2026年6月に、プレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト3をお送りします。エンタメ・教養部門の第3位は――。

▼第1位 紅白歌手の心と体を支配し約10億円を搾取…ヤクザの総長もドン引きした細木数子による「地獄への堕とし方」

▼第2位 薩長同盟も船中八策も龍馬の手柄ではなかった…「ただの脱藩浪人」を幕末最大のヒーローに仕立てた"張本人"

▼第3位 「腰抜け」と罵られても…「汚れ役・悪役・憎まれ役」を引き受け徳川260年の礎を築いた"無私の武将"の名

家康に「友」と呼ばれた唯一の家臣がいる。歴史研究家の皆木和義さんは「自分の分をしっかりとわきまえた、誰よりも主君・徳川家康に忠義を尽くした無私無欲の人生だった。『足るを知る仕事術』を完遂したといえる」という――。
※本稿は、皆木和義『軍師の戦略 増補改訂版』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
■徳川幕府確立の最大の功労者
戦国乱世を終息させ、徳川幕府による260年余の太平の世、平和な時代を築いた英雄・徳川家康の腹心が本多正信である。
「人となり深沈膽略(しんちんたんりゃく)(落ちついて動じず大胆で知略がある様子)あり。明察果断(はっきりと事態を見抜き、思い切った決断ができるさま)一時比なし」(『名将言行録』)と評された。
徳川幕府確立の最大の功労者と評価して良いだろう。しかし、『徳川実記(じっき)』や『三河物語』などによれば、その評判はあまり良くない。
特に、徳川家の武功派(武断派)の家臣達からは嫌われ、佞臣(ねいしん)、奸臣呼ばわりされたようだ。権力闘争をするライバルや敵対する側からは悪く、時には極悪非道のようにいわれるのは世の通例ではあるが、それは文治派の優れた吏僚(りりょう)(役人)、行政官僚ゆえの一つの宿命といえる。
現代でいえば、現場のたたき上げの営業の幹部たちが、現場の苦労を知らない管理部門の経営企画や総務、経理の幹部を非難するのに少し似ているのではないだろうか。

