時は江戸時代。全国から米が集まる大坂・堂島では、先々の米価を扱う「先物取引」が盛んに行われていた。
このような物語を描いた小説が、直木賞作家・門井慶喜さんの『天下の値段 享保のデリバティブ』(文藝春秋)です。江戸時代に大坂で生まれた堂島米市場は、「世界初の組織的な先物取引所」と言われます。なぜこの舞台を題材に小説を書いたのでしょうか。門井さんに聞きました。
堂島米市場にたどり着いた意外なきっかけ
――本作では、さまざまな策略で堂島米市場を支配しようとする江戸幕府と、その市場を守ろうとする大坂商人の攻防が描かれています。そもそもどのような経緯から、江戸時代の堂島米市場を小説の題材にしたのでしょうか。
門井 私はこれまで、おもに歴史小説を手掛けてきたのですが、次の作品テーマを出版社の方と探す過程で、日本史の中には「世界初といえる出来事が少ないよね」という話になったのです。国内では偉業だとしても、世界全体で見て「日本が初めて実現した」ということは決して多くありません。
こうした中で、日本で生まれた世界初の出来事で何か書けないかと考えるようになりました。
――先物取引や株式投資に興味があったというよりは、「世界初」を探す中で行き着いたんですね。
門井 私も一応、株式投資や資産形成はしていますが、本当に真似事レベルです(笑)。専門的な知識があったわけではありません。ですから、この小説を書くにあたって一から勉強しました。
特に参考になったのが、経済史研究者である高槻泰郎先生が書かれた著書『大阪堂島米市場 江戸幕府vs市場経済』(講談社)です。この本を読むうちに、「これは小説として魅力的な題材になる」と感じました。
江戸と大坂の「お金に対する感覚の違い」とは
――そのような経緯で生まれた本作について、ぜひ見どころを教えてください。
門井 この作品を読むと、2つのいいことがあると思います。1つは、江戸時代の堂島米市場に行ったような、マーケットの現場に立ったような感覚になれること。実際に作中では、商人たちの売り買いの声が飛び交う様子を細かく描いています。
また、当時のマーケットは屋外だったので、いつまでも商人が取引をし続けないよう、時間になると係の者が水を撒いて退散させる風習もありました。そういった風景も描かれています。
――確かに、読んでいるだけで江戸時代の市場の様子が思い浮かびます。では、もう1つの「いいこと」は何でしょうか。
門井 当時の江戸と大坂の「お金に対する感覚の違い」が分かることです。正確には、江戸の武士と大坂の商人の感覚の違い、といった方が適切かもしれません。
この時代、江戸にいる人の約5割は武士だったと言われます。その武士にとって、お金は「物と交換するためのもの」でした。野菜やお酒と交換する、衣服と交換するなどです。
一方、大坂の商人はというと、物と交換するためのお金という面はありつつ、さらにもう1つ、お金は「お金と交換するためのもの」という考え方もあったのです。お金をさらに増やすためにお金を使う、あるいは「お金を得る権利」とお金を交換するという表現もできます。
つまり大坂には、お金だけの売り買いで損得が生まれる世界がありました。
これはあくまで私なりの捉え方ですが、経済と金融をあえて区別するなら、お金で物を買うのが経済で、お金でお金を買うのが金融だと考えています。この視点で言えば、大坂は早くから“金融”が発展した地域ではないでしょうか。
金融の街・大坂の誕生背景に「海路」の事情
――それにしても、なぜ江戸時代の大坂で、これほど米の取引が盛り上がったのでしょうか。それも、先物取引が組織的に行われるまで進化していった理由はどこにあると思いますか。
門井 あくまで個人的な見解ですが、明確なきっかけがあったというよりも、「自然発生的にそうなった」のではないでしょうか。そうとしか言いようがない気がします。
ただし、大坂には自然発生を起こす条件が揃っていたのは事実です。まず、そもそもお米が集まらなければ、こうした取引が活発になることはありません。その点、大坂は全国からお米が集まる場所でした。
お米は重量がありますから、江戸時代の技術では陸路で運ぶのは容易ではありません。
なぜ大阪湾かと言えば、古代から日本の海上輸送は瀬戸内海が大動脈となってきました。波が比較的穏やかで、かつ日本海側と太平洋側の両方に接続できるからです。そのため、このルートの先にある大阪湾に米が輸送されました。
こうして集まってきたお米は、大坂商人に売られるのですが、重い米俵を現場に持ってきて売り買いするのは面倒です。そこで、米の問屋は商人に“米切手”という紙の証明書を渡して、「あとでこの米切手を持ってくれば現物の米と交換する」というやり方にしていきます。
するとそのうちに、もらった米切手を商人同士が取引するケースが出てきました。米の時価は変動するので、米切手の売り買いで得する人・損する人が生まれます。次第にトレーダーのような人が出て、大坂で取引が活発化していったのではないでしょうか。
――そうして、先物取引にまで発展していったと。
門井 このような動きによって、大坂は自然発生的に「金融の街」に変貌していったのだと思います。
――今のお話を伺うと、日本の金融において大阪が重要な地域だったことがよく分かります。JPXグループの大阪取引所でも、現在、先物取引をはじめとしたデリバティブ取引を管理しており、江戸時代からのつながりを感じるのではないでしょうか。なおこの後のインタビュー(後編記事)では、門井さんが興味を持っている市場の歴史や、堂島米市場と現代の共通点などを聞いていきます。
(取材・文/有井太郎、撮影/森カズシゲ)
※記事の内容は2026年8月現在の情報です

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