■“竹中半兵衛=天才”は本当か
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。6月14日放送の第23回「さらば半兵衛」でついに、竹中半兵衛(菅田将暉)が世を去ることになる。
その最後の仕事は、有岡城で荒木村重(トータス松本)に捕らえられたにもかかわらず、信長(小栗旬)から裏切ったと疑念をかけられた官兵衛(倉悠貴)の嫡男・松寿丸(森優理斗)を替え玉と入れ替えて助命するというもの。替え玉作戦を実行するといいながら、実は半兵衛は松寿丸を謀殺するのではないかと、小一郎(仲野太賀)は疑念を抱く。果たして、半兵衛の本心は……という展開だ。
こうして、播磨攻めの最中に病に倒れた半兵衛は1579年6月、陣中で没した。享年36歳。当時としても、あまりにも若すぎる死だった。
だが、ここでちょっと待ってほしい。
「さらば」と惜しまれるほどの活躍が、西国の戦場に移ってから、いったいどこにあったのかと思わないか?
あれほど輝いていた天才が、中国攻めに入った途端に、まるで存在が薄くなっている。そう、蜂須賀小六が、次第に存在感を失っていった感じで。
■信長→半兵衛「銀100両の褒美」
中国攻め以降、半兵衛はなにをしていたのか。史料を確認すると、その実績は驚くほど乏しい。もちろん『信長公記』をみると、確かに半兵衛はちゃんと働いている。1578年5月24日の記述には、こう記されている。
5月24日、竹中半兵衛申し上げ候の子細は、備前の内、八幡山の城主、御身方仕り候由、申し越し候。ご満足なされ、羽柴筑前秀吉かたへ、黄金百枚、ならびに竹中半兵衛に銀子百両下され、忝き次第にて、罷り帰り候なり(「信長公記」『戦国史料叢書 第2』人物往来社、1965年)。
筆者訳:5月24日、竹中半兵衛が(織田信長公に)申し上げたことの詳細は、備前国の内にある八幡山の城主が、こちら(織田方)の味方をしたいと申し出てきた、ということでした。(これをお聞きになった信長公は)大変満足され、羽柴筑前守秀吉の方へ黄金100枚を、また竹中半兵衛には銀100両を(褒美として)下さりました。大変ありがたいことで、半兵衛は退出いたしました。
■“直家が算盤をはじいただけ”ではないか
そう、ドラマで描かれる直家の調略では確かに実績をあげている。
この備前八幡山城は、現在の岡山市東区西大寺にあった西大寺八幡山城のことだ。
でも、この後、直家が信長の側についたのは、半兵衛の報告から実に半年以上が経ってからだった。
しかも、八幡山城の調略がどれほど影響したかはわからない。直家が動いた理由は、毛利の輝元が翌年1月に予定していた上洛を突然断念したこと、そして信長から備前・美作の領有を確約されたことにある。半兵衛が糸を引いたというより、直家が自分の算盤をはじいて動いただけのようにもみえる。
つまり半兵衛は、まだ確定していない案件を「備前の城主が味方に」と信長に上申し、銀子百両の褒美を受け取ったのである。おまけに、信長陣営にとって「ついに備前が動いた!」と小躍りするほどの大事件として受け取られて太田牛一がわざわざ筆を執って記録するほどの「成果」になってしまっている。
ちょっといい加減ではないだろうか。わずかな兵力で稲葉山城を奪取、秀吉の三顧の礼を受けて軍師になるなど、天才軍師としての活躍が際立っている前半生に比べると精彩を欠いているようにみえてしまう。
■“軍師エピソード”は、ほぼ美濃時代のもの
これを、病のせいで精彩を欠いていたと、好意的に解釈することもできる。しかし、もう一つ別の見方もできる。
半兵衛は、すでに時代遅れになっていたのではないかという見方だ。
「軍師・竹中半兵衛」として語られるエピソードを並べてみると、ほぼすべてが美濃時代のものだ。稲葉山城乗っ取り、龍興との局地戦での活躍。いずれも少数精鋭による奇襲・謀略戦である。半兵衛が最も輝ける舞台は、小さく、速く、鮮やかに動ける戦場だった。
ところが中国攻めに入ると、スケールが根本から違う。相手は毛利という西国最大の大大名。複数の戦線を同時に動かし、兵站を維持しながら長期戦を設計する戦争になる。局地的な謀略の天才が、そのまま大規模戦略の立案者にはなれなかったのではないか。
■『信長公記』に名前が出てくるのはわずか3回
史料からは推測することしかできないが、別所氏との関係が拗れた結果、三木合戦に至ってしまったことだけを見ても、中国攻め以降の半兵衛は軍師として無能になっていたといえるだろう。