同族で徳川四天王の一人である本多(ほんだ)忠勝(ただかつ)からは「佐渡の腰抜け」(正信の官命が佐渡守(さどのかみ)であることから)、「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」と散々な言われ方をしている。
■家康に「友」と呼ばれた唯一の家臣
また、忠勝と仲の良かった同じく徳川四天王の榊原(さかきばら)康政(やすまさ)からは「腸の腐った奴」と酷評されたといわれている。
確かにそのようにいわれても仕方ない側面もあったのかもしれないが、家康からは兄弟のように信頼されていて、いささかもその信頼が揺らぐことはなかった。いつの時期からかは明確に特定できないが、ある時期から、家康に「友」と呼ばれる唯一の家臣だったともいう。家康と正信の間柄は「君臣(くんしん)の間、相遭(あいあ)ふこと水魚の如し」ともいわれた。
『名将言行録』などによれば、家康の寝室に帯刀したままでの出入りが許されていたともいう。それは通常ありえないことなので、その信頼のほどがしれよう。地位的には、徳川幕府の年寄(老中)、後には、大老格の年寄にのぼったという。
表裏一体という言葉があるが、人にも表と裏、陽と陰がある。徳川家康と本多正信は、阿吽の呼吸で、そういう表裏一体の関係だったのではないだろうか。
この裏の部分、特に、悪役、憎まれ役、政務や謀略などの汚れ役を一手に背負って忠義を尽くし、徳川幕府確立に邁進した文治派の吏僚、参謀型の軍師が、本多正信といえるだろう。
また、トップというのはいつの時代も孤独なものである。
その心をよく読んで、正信は家康を支え続けたといえよう。
それにしても、ある時期、つまり、1563年の三河一向一揆の反乱のときに正信は一向宗の一揆側の参謀的立場で、家康に敵対したことがあった。
それにもかかわらず、なぜそのような信頼を得られたのであろうか。これが一つの謎である。しかしそれはきっと家康の度量と本多正信の努力の相関関係、相互作用のゆえだろう。
■戦わずして勝つ戦い方を身につけた理由
鷹匠(たかじょう)という下級武士だった正信は、三河一向一揆後、妻子を残して出奔する。それは数えの26歳の時だった。その後、松永弾正久秀(まつながだんじょうひさひで)に仕え、『藩翰譜(はんかんふ)』では加賀国に出向いて石山本願寺と連携し、織田信長と戦っていたとも伝えられている。
いずれにせよ、1570年頃に、重臣の大久保(おおくぼ)忠世(ただよ)のとりなしで、32歳頃で帰参するまでどこで何をしていたかは定かではない。しかし、この約7年間の他家への仕官(しかん)(いわば転職)も含めた流浪ともいうべき期間が、本多正信の生き方の骨格を作ったといえそうだ。
ある時期は、失意のどん底に陥ったかもしれない。また、良き主君を求めて、全国をくまなく歩いて、研鑽に励んでいたかもしれない。
何を見て、何を学んだのであろうか。
その中で、人生や生き方について思索を深めたことだけは間違いないだろう。後の活躍から推理するならば、諸国遍歴(へんれき)の経験を積む中、広い視野や情報分析力、勝利のための戦略力や戦わずして勝つ戦い方などを身につけたと考えられる。もしかするとその素養は、鷹匠(たかじょう)(鷹を訓練する役)の時に、身につけていたかもしれない。
鷹狩は、鷹匠が訓練した鷹を主君(正信の場合は、家康)が手に止まらせて待ち構え、勢子(せこ)が四方八方から獲物を追い立て、走りこんできた兎や飛び立った雉、鶴その他の鳥を目がけて鷹を放ち捕まえさせる狩りで、中央アジアないしモンゴルが起源という。
鷹狩は、数十人、多いときには、数百人の勢子を指揮して獲物を追い込むので、戦の指揮の訓練になるとして、当時の武将の嗜みとされていた。獲物を狙い、俊敏に捕獲する様は、正信の心に獲物の狙い方や戦略を焼き付けていたのではないだろうか。
■「強からず、柔らかならず」
ところで、家康は鷹狩(たかがり)が大の好みだった。数多(あまた)の戦国武将で最も鷹狩が好きだったといっても過言ではないだろう。家康は白鷹を特に好んだようだ。他にも、孫の三代将軍家光は、将軍在職中に数百回の鷹狩を行ったと伝えられている。
鷹は寿命が長く、調教した鷹はインコよりおとなしいという。
家康に手乗りする眼光鋭い鷹を見ながら傍に控える鷹匠の本多正信の若き日の姿が想像される。身分は低いが、鷹匠は主君と直接話ができる立場だった。当時から、家康と正信は心が通い合っていたのかもしれない。
さてそのような7年ほどの放浪の中で、正信は、やはり自分が仕えるのは徳川家康しかないと心に定めたのであろう。これ以降は、何があっても二心なく、家康に尽くそうと思ったに違いない。
正信は、1570年の朝倉・浅井連合軍との姉川の戦いの前あたりに帰参したとされる。正信は、家康の帰参の許しにきっと涙したことだろう。
他方、そのとき与えられた仕事は何だったのだろうか。いずれにしろ、帰り新参であり、当時は武功(ぶこう)や武名(ぶめい)などの何の手土産もなく、肩身が狭かったであろう。いずれにしろ、下級家臣としての再雇用でのスタートだった。それは、現代的にいえば、キャリア・クライシスからの復活への第一歩といえよう。
その当時の本多正信のことを評した松永久秀の興味深い言葉が残っている。
松永は戦国の梟雄(きょうゆう)といわれた油断も隙もならない人物だった。
ところが、「徳川の侍は多く武勇の輩であるが、正信は強からず、柔らかならず、また卑しからず、世の常の人ならず」と正信の才幹を高く評価していたという。
これは、鷹匠時代に自然に身につけた戦略眼や思慮深さ、優れた身のこなしが自ずから醸し出されていたのではないだろうか。
正信が帰参してのち、家康が正信のその才幹をいつごろから認めたのか定かではないが、身近に接する中で、その成長ぶりに刮目したのではないだろうか。いずれにしろ、一歩一歩信頼の度を増していき、家康の懐深くに入ったに違いない。
■不得手の合戦での戦闘能力で勝負しない
さて、正信は帰参にあたって、何を考えたのだろうか? あるいは、帰参して徐々に考えるようになったことは何だろうか?
意識するとしないとにかかわらず、徳川家の中で、どのようにしたら生き残っていけるだろうかと、徳川家における自分のポジショニングとSWOT分析を行ったのではないだろうか。
仮説であるが、正信の立場に立って、少しSWOT分析を整理して見てみよう。(SWOT=Strength:強み、Weakness:弱み、Opportunity:機会、Threat:脅威)
これは現代でも、キャリア戦略を考える場合や転職した場合に、付加価値を作る際の参考になろう。
S:強みとしては、他の組織や諸国の政治・経済のやり方などを見たことによる広い視野と経験、それにもとづく情報分析力&情勢判断力があったのではないか。また、それらを駆使することで戦略構想力などの戦略立案能力も、プロパーの人間や武功派の人間よりも優れているのではないか。
自分は徳川一辺倒の純粋培養の人間ではないので、他人の冷たい飯も食い、広く世間を見ていて、大局的な幅広い見方が客観的にできる。だから他よりも多角的な角度から正確な分析や判断、対応ができる。
これも自分の特徴であり、強みではないか。
W:弱みは、忠誠心に疑いが持たれ、徳川一辺倒の家臣から様々な反発があることである。一度は家康に反抗し、出奔した家臣であり、他家へ転職や放浪した後で徳川家に戻ってきた「帰り新参」であるので、非常に肩身も狭い。自分の「分」というものも考えなければならない。同時に、徳川家を含め武士の世は、武力を背景とした軍事政権なので、その辺のところをよくわきまえなければならない。
正信は、自分はこの戦国の世において、戦人(いくさびと)、武士としての戦闘力が弱い。この点は素直に認めなければならないと考えたであろう。では、どうすればよいか。
O:機会は、戦以外での活躍である。徳川(家康)家が大きくなると、合戦での実際の戦闘能力も大切だが、徐々に内政の統治力、行政能力、管理部門の能力が重要になってくる。自分は戦闘力、武将力が劣るので、戦わずして勝つ(いわば、アライアンスや友好的なM&Aを実現していく)戦略力や交渉力など、戦以外の面で勝負しよう。
また、天下が統一されれば、戦闘能力よりも文治の統治能力が重要な時代に変化し、自分にチャンス(機会)が生まれてくる。それまで己を高め続け、日々の仕事に邁進しよう。時代が要請するキャリアというものを考え、未来の環境変化を正信はよんだ。
T:脅威は、武断派の有力家臣やプロパーの家臣に嫌われて、いつ何時足を引っ張られるかわからないという点だ。この点の危機管理をしなければならない。一番は、仮に出世しても、大きな禄を貰わないようにしなければならない。それが、脅威を克服する大きな要素となるだろう。
本多正信はSWOT分析をもとに自分の仕事術、生き残り方法を決定したことだろう。そして、どうやって徳川家康にとってなくてはならない人間になるかを考えたのだろう。その方法はおそらく、次のようではなかったか。
①不得手の合戦での戦闘能力で勝負するのではなく、自分の得手、得意を生かす。自分は文治派の優れた行政官、吏僚となって、内政の(行政)能力、政治力で徳川家に貢献する。また、「治国平天下」に貢献する。それが、自分の戦場である。
②戦いにおいては、現実の戦闘や武功で勝負するのではなく、鷹のように天高く俯瞰しながら、その鋭い目と爪をもって虎視眈々と獲物を狙うがごとく、戦わずして勝つための方策や戦略、交渉力、謀略で勝負する。そのようにして、徳川家に貢献する。
③人が嫌がる仕事やどんな小事でも喜んでしよう。人の嫌がる仕事をすることによって、徳川家に誰よりも忠義を尽くし、貢献する。特に、悪役や憎まれ役、汚れ役をする人間が必要になった場合は、自分が率先垂範し、泥をかぶる。それにより、主君・家康に報いる。

