■「経済安全保障」と「生物安全保障」
米中覇権争い、ロシアによるウクライナ侵攻、中東情勢の緊迫化など、半導体やエネルギー分野を中心に「経済安全保障」への社会的な関心がかつてないほどに高まっている。
その一方で、いま世界で静かに重要性を増しているのが、「生物安全保障(バイオセキュリティー)」である。
日本でも、その最前線の1つといえる害虫駆除の現場で異変が起きている。
■沖縄のゴーヤーは本土に持ち帰れない
沖縄に観光へ行っても、ゴーヤーやスイカ、トマト、パパイヤなどを自由に本土へ持ち帰ることができなくなっている。空港では植物検査が行われ、国による「検査済み」でなければ持ち出しは禁止される。
日本はいま“長期防疫戦”に突入している。相手は、海外から侵入した小さな害虫――セグロウリミバエだ。
3月18日に放送された日テレNEWS「every.特集」(*1)でも話題になったこの害虫は、今や鹿児島県の奄美群島にまで広がっている。
しかも問題は、単なる害虫被害にとどまらない。冒頭に書いた通り、これは日本の「生物安全保障」が機能不全を起こし始めていることを示す危険信号なのである。
■「初動防除」はなぜ失敗したのか
セグロウリミバエが沖縄本島の名護市で初めて確認されたのは2024年3月だった。
このハエは、ウリ類やナス類、熱帯果実などの果実内部に産卵する。幼虫は果実の中を食い荒らし、農業に深刻な経済被害をもたらす。その危険性から「特殊害虫」と呼べる大害虫だ。
東南アジアでは普通に生息しており、今回の発生も海外から持ち込まれた可能性が高いとみられている。
問題は、その後だった。
■国際的な植物防疫上の問題にも
侵入したセグロウリミバエは、わずか数カ月で沖縄本島各地へ急速に拡散した。
2024年冬には中北部まで広がり、農林水産省は沖縄県・総合事務局・農研機構の害虫対策の研究者・特殊害虫の専門家らと協議の上、2025年4月、「緊急防除」の発動を決定した。
これは極めて重い措置だ。簡単に言えば、沖縄本島で栽培された対象果実(*2)は、国の検査を受けなければ島外へ持ち出せなくなったのである。
もし寄生した果実が本土へ持ち込まれ、九州以北で定着すれば、日本の果菜農家は大打撃を受ける。さらに、日本は他国から、このミバエが発生している国とレッテルが貼られる。
そうなると、このハエが普通に生息する国々から、消毒なしで安価の果実が輸入される。つまり日本は「セグロウリミバエ発生国」とみなされ、国際的な植物防疫上の信用も失いかねない。
だからこそ、侵入初期の“初動防除”が極めて重要だった。
■殲滅を狙った「作戦」
政府と沖縄県は、侵入初期に徹底防除を試みた。
近縁種のウリミバエのオスを誘引する「キュールア」という誘引剤に農薬を混ぜ、約4センチ四方の板に染み込ませて大量に散布して、セグロウリミバエの拡散を最小限にとどめようと、夏の暑さとも戦いながら、日々発生現場を駆けまわった。中には熱中症で具合の悪くなった者も大勢いた。
そのほかにも現場の職員たちは、発生地域周辺の寄主植物の徹底除去、農薬散布、メスを誘引するタンパク質に農薬を混ぜた薬剤の投入、トラップ調査など、考えられる対策を駆使した「総力戦」が行われたのである。
農家の皆さんも、収穫間近の果菜類をやむなく破棄し、畑に残った残渣の果物を暑い中せっせと処分した。大変な労力をかけて国と自治体に協力したのだ。
家庭菜園では、ゴーヤーやヘチマを育てるのを毎年、楽しみとしているオジーやオバーも涙をのんで、栽培を自粛した。日光が強すぎて夏場に葉野菜の作れない沖縄では、夏場のビタミン補給にウリ類の自給は欠かせない。これはいわば風習である。
関係者の間では、「2~3年で根絶できる」という期待もあった。当時の試みについては以下の記事を参照してほしい(「一刻の猶予もない」ゴーヤー、フルーツは沖縄県外へ"持ち出し不可"に…特殊害虫を絶滅させる驚きの方法)。
■結果は「惨敗」
しかし――結果は惨敗だった。初動防除は失敗に終わったと言わざるを得ない。
