる。


1)依存症は病気だから「日々の努力」では治らない。直せるのは「正しい治療」だけ。
2)依存症は現状を否定し続ける心の病気だから、自分がそういう状態にあると認めないかなと絶対に治らない。
3)依存症は病気だということを周囲の人間も知らないと治せないことがある。

さらに言ってしまえばいちばん大事なのは病気についての正しい知識だということである。その事実を広めるようと努力している人の1人が他ならぬ西原理恵子だ。
他の件ではほとんど講演には出ない西原も「日本一有名なアル中家族」として、自分の体験を話す活動をしているという。鴨志田穣のアルコール依存症治療については浅野忠信主演で映画化もされた自伝的小説『酔いがさめたら、うちに帰ろう』に描かれているし、そこに至るまでの状況については夫婦の共著『アジアパー伝』や『毎日かあさん』などの西原作品でもたびたび触れられてきた。しかし、そこに表現されていた内容は娯楽作品として角を丸くした後のもので、実際にはもっと悲惨な体験だったのである。

西原は、鴨志田との離婚に踏み切ったのはDV被害が原因であるとこれまでも公言してきた。本書でも、飲酒中の鴨志田が西原に対して行ったことが淡々と語られている。そのころの鴨志田は「人間として信じられないような言動を、毎日毎日ただもう繰り返す」存在で、しかも野生の動物と同じで弱いもの、すなわち自分の妻である西原にだけしかその凶悪な面を見せない狡猾さまで持ち合わせていた。
やむをえず西原は「子供をお手伝いさんやベビーシッターさんとかに任せながら、夫が寝てる間に」マンガを描いていたのである。鴨志田が起きてくれば、いつひどい言動が始まるかわからないからだ。それこそ原稿も、

西原 サクサク破られましたよ(笑)。そんなの普通でした。

その状況下で鴨志田の酔態までネタにしたマンガを描き続けていたのだから頭が下がる。それを読めば依存症の夫はまた荒れるかもしれないのに。


西原 でも私はプロですから。こう描いたほうがお客さんが喜ぶと思えば、描きますよ。毎日、「プロなんだから、プロなんだから」と念仏を唱えるように繰り返して、面白く描くようにしていました。お客さんはお金をだして買ってくれているんですから。

ここでどうしても、エンターテインメントとして依存症を書くということ、それ自体に思いをめぐらせずにはいられなくなる。
中島らも『今夜、すべてのバーで』は、おそらく日本人の書いたもっとも有名なアルコール依存症小説だろう。
依存症によって体力を削られ尽くし、ついに入院することになった時期を書いた自伝的的要素のある作品で、同棟の入院患者のアルコールに対する凄まじい執着なども描かれた、迫力ある小説だ。実体験を元にしているだけあって、事実の重みさえも感じさせられる。しかし、重要なことを忘れてはいけない。同書は「アルコール依存症の患者を1人でも減らそうとして」書かれたものではないのである。描かれているのはあくまで、中島1人の体験であり、中島という人物に取材した小説的な虚構だ。そこを見誤ってはいけないはずである。

精神科医の春日武彦に『ロマンティックな狂気は存在するか』という著書がある。精神病にルナティック=月の狂気のようなロマンは存在せず、そこにあるのはうんざりするような醜い現実だけなのだ、ということを春日は書いたのだと私は思っている。アルコール依存症について語る際にも、そのような美化は余計な偏見につながりかねない。フィクションはあくまでフィクションと割り切ることが重要だろう。『実録! あるこーる白書』の著者たちが本の刊行に乗り出した動機は、その切り分けにあったのではないか。

鼎談に参加した月乃光司は、小説などの読み物においてアルコール依存症が負性の魅力を持っているように描かれることの弊害について、こう発言している。

月乃 中島らもさんとか赤塚不二夫さん(注)が、魅力的に描かれるのは、じつはこの病気にとってはマイナスなんですよね。僕、中島らもさんすごく好きなんですけど。本人の才能と、酒での奇行などが、ごっちゃにされていると思うんです。それに、亡くなったあとに、テレビでドキュメンタリーをやると“支えていた周りの人々”が美談として紹介されてしまうでしょ。厳しい言い方をすれば、周りの人が支えていたから、死ぬまで飲んでたんですよ。(中略)「地獄への道は善意で舗装されている」って、まさに依存症患者とイネーブラーの関係だと思う。らもさんも赤塚さんも周りが適切な対応をしていなかったと思うわけですけど、そういう指摘ってあまりないですよね。

