#35 掛布雅之(阪神)球宴史上初 3打席連続本塁打の画像はこちら >>

◎1978年7月25日 後楽園球場

全セ  0 0 0  1 5 0  0 2 0  =8

全パ  0 2 0  1 0 0  0 0 2  =5

HR(全セ)掛布1号・2号・3号 山本浩1号

(全パ)藤原1号

「きょう2本のホームランをライト観覧席に打ち込みました掛布が左バッターボックス。また“掛布コール”が出ました。

ボールカウントは1ストライク・ノーボール。ピッチャー、振りかぶって第2球を投げた。……打った! これもいい当たりだ! 入るか? グーッとボールが伸びている!ライトは見送っています。フェアかファールか? ホームラン!! 今、掛布がホームインしました。この試合3本目のホームラン!」

球界を代表するスター選手か、その年の前半戦に好成績を残した選手のみが出場できる「夢の球宴」、プロ野球オールスターゲーム。野球ファンが注目するこの大舞台で、史上初めて「3打席連続アーチ」を放ってみせた選手がいる。1978年、当時阪神タイガースの若き主砲として活躍していた“4代目ミスター・タイガース”掛布雅之である。

掛布は高校時代、2年生の夏に「4番・遊撃」で甲子園に出場しているが、身長は175センチと野球選手としては小柄だったこともあり、プロのスカウトから声は掛からなかった。掛布の父親は、知人のツテを頼って阪神・安藤統男(1973年に引退、のちに監督)に相談。そのおかげで1973年秋、掛布はテスト生として阪神の秋季キャンプに参加できることになり、そこで金田正泰監督(当時)に認められて、この年のドラフトで阪神の6位指名を勝ち取った。東京六大学野球のスター選手として法政大学からドラフト1位で入団した“3代目ミスター・タイガース”田淵幸一とは対照的に、掛布は入団時、ほとんど注目されていなかったのだ。

掛布は1974年の春季キャンプで、引退後即コーチに転じた安藤に打撃指導を受け、オープン戦で打ちまくった。

高卒1年目で、いきなり開幕1軍の座を手にした掛布。高校時代はショートだったが、当時の阪神には名手・藤田平がいたため、同期のドラフト1位・佐野仙好(中央大学卒)とサードのレギュラーを争った。3年目の1976年、掛布はホームラン26本を記録しサードに定着。一方、佐野は外野へ。高卒のドラフト6位が大卒のドラフト1位に勝ったのだ。その陰には人一倍の猛練習があったのは言うまでもない。掛布は翌1977年もホームラン23本を放ち、甲子園にはいつしか「掛布コール」が響きわたるようになった。

1978年も「掛布フィーバー」は続いたが、実はこの年の前半戦に思わぬアクシデントがあった。頭部に死球を食らい、恐怖心から打席で踏み込めなくなってしまったのだ。ホームランも出ず、絶不調に陥った掛布を救ったのは「練習」だった。恐怖に打ち克つには、マシン相手にひたすら打ち込むしかない。遠井吾郎コーチが1週間、何も言わず球を拾い、マシンにボールをセット。

黙々と付き合ってくれたという。掛布の周囲には、よき先輩や指導者がいた。

こうして恐怖心を克服した掛布は、1978年のオールスターゲームに出場。後楽園球場で行われた第3戦、全セの3番を任された掛布は、4回の第2打席、佐伯和司(日本ハム)から右翼スタンドにソロアーチを放ち、ファンを沸かせた。しかしこれはまだほんの序章にすぎない。5回の第3打席は、佐藤義則(阪急)のストレートを再び右翼スタンドへ。さらに8回の第4打席は、パ・リーグを代表する速球王・山口高志(阪急)と対戦した。

山口は、掛布の打ち気をそらそうとカーブを投げたが、当たりまくっている掛布の前には意味をなさなかった。振り抜いた打球は 3たびライトスタンドへ一直線。オールスターゲームでの3打席連続アーチは、それまで誰も達成したことのない史上初の偉業だった。もちろんMVPに選ばれた掛布。この年、全セの指揮官を務めた巨人・長嶋茂雄監督は、試合後こう語った。

「掛布君は、本当のスターになった」。

実際、この球宴3連発は、掛布のキャリアの上でも大きな意味を持つ出来事になった。この年、掛布はホームラン32本を放ち、翌1979年には自己最多の48本を記録。初のホームラン王に輝いた。ホームラン王のタイトルは以後1982年(35本)、1984年(37本)と通算3度獲得。1985年には、同僚に三冠王ランディ・バースがいたためタイトルは獲れなかったが、4番打者としてホームラン40本を放ち、阪神を21年ぶりのリーグ優勝と、球団史上初の日本一に導いている。

<チャッピー加藤>

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