’26年4月のメジャーデビュー以来、老若男女問わず絶大な人気を集めている歌謡コーラスグループのモナキ。このグループのプロデューサーを務めるのは、純烈のリーダーとして知られる酒井一圭(51)だ。

“俯瞰する子”だったという子役時代から、長らく家族に強いた困窮生活、そして純烈の結成秘話まで、酒井の知られざる波乱万丈な半生に迫る!

■関連動画の総再生回数が17億回を突破…モナキを率いる酒井の原動力とは

コロコロとキャリーケースを転がしながら、新宿・歌舞伎町にほど近いクラブに姿を現したのは、ムード歌謡コーラスグループ「純烈」のリーダー、酒井一圭。いや、この日はデビューしたばかりの純烈の弟分にあたる人気グループ「モナキ」のプロデューサーとしてやってきたのだ。

「デビュー曲『ほんまやで☆なんでやねん☆しらんけど』のユーロビートバージョンを作ったので、ファンも参加するミュージックビデオの撮影があるんですよ」

モナキは関連動画の総再生回数が、17億回を突破。“名もなき者たち”がグループ名の由来となっているが、4月のデビュー後から立て続けに音楽番組、バラエティ番組に出演、冠番組『冠モナキ』(テレビ朝日系)も始まり、存在感は急速に増している。

そんなモナキのメンバーが「あ、酒井さん」と驚いたのは、酒井が現場に来ることが珍しいから。

「ボクが行ったのはデビュー関連のイベントくらい。楽屋で『ようこれまで頑張ったな』って送り出しました。

気合を入れるため、よく円陣組んだりするじゃないですか。でも、それでうまいこといくなら苦労せんわって。ボクの場合、熱くなりすぎるとムラも出てくるので、純烈では円陣禁止にしているんですよ。モナキはどうしてるか知らんけど」

こう語る酒井は、子役時代に『あばれはっちゃく』シリーズで熱血少年である主人公・5代目桜間長太郎役に抜擢されたが、番組終了とともに芸能界を去ることに。高校卒業後にカムバックするも、まったく売れない時代を過ごした。

のちに結婚して子供を持ち、32歳で純烈を結成。8回連続で紅白出場を果たすグループに成長させ、現在プロデューサーとしてモナキの育成に手腕をふるっている。

「みんな、バラバラで自由でOK。でも、一つのことでワッと盛り上がれるものを作りたい」

周囲を幸せな気持ちにさせたいと思うのは、やりたいことに打ち込める環境を作り支えてくれた家族の存在があったからだという。

■弟の病気を受け止められず睡眠障害に。夜は錯乱して泣き喚くことも──

酒井一圭は’75年6月20日に、大阪府吹田市で生まれた。幼いころは、テレビのお天気コーナーの中継があれば、後ろでピースサインをして画面に映り込むような、テレビが大好きな“昭和”の少年。

児童劇団に入団し『逆転あばれはっちゃく』に大抜擢されたのは、小学3年生のとき。家族は喜んでくれたが、母親が送り迎えをしてくれたことは一度もなかった。

「5歳下の、自閉症の弟につきっきりやったから。弟はかわいいけど、子供ながらに彼の病気を受け止めきれないところもあって、半年ほど睡眠障害に……。布団に入って1時間ほどしたら、錯乱して泣き喚いていたそうなんですが、全然、記憶にない。

親が録音した音声を聞いてびっくりしました」

弟の自閉症が酒井の生き方にも影響を与えたという。

「自分の気持ちを伝えられず生きづらさを抱えている弟の分も、自分は人に嫌われようが好きに生きていこうって決めたんです。弟のおかげで今の自分がいる」

いつもポケットサイズの地図を片手に、一人で仕事現場に向かっていた。親の手を離れて自ら行動していたこともあり、大人びた部分があった。『あばれはっちゃく』の最終回の撮影時、歴代はっちゃくの父親役をつとめた東野英心さん、母親役の久里千春さんは、こんなことをこぼしていたという。

「一圭くん、もうちょっと懐いてもよかったんじゃないか。これまでの4人の長太郎は、肩や膝に乗ってきたんだよ」と──。

「芝居では甘えて膝に乗るのに、カットがかかると『ありがとうございました』と素に戻るんです。寂しがり屋だから集団にいるのは好きなんですが、ふとした瞬間に“スンッ”となり、冷静に周囲を俯瞰する子やったんです」

自分を客観視できたからこそ、『あばれはっちゃく』終了後、あっさりと芸能界から身を引いた。

「余力があってやめたわけではなく、全て出し切って一滴も出ない状態。あのまま子役を続けていたら、病んでつぶれていたはずです」

ごく普通の小・中・高校時代を過ごしたものの、高校2年から進路を考え始めると、やっぱり自分が進むべきは芸能界しかなかった。進路を決定づけたのは、高校3年の文化祭で歌ったことだ。

「周囲は誰もが“はっちゃくの酒井”と意識していました。ボク自身はそっとしておいてほしいから、なるべく目立たないようにしていたんです。でも芸能界に戻ることを考えていたときに『文化祭ライブでブルーハーツをやらないか』と誘いがあって、どれだけ自分ができるのか試したくなった。ウケたら芸能界に戻り、スベったら戻らないって決めたんです」