2025年夏には、那覇市を含む南部地域でも大量に確認されるようになり、沖縄本島全域と周辺離島へ拡大。国はやむなく2027年3月まで緊急防除の延長を決めた。
さらに、あろうことか奄美群島へもセグロウリミバエは侵入した。データは未公開だがDNA解析の結果、ミバエは沖縄本島から北上したこともわかっている。与論島、沖永良部島、徳之島では、すでに“蔓延状態”に近い(*3)。
2026年の4月までに奄美以南の鹿児島県に仕掛けた罠につかまったセグロウリミバエの数は1627匹にのぼっている(*4)。
つまり、日本は「侵入阻止」に失敗し、「封じ込め」にも苦戦しているのである。
■いま沖縄の空では「ハエ」が降っている
だが、現場は手をこまねいているわけではない。日本へのセグロウリミバエの定着を阻止するために、いま沖縄では、かつてウリミバエ根絶(1993年に沖縄・奄美全域から)に成功した“最終兵器”が投入されている。
「不妊化法」だ。
これは、大量飼育したミバエに放射線を当て、不妊化したオスを空から大量放出する方法である。野生メスが不妊オスと交尾すると卵は孵化(ふか)しない。これを繰り返せば、野外個体群は徐々に減少する(*5)。
現在、那覇市にある「ハエ工場」では、毎週2400万匹規模のセグロウリミバエを増殖できる体制が整えられている。
そして伊江島などでは、ヘリコプターから毎週数百万匹の“不妊バエ”が空中散布されている。
文字通り、「空からハエが降っている」のである。
実際、2026年春には、伊江島で野生個体数の減少傾向も確認され始めた。この方法は、日本がかつて世界に誇った駆除技術でもある(*6)。
しかし、問題はその規模だ。
■「沖縄だけで手いっぱい」…奄美に回せない現実
かつて週に1億匹以上のウリミバエを増産した那覇にある「ハエ工場」の生産能力では、沖縄対応だけで限界に近い。奄美群島まで全面展開する余力はない。
セグロウリミバエは、ウリミバエよりも一回り体サイズが大きいことも対応を難しくしている一因だ。
そのため政府は、かつてウリミバエ増殖施設だった奄美大島の施設改修予算を計上した(*4)。だが、現場関係者によれば、本格稼働は2027年以降になる見込みだという。
つまり、それまで奄美群島では「十分な武器」がないままに、この新手の敵と戦わなければならない。
しかも相手は生物である。生物は進化する。
■恐れていた変異体の出現
かつてのウリミバエ根絶事業でも、「不妊オスを避けるメス」の変異体が出現した可能性を示す研究結果があった(*7)。
ウリミバエの折には、根絶作戦に仕事人生を懸けた多くの研究者や技術者が、強いリーダーシップのもと大量飼育法や不妊化のための技術開発、ミバエの野外での生態や行動の基礎的な研究を行った(*5)。
当時は根絶のための事業を行うミバエ対策事業所(現:病害虫防除技術センター)と、基礎的な研究を担う国の指定試験地であるミバエ研究室(沖縄県農業試験場内に配置されていた)の研究員、そして行政担当者が両輪となって、根絶に向かって全力でエネルギーを傾けた。
国の都合によって、指定試験地が廃止された今、セグロウリミバエについては、生態や行動について腰を据えて調べる研究組織すらない。
■気温の上昇とともに増える害虫
そして野外のミバエの数は、今年の春になり、気温の上昇とともにさらに増え続けている。
沖縄県のスタッフは、いま、総出でみな毎日、那覇にあるハエ工場でセグロウリミバエを大量に増殖しては、ヘリコプターに積み込み、発生の多い地域で野生虫と戦う不妊虫を必死で撒き続けている。
その傍(かたわ)ら、昼夜も惜しまず、セグロウリミバエの行動や生態の基礎研究も行っている。現場から聞こえてくるのは、とにかく腰を据えて、防除と研究に取り組める人員も時間も圧倒的に足りない、という切実な声だ。
繰り返すが、戦っている相手は新たに日本に上陸した生物であり、生物は変異し続ける存在である。
つまり日本は、「よく知らない相手」と、「先の読めない戦争」をしているのである。
■私たちがコロナ禍で学んだこと
この構図に、既視感を覚える人も多いだろう。コロナウイルスである。