そもそも、この半兵衛という男は本当に「今孔明」「天才軍師」「義の智将」などと呼ばれるほどの人物だったのか。
少し立ち止まって考えてみよう。
では史料はどう語っているのか。
『信長公記』で半兵衛の名前が出てくるのは、わずか3回。そして具体的な功績として記録されているのは、先述の西大寺八幡山城の件、これ一つだけである。天下統一を目指す織田家の一大事業を克明に記録した『信長公記』に、「天才軍師」がたった3回しか登場しない。しかも功績の記録は一件……これが「今孔明」の実像である。
これは諸葛孔明が『三国志演義』で空城の計や、赤壁での神算鬼謀の限りを尽くした天才軍師として演出されたのと同じ。実に、その天才ぶりは、江戸時代の軍記物や講談などの創作物によってはじまったものなのだ。
■“勝手に始めた”官兵衛、“お見通し”の半兵衛
しかも、創作に半兵衛が取り上げられるようになった理由には、その無双ぶりを史実であるかのように語った書物の存在がある。儒学者の貝原益軒が3代藩主の黒田光之の命によって編纂した『黒田家譜』がそれだ。
黒田家の歴史を記したこの書物、とにかく半兵衛の持ち上げ方が尋常ではない。
〇或時秀吉別所長治が籠たる三木の城を攻給ふ。(中略)秀吉或時早朝に本陣より見給へば、彼尾崎より後の方の山陰に人数四五百許備へて、伏勢の體に見えたり、あれは敵か身方かと御疑ひありけるに、竹中半兵衛此體を見て、今日の御合戦は味方必勝可申と存候。其故はあの山陰に見えたる伏勢は、敵にてはなく、小寺官兵衛にてあるべし。拙者に申合は不仕候へども、是に拙者居申事を官兵衛存候間、官兵衛が伏勢のやうを某見候はゞ、城中より人数を指下し候時、尾崎の前に備へたる神子田半左衛門通清一戦仕、態と早速引取候手立有べし。然らば敵必逆るを追て馳来べし。其時官兵衛伏兵をおこし跡より追討にすべき候。敵此本陣の前を過行候比、此方より兵を出し御討候はば、十分の勝利を得るるべく候。官兵衛が所存鏡にかけて見るやうに候。(貝原益軒 編著『黒田家譜』歴史図書社、1980年)
筆者訳:ある時、秀吉公は別所長治の籠城する三木城を攻撃なされました。(中略)ある日の早朝、秀吉公が本陣から戦況をご覧になっていると、例の尾根の後方の山陰に、人数を四、五百人ほど整えて、伏兵のような様子で潜んでいる軍勢が見えました。「あれは敵か、味方か」と秀吉公が不審に思われたところ、竹中半兵衛がこの様子を見て、次のように申し上げました。
私に事前の相談はありませんでしたが、ここに私が控えていることを官兵衛も知っております。ですから、官兵衛が潜んでいる様子を私が(見つければ、私の意図を察して連動してくれるだろうと)見込んでのことでしょう。
城中から敵が下りてきたとき、前線に備えている神子田半左衛門通清に少々戦わせ、わざと素早く退却させる手立てを講じるべきです。そうなれば、敵は必ず勢いづいて追撃してくるでしょう。その瞬間、官兵衛が伏兵を立ち上がらせて、敵の背後から追討ちをかけるはずです。
敵が我が本陣の前を通り過ぎる頃合いを見計らい、こちらからも兵を出して討ちかかれば、十分な大勝利を得られるでしょう。官兵衛の考えていることは、鏡に映して見るかのように(私の目には)明白でございます」
■官兵衛と半兵衛は“まるで息ぴったりでした”
わかるだろうか? 官兵衛、秀吉の陣中にも連絡をせずにいきなりスタンドプレーで攻撃を始めている。にもかかわらず、半兵衛はすべてを理解して状況を把握、今日の戦は勝ったと自信満々に宣言する。さらに『黒田家譜』の記述は、こう続く。
此戰孝高の智謀を以て伏兵を置き給ひし故、勝利を得しなり。又竹中半兵衛彼山の出崎の陰にひかへたる兵を、敵に非ず孝高の伏勢ならんといひ、其上兼ての議定なけれども、孝高の兵機を推量して、神子田に命ぜられし事、いづれも良將の心、割符を合たるがごとし。軍散じて後、秀吉両人の謀を大に感じ給ふ。孝高伏兵を置事を、秀吉又は竹中半兵衛に告知給はざりしは、急に敵出でかしこに赴き給ひる故、其由を告る隙なかりしとなり。
筆者訳:この合戦は、孝高(=官兵衛)が智謀をめぐらせて伏兵を配置していたからこそ、勝利を得られたものでした。また、竹中半兵衛があの山の尾根の陰にひかえる兵を「敵ではなく孝高の伏兵だろう」と見抜き、事前の打ち合わせがなかったにもかかわらず、孝高の戦術を推量して神子田に命令を下したこと、これらはどちらも名将の心というべきもので、まるで「割符を合わせたよう(息がぴったり)」でした。戦いが終わった後、秀吉公は二人の知略に深く感心なされました。