ライブの様子は、今でも色濃く記憶に残っている。

「自分が死ぬとき、走馬灯の中にあのライブのシーンが絶対にあると断言できるほど“芸能界に進もう”と決意させてくれた出来事。まあ、騒ぎたいやつらがライブに来たわけやし、ブルーハーツのコピーやから誰がやっても盛り上がった気はしますけどね(笑)」

しかし、再び芸能界に進んだ酒井を待ち受けていたのは険しい道のりだった──。

■妻と子供に強いた貧乏生活。「売れない俳優」脱却の契機は、“夢でのお告げ”

「高校を卒業して最初にやったのは、『演劇ぶっく』という雑誌を買って、旗揚げしたばかりの劇団の面接を受けたこと。出鼻を挫かれたのは、チケットを売るノルマが課されたこと。子役出身のボクは出演料をもらうのは当たり前だったから“こんな苦労をしてまで、オレは芝居がしたいのか?”と自問自答するハメに(笑)」

そんなとき、たまたまアルバイト先の友人を介し、舞台出演のチャンスに恵まれた。話はとんとん拍子に進んでいく。偶然にも、舞台を見ていた関係者から、実家に電話がかかってきたのだ。

「『はっちゃくをやってた酒井くんでしょ。今度、映画撮るから、準主役として出てよ』って。それが『横浜ばっくれ隊』(’94年)という作品でした。まだ売れる前のバナナマンの日村(勇紀)くんやピコ太郎(古坂大魔王)もいて、夢を持って頑張っている仲間から刺激を受けました」

スーパー戦隊シリーズ『百獣戦隊ガオレンジャー』(’01年)にガオブラック役で出演してからしばらくしたころ、一人の女性と再会した。遡ること約7年、酒井が駅前でティッシュ配りの仕事をしていたときに知り合った女性だ。

「’03年の佐藤浩市さん主演ドラマ『高原へいらっしゃい』(TBS系)に出たとき、女性がボクのことを覚えていて、調べると『ガオレンジャー』にも出ていたことがわかったそう。それでホームページからメールを送ってくれたんです」

再会してすぐ「結婚相手はこいつしかおらん!」と直感が働いた。時代はまさに、木村拓哉を筆頭に元SMAPメンバーがドラマ界を席巻していた。

「正直、ボクが活躍できる場所がないわけです。普通は20代でバリバリ仕事をして、お金を貯めてから家庭や子供を持つというのが当たり前なんだろうけど、そんなことオレ、絶対できへんやんって。“オレが活躍するのはまだ先、40代、50代からや”と考え、その前に結婚しようって逆の発想をしたわけです」

とはいえ、“売れない俳優”では両家から結婚の許しがもらえない。

「両家の集まりで、うちの母親ですら『こいつと一緒になっても絶対に幸せになれへん』と力説してましたが、妻の両親はすごく大らかでいい人やったんです。

『2時間ドラマに出られるといいね』と勇気づけてくれて、ボクも『死体役でも頑張ります!』と、会話もなごやかでした」

女性と結婚してまもなく長男が誕生。思惑どおりに事を進めたが、課題は生活資金だ。

「当時の収入源は、キャスティングやマネジメント業でしたが、そのほかはバイトをまったくせず、芸能の仕事もあんまりない状況やから、やるのは競馬ばかり。妻も子育てで働けないから、両家が総力戦で、ボクの生活を支えてくれました。

うちの親父も、妻に『あいつ(酒井)には絶対に言うな。競馬に使ってしまうから』って、内緒で生活費を振り込んでくれたんです」

内心では「オレが活躍するのは40代、50代やから、まだやねんな。実際、時代がな……」と売れる確信はあるものの、その根拠については「多分言っても理解できないからな……」と、妻には貧乏生活を強いていたという。

「それでも妻からは、何も文句を言われたことがないんですよ。買い物も、割引シールが貼られる夕方以降やったし、毎日のように安いもやしで料理を作ってくれて。長女、次男にも恵まれましたが、下の子になるほど洋服がお古になるから、ボロボロになっていくんです」

’05年、「あまりにヒマだった」から、公園で友人と遊ぶ感覚で自主映画『クラッシャーカズヨシ』の主役を演じる。その撮影中のハプニングが大きな転機を呼んだ。

「『トウッ』と言って1mくらいの高さから飛び降りるシーンで、右足首を負傷したんです。

痛みで押さえていた手を恐る恐る離すと、骨からシャリシャリっていうやばい音がして……」

救急車で病院に運ばれると、外科医から「今までどおりに歩けるかは保証できません」と言われるほどの重傷。最悪の事態も覚悟したが、酒井はなぜか病院で、連日のように大御所歌手である前川清の夢を見たという。

「スモークの中で、微動だにせず前川さんが歌っているんです。なんで毎晩出てきはるのかなって考えるうちに“お告げやな”って気づいて。歩けないと俳優は続けられないかもしれんけど、歌手ならできるかもって思ったんです」

幸いにも足は無事に回復。退院後、酒井は自分と同じような特撮ヒーロー出身者に声をかけ、’07年に純烈を結成。’10年にメジャーデビューを果たしたのだった。

(取材・文:小野建史)

【後編】純烈・酒井一圭 大ブレイクの「モナキ」に「毎日60点でいい」と教える理由…メンバー4人が明かす「兄貴からの金言」へ続く

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