2019年末からのコロナ禍の中で、街には人がいなくなった。みんな密を避けて家にこもり、外界との接点はオンラインのつながりだけとなった。病院では身内の面会もままならなかった。あの数年間は、いったいなんだったのだろうか。
初動封じ込めの難しさ、変異株への恐怖、物流と人流の混乱、社会全体への長期的ダメージなど、今回の害虫駆除と重なる部分は多い。私たちは、つい数年前にそれを経験したのだ。
にもかかわらず、日本では依然として「バイオセキュリティー」という概念が十分共有されていない。だが本来、生物安全保障とは、以下のような分野を横断する“国家レベルの危機管理”だという認識が高まる必要がある。
・外来生物
・感染症
・水際防疫
・国際物流
・インバウンド
・気候変動
・生態系保全
・農業安全保障
■「生き物」がリスクになる時代
害虫問題は農業に限った話ではない。
外来種対策もミバエのみならず、ヒアリ、ツマアカスズメバチ、クビアカツヤカミキリ、セアカゴケグモ、アライグマ、ヌートリア、ブラックバス、カミツキガメ、オオキンケイギクなど、毎日のようにメディアを騒がせている面々がいる(*8)。
そして危機は、害虫被害や、あるいはウイルスによる感染症といった個別事象、つまり、「点」でとらえるべきではない。
害虫やさまざまな生物、あるいは目に見えないウイルスまで、国境を越えてさまざまな危機が侵入してくる、広義の「バイオリスクの時代」ともいえる社会環境にあって、日本社会はいったいどう備えるかが問われているのである。
■国家戦略としての「生物安全保障」
セグロウリミバエは、いまも北上を続けている。この現実は、けっして「遠い南国の害虫騒ぎ」ではない。
物流と観光が活発化し、人とモノが高速移動する時代、外来生物や病原体は、かつてないスピードで国境を越える。そして気候変動は、それらが定着しやすい環境を広げていく。
いま沖縄で起きていることは、日本の未来の縮図かもしれない。
経済安全保障が叫ばれる時代に、日本はようやく「生物安全保障」を国家戦略として真剣に考える段階へ入った。私はそう感じている。
■引用文献・サイト
*1 【現地緊急取材】沖縄で農作物を腐らせる“害虫”を確認!‟根絶作戦”を展開中 news every.
*2 「セグロウリミバエの緊急防除について」植物防疫所 最終更新日:令和8年1月13日
*3 「新たな誘殺数 伊仙町100匹と集中」奄美新聞社 2026年4月28
*4 「防除へ1億8300万円計上」奄美新聞社 2025年8月27日
*5 宮竹貴久 2024『特殊害虫から日本を救え』集英社新書
*6 Koyama J et al. 2004. Annu Rev Entomol 49, 331-349
*7 Hibino Y, Iwahashi O 1991. Appl Entomol Zool 26, 265-270
*8 「日本の外来種対策」環境省
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宮竹 貴久(みやたけ・たかひさ)
岡山大学学術研究院 環境生命自然科学学域 教授
1962年、大阪府生まれ。理学博士(九州大学大学院理学研究院生物学科)。ロンドン大学(UCL)生物学部客員研究員を経て現職。Society for the Study of Evolution, Animal Behavior Society終身会員。受賞歴に日本農学賞・読売農学賞、日本生態学会宮地賞などがある。主な著書には『恋するオスが進化する』(メディアファクトリー新書)、『「先送り」は生物学的に正しい』(講談社+α新書)、『したがるオスと嫌がるメスの生物学』(集英社新書)、『「死んだふり」で生きのびる』(岩波書店)、『特殊害虫から日本を救え』(集英社新書)などがある。
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(岡山大学学術研究院 環境生命自然科学学域 教授 宮竹 貴久)

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