なお、孝高が伏兵を置くことを秀吉公や竹中半兵衛にあらかじめ知らせていなかったのは、急に敵が現れて急いで現地に赴いたため、それを報告する余裕がなかったからということでありました。
■半兵衛を持ち上げ、官兵衛のすごさを語る構造
どうだろうか。半兵衛は、事前の打ち合わせ一切なしに官兵衛のスタンドプレーをすべて見通している。しかも大して付き合いもないはずの官兵衛を絶対的に信頼して「今日は勝った」と宣言する。そして二人の評価は「名将の心、割符を合わせたよう」とまで称えられる。
おまけに官兵衛の無断スタンドプレーは「急に敵が現れたから報告する暇がなかった」の一言で完全に不問である。
つまり、この記述は歴史を語る体裁を取って「天才軍師・半兵衛に、その才能を誰よりも深く理解されていたのが我らが官兵衛である」といっているのである。半兵衛の神算鬼謀が高く描かれれば描かれるほど、それを見抜かれていた官兵衛の格も上がるという構造だ。
そして、そんな記述が極まるのが第23回で描かれる信長が松寿丸を処刑せよと命じた時の記述である。
■黒田家にとっては“命の恩人”
半兵衛は智惠深き人成しが、信長公を諫めて曰、官兵衛既に身方に屬し、忠義の志不淺候。其上智惠ある者にて候間、強き味方を捨、弱き敵に與し申べきいはれなし。人質を御殺候はゞ、官兵衛又は其父美濃守恨をふくみ、御敵に成候はゞ、中國御退治もはか行申間敷候間、人質御殺候事悪かりなんと再三諍はれしかども、信長公御憤深くして、諫を用ひ給はず。半兵衛力及ばず、松壽を殺候由信長公へ申上、ひそかに松壽を、わが領地美濃國不破郡岩手の奥菩提と云居城に遣し隱置て、最懇にもてなしける。
筆者訳:半兵衛は非常に知恵の深い人物でしたので、信長公を次のように強く諫めました。「官兵衛はすでに味方に加わっており、その忠義の志は浅いものではございません。その上、彼は大変知恵のある者ですから、強い味方(織田方)をあえて捨てて、弱い敵(荒木村重ら)に味方するような理由がございません。もし今、人質(松寿丸)をお殺しになれば、官兵衛、あるいはその父である黒田美濃守(職隆)は怨みを抱き、織田家の敵となってしまうでしょう。そうなれば、中国地方の毛利退治もはかどらなくなってしまいます。ですから、人質をお殺しになるのは決して良くないことです」
と、半兵衛は再三にわたって必死に抗議(論争)しましたが、信長公の怒りは深く、この諫めをお聞き入れになりませんでした。
半兵衛はこれ以上は力及ばないと見て、「松寿を殺害いたしました」と信長公へ嘘の報告をし、ひそかに松寿を自分の領地である美濃国不破郡岩手の奥にある「菩提」という居城(菩提山城)へ送り届けて隠し置き、これ以上ないほど手厚くもてなしたのでした。
半兵衛は信長に疑われた官兵衛をかばい、再三諫言し、それでも聞き入れられないとみるや、天下人・信長を正面から欺いてまで嫡男を守り通した。
黒田家にとって、半兵衛は命の恩人である。それどころか、主君への忠義・智謀・義侠、すべてを兼ね備えた「並ぶ者のない智将」として語り継がなければならない存在だった。
そしてこの恩義を語り継ぐことは、同時に「我が官兵衛はそれほどの人物に見込まれていた」という権威付けにもなるというわけだ。
ようは、半兵衛はとてつもない天才軍師であり人格者。そんな軍師に認められ後を継いで軍師となった官兵衛も同じく天才であり人格者というロジックを組み立てているわけだ。
■「官兵衛の悪評を払拭する」ため
なにしろ、秀吉には有能ながらも野心の強さを嫌われて遠ざけられたり、関ヶ原で天下取りに色気を出したりと、官兵衛はなにかと評判が悪い。
そんなイメージの悪さを払拭する方法として貝原益軒が用いたのは、半兵衛に認められた官兵衛を描くということであった。
貝原益軒は、主家の来歴から黒歴史を消したいという藩命の意図を汲んで、事実の解釈を変えることで、見事な二人の天才の物語を後世に刻み込んだのである。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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