わたしたちの身の回りにある、たいていのものには単位があります。報告を受けるときなど、「数字であらわしてちょうだい」などとは、自らもよく口にしている言葉。

それでも、この地球上には、まだまだ知られていない、その土地・思想ならではの単位があるようです。

近代化にともない、使われなくなった人間味あふれる奇妙な単位たち。その単位を知ることで、わたしたちは新しい世界の扉を開くことができそうです。

『はかりきれない世界の単位』から、心の機微に触れる、ちょっとおかしな愛しい単位をご紹介します。

trasarenu トラサレーヌ

日光のなかに浮遊する塵の量

インド、とりわけ古代のインドでは、単位もどことなくロマンチックで哲学的。トラサレーヌは、格子を通して入ってくる日光の光線に浮遊する塵の量。

どうやって測ったのかはともかく、現在インドの貴金属商人が用いているクリーシュナラ(krishnala)の1/1.296とされています。クリーシュナラは122mg。

008~009ページより引用

インドの家屋、そして窓の格子からの光に透けて浮遊する塵の量。想像してみると、異国情緒あふれる国における、独特の視点が興味深いものです。

それにしても、塵の量に単位をつけて数値化することに、どんな意味があったのでしょうか。

古い仏教説話によると、チューラパンタカという僧は、なかなか悟りを開けなかったといいます。

すると、お釈迦様は、チューラパンタカに1本のほうきを手渡し、「塵は心の塵」と心に唱えながら掃除をするように言いわたしたといいます。

「塵は心の塵」と唱えながら、来る日も来る日も、掃除にいそしむ僧。そして、ある日「塵というものは自分の心の中にあるもので、これをきれいにしていかなくてはならない」と気づき、悟りに至ったというエピソードがあるとか。

古代インドにおいて、もしかすると塵というものは、ただの埃やごみという概念ではなく、深遠な存在だったのかもしれません。

目に見えるようで見えにくい、測れるようで測りにくいもの......。ロマンチックかつ、哲学的な単位です。

inframince アンフラマンス

現実と非現実の境界の薄さ

「下の、下方の」という意味の接頭辞「infra-」と、「薄い」という意味の形容詞「mince」を組み合わせたマルセル・デュシャンの造語。物質界にいながら、可能なかぎり非物質界に近い、その寸前に留まることを指した言葉。現実と非現実の境界の薄さ(厚さ)を測る単位ともいえます。

040~041ページより引用

マルセル・デュシャンはフランスの美術家であり、チェスの名手でもあったといいます。そんな彼だから、世の中には無い単位を、自ら作ってしまったのかもしれません。

現実と非現実は、想像的なものとそうではないものという考え方もあれば、ときに思い込みによって概念が逆転してしまっていることもあります。

とくに、芸術の世界に生きてクリエイティブな仕事をしている人間にとって、その境界線はあいまいであることもしばしばです。働く女性たちと話をする中に、こんな言葉を聞くことが時々あります。

「自分がここまで深く仕事をし、このようなポジションに来るとは夢にも思わなかった」ふと来し方を振りかえると、想像していなかった場所に来ている非現実感。

その境界線は曖昧で薄くなっているという感覚は、特殊な芸術家だけの感性ではなく、どんな人にもあてはまるものかもしれません。

katzensprung カッツェンシュプルング

猫がひと跳びする距離

ドイツの距離、あるいは面積の単位。意味は「猫のひと跳び」です。

日本でいうなら「向こう三軒両隣」に近い感覚。夏目漱石の『吾輩は猫である』の舞台も、だいたいそれくらいの範囲でした。遠いときには「カッツェンシュプルングでは無理」などとも言います。

048~049ページより引用

別ページに、チベットの単位で「お茶1杯の距離」というものがありました。熱いお茶を入れて、それが冷めて飲み頃になるまで走り続ける距離であるといいます。意味が似ているものでわたしたちが聞きなれている言葉としては「スープの冷めない距離」などもあります。

「猫がひと跳び」という単位は、さらに距離感が狭い印象を受けます。いつ頃に使われていた単位なのか定かではありませんが、もう少し近しい気配がします。

猫といえば、家族の中に紛れていて、しなやかに動く動物。家族のような近隣のような、適度な距離間のあるちょうどいい場所。幼馴染や長くつきあっている女友達のような、そんな心地よさを感じる単位。

距離や面積を測る単位ということだけではなく、関係性まで表現してくれる単位といえそうです。

はかりきれない世界の単位

著者:米澤敬
発行:創元社
定価:1,600円(税別)

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