(注:漫画家の赤塚不二夫が正式にアルコール依存症と診断されたという事実確認が今できていないのだが、長谷邦夫など近くにいた人々の書いたものを読むと、連続飲酒などの徴候が見受けられる。客観的に見ても断定していいのではないか)

イネーブラーという多くの人にとって耳慣れない言葉が出てきている。本書の用語注から引用するとこれは「助長者の意。依存者の被害に遭いながら、依存者を助けるつもりが、間違った支援をしてしまい、結果的に病気の進行に手を貸してしまっている人のこと」だという。このことに関して西原は、日本では女性よりも男性に依存症が多い理由の1つは「男の場合は、周囲の女性、奥さんや母親がイネーブラーになって支えてしまう」からではないか、という意見を表明している。
つきつめて言えば依存症とは現状を否定して幻想の中に逃げこんでいく病であり、それを克服するためのきっかけは自身が「底付き」(自身がどん底にいると自覚すること)の体験をして治療を選択するしかない。残念ながらイネーブラーは、その機会を奪う存在なのである。暖かく見守るのではなく厳しく突き放す決意がこの病気には必要であるということを、イネーブラーの事例は示している。

もう1人の鼎談参加者・吾妻ひでおの体験記は『失踪日記』が世に出ている。すでに読まれた人も多いはずだが、本書巻末の年表によれば吾妻がアルコール依存症による強制入院を体験するのは2回の失踪から戻ってきた後のことである。失踪中、特に二度目のときは生活が苦しく、症状が進行しなかったのだろう。
吾妻の酒量が増えていったのは、「酒を飲まないと眠れなく」なったことが直接の原因だという。自己模倣のサイクルに入ってしまったというもの書きゆえの苦悩が、吾妻を酒に向かわせたのだ。失踪生活の後に飲酒が問題化し始め、ついに朝起きるとすぐに飲む連続飲酒状態に入ってしまう。そこで幻覚と幻聴が始まるのだ。
「隣の家から閉じこめられてる女の子の声が聞こえる」「寝てるときに枕を誰かに踏まれる」といった「幽霊というにはリアルすぎる」体験があり、ポケットにパック酒を入れて常に酩酊状態で過ごすようになる。その状態でも月に4ページの連載を持っていたというのが驚異である(『エイリアン永理』)。アルコール依存症であることは自覚していたが、治療へ踏み切ったのはずっと後のことだった。

吾妻 僕は底付きまでけっこう長かった。というか自分で長くしようと思って勉強してましたから、手の震えとか、朝から飲むとか、幻覚が出た時点で完璧に依存症だとわかってました。それから、だましだまし飲んでましたね。山形飲酒(注:身体が衰弱しているため、飲酒量に山と谷が生じて入る段階)ってやつですね。酒を切らさないで、吐かない程度につねに酔ってると、スプーンリレーのままフルマラソンを走りつづけるそういう状態を保つために非常に苦労しましたね(笑)。

吾妻は現在、自身の依存症を振り返る『アル中病棟(仮)』の刊行を準備している。『逃亡日記』の実質的な続篇だ。『実録! あるこーる白書』を読んでいると、吾妻が本来強い意志の持ち主であるということがよくわかる。依存症の体験者に強い意志というのも変だが、入院生活を先送りにするために現状維持を続けることは、弱い気持ちではできないことだろう。その強さが、治療生活の中でも発揮されているように見えて興味深い。発表されれば、『アル中病棟』は多くの注目を集めることになるだろう。少なくとも私は、読んでみたいと思う。

吾妻と西原と月乃、3人の体験談を読み、その思うところを理解した上で、私は自分自身に「これからもお酒を飲むかどうか」を問いかけてみた。答えは「飲む」である。ただし、アルコール依存症の正しい知識を常に忘れないようにして飲む。そして、自分や家族が健康でいられることを第一に考えられるならば、という条件で飲む。その受け止め方は各人各様でいいはずである。本書も別に、アルコールを悪役視はしていない。飲酒の習慣を絶対に止めろと言っているわけでもない。ただ、「知らずに飲むのは止めろ」と主張しているだけなのだ。お酒を好きなら、その好きなお酒を悪者にしないために。ちょっと目を通しておきましょう。
(杉江松恋)