前田日明の道筋を知っていればこの感情は当然なはずだし、前田を前にして縮み上がらないマスコミがいたとしたら鈍感すぎて逆にヤバい気がする。

UWFに関わる選手、そしてマスコミに籍を置く著者らの若き日が克明に記された一冊。猪木と対峙するUWF勢を「青年将校」と喩えた人がいたが、言い得て妙だ。
「後から猪木さんも行く」と言われ、先発隊として旧Uのエースとなった前田日明
前田日明が前田日明らしくなったのは、ユニバーサルプロレス(旧UWF)旗揚げ以降だと言われている。
ユニバーサル旗揚げの経緯は、プロレスファンならば誰もが知っているだろう。『新日本プロレス 「電撃退団事件史」』(双葉社)のインタビューにて、前田は以下のように語っている。
──当時、前田さんはユニバーサルの構想をどんなふうに聞かされていたんですか?
前田 当時の構想としては、一時期のK-1みたいに民放2局放送を目指すと。テレ朝とフジテレビだよね。で、新間さんからは「おまえはフジのほうの先発隊だ。のちに猪木さんも含めたいろんな選手がフジのほうに出るようになる」と。
──要するに新日本プロレスの所属レスラーの試合を、テレ朝とフジの両方で中継してしまおうってことですよね。それによりテレ朝だけでなくフジからも放映権料が入ると。
前田 そうそう。
蓋を開けたら、旧UWFの旗揚げ戦に猪木が来なかったのはご存知の通りである。
「バッタリ道で猪木さんと会ったら、殺す」
旧UWFのエースとして“出向”させられた前田だが、当時の年齢は若干25歳。大宮スケートセンターにおける旗揚げ戦では、ポスターに顔写真が刷られたスター選手を求める観客たちから“猪木コール”“長州コール”が起こり、その中で憮然とした表情でメインイベンターを務める前田の姿があった。
この頃の前田、そしてUWF勢の抱える忸怩たる思いは、元週刊ファイト副編集長・波々伯部哲也氏による著書「『週刊ファイト』とUWF」に克明に記されている。
「プロレス好きの友人と飲むとき、酒の肴になればいい」という程度のノリでファイトの記者募集に応募した著者と、“プロレスファン上がり”ではなくスカウトという形で新日入りした前田。「前田にとって、プロレスの世界にあまり染まっていない私は、本音で話しやすい相手だったのかもしれない」と著者は分析している。
新日本プロレスから旧UWFへ移籍してきた藤原喜明や高田伸彦(現・延彦)ら選手たち、またはフロント陣など自分に付いてきてくれた仲間への責任感と、そして“私怨”が芽吹いた前田は、プロレスラーとして覚醒していった。前田日明から危険な魅力が放たれ始めたのだ。この頃の前田は、以下のような物騒なセリフまで口にしていたという。
「波々伯部さんならわかるでしょ? オレがどんな思いでUWFをやってきたのか。今、道で猪木さんとバッタリ会ったらオレは殺しますよ」
新日Uターン時に前田が放っていた危険なオーラは、完全にリアルな感情から生まれている。
しかし旧U時代は猪木へ対戦要求をブチ上げるも黙殺されてしまい、憤りが積もるばかり。
前田の空手の師匠であるT氏が暗躍?
経営難に陥る旧UWFで、衝撃的な出来事が発生してしまう。1985年9月2日、大阪臨海スポーツセンターで行われた不穏試合「佐山聡―前田日明」の一戦である。
同書の巻末には著者と前田による対談が収録されており、前田はこの佐山戦について以下のように回顧している。
「俺のところに、伊佐早(企画宣伝部長)と上井(営業部員)が来てね。『佐山をやっちゃってください』と言う。あのときの佐山さんは、強権をふりかざす感じで、『俺はゴッチよりも強い』みたいな、しょーもないこと言ってたからやるしかないと。リング上でやるべきことではなかったんだけど……。俺はそれで、責任をとって辞めます、と言った。(中略)でも、みんなが大阪に迎えにきて、『お前が必要だ』と言ってくれて。俺は、みんなが佐山さんのほうに行くと思ったから、ビックリしたし、うれしかった」
自分のジムを運営し、生活は安泰の佐山が「試合は週に1度しかやらない」と言い出した。
しかし著者は、この試合にキーパーソンがいると読んでいる。前田の空手の師匠であり、マネージャー的存在を買って出たT氏のことだ。
著者によると、かねてより言ってもいないことをさも言ってるかのごとく人に吹き込みけしかける……という行いがT氏からは目に付いたらしい。前田にとって“目の上のたんこぶ”である佐山がフロントから孤立している。「この機に乗じ、シュートマッチを前田にけしかけて佐山を追放してしまえ」。そんな絵を描いたT氏による暗躍を、著者は推測するのだ。
ちなみに現在、前田とT氏が絶縁関係にあることは周知の事実である。
波々伯部 そういえば、T氏って、今は何をされてるんですか? 本当かどうか、大阪でタクシーの運転手をしているとか、ネットで見ましたよ。
前田 知らない。最後に聞いたのは6年前かなあ。
<巻末の対談より>
18歳の船木が落ち込むファンに宣言「これからはボクに期待してください」
新生UWFが旗揚げするや、ファンと前田からの期待を一身に背負う存在として新日本プロレスから船木誠勝が移籍した。
現在、前田と船木は良好な関係を築いているが、希望を抱きUWFに入団するも理想とは違う現実に苦悩する当時の船木の口からは、愚痴・不満ばかりがこぼれ出た。「今は前田さんがいない方がいいんじゃないかと」というセリフまで発したという船木だが、当時はマスコミも船木のことを持て余しており「新人類」「何を考えているかわからない」と、戸惑いながら静観の態度をとるしかなかった。何しろ、この時の船木は若い。新日本プロレスから新生UWFに移籍した頃、船木はまだ20歳である。
船木の直情さを示すエピソードも、同書には記されてある。まだ船木が新日本プロレスに所属していた87年、新日は大阪城ホール大会で「海賊男」なる子供だましのアングルを決行し、ファンからの大ひんしゅくを買ってしまった。
試合後、ミナミのスナックで「プロレスファンやめよか……」とうなだれていたのは、ギタリストの石田長生。ここで「やめないでください」と声をかけてきたのが、後援者に連れられ店に来ていた当時18歳の船木であったという。「これからはボクに期待してください」と告げた船木に興味を持った石田は、それからは猪木ではなく船木を応援するようになったらしい。
「UWFは終わったことだからね」(前田)
それにしても、「UWF」とは一体なんだったのか。各選手のその後を見れば一目瞭然だが、当事者の数だけ答えがあるような気がする。
では、UWFの象徴的存在である前田は今、Uに対してどんな感情を抱いているのだろう。
「あのさあ、もう俺の中ではUWFは25年前に終わったことだからね」
「ああ、またUWFの話をしてるとぐったりしてきたよ(笑)」(「KAMINOGE」vol.29より)
やはりUWFは、選手にとってもファンにとっても“青春”。たまに後ろを振り返り、「あんな時代もあったな」「あの頃があるから今があるんだろうね」と思い出す。そんな存在ではないかと思う。
(寺西ジャジューカ)