この思案が正信の中で形になったときに、腹が決まり、誰に何と言われようと、これで行くと決めたはずだ。これなら誰にも負けない、と思ったことだろう。
■足るを知る仕事術
1582年、本能寺の変後に、家康が旧武田領を支配下におくと、正信はその奉行に抜擢された。正信の幅広い経験や視野、忠誠心が買われた結果といえよう。
正信は、甲斐・信濃の統治に手腕を発揮し、武田家臣団の精鋭を徳川家臣団へ取り込むことにも力を尽くした。その後も、吏僚として着実に仕事を重ね、家康の信頼を獲得していった。
1586年、数えの49歳のときには、正信は従五位下(じゅごいのげ)、佐渡守に叙位(じょい)・任官されるという栄に浴した。正信の献身的な努力が認められ、名実ともに徳川家の幹部に栄進したのである。
1590年、豊臣秀吉が小田原の後北条氏を征伐。これによって、ほぼ百年に及ぶ戦国の世が終息し、武断政治から文治政治へと時代が大きく動いた。本多正信が力を発揮する時代に入ったといえるだろう。
これと期を同じくして、家康は先祖伝来の三河から関東6カ国250万石余に転封、江戸に入った。関東は未知の地であったので、新領地の経営体制を確立しなければならなかった。このとき、正信は関八州(かんはっしゅう)庶務奉行(関東総奉行)を命じられるとともに、相模国玉縄(たまなわ)で一万石を与えられて大名に列せられた。数えの53歳だった。
正信は、関八州の領民の統治と治安維持、江戸城への物資を搬入する運河の開削(かいさく)(御典医(ごてんい)の曲直瀬(まなせ)道三(どうざん)の屋敷があったので道三掘といわれる)、江戸市街の建設と監督指揮、荒れ果てていた江戸城の改築、さらには新行政機構の整備に全力を傾けたという。これが正信の戦場だったからだ。
豊臣秀吉没後には、天下取りを獲物として狙った。まず、石田三成と加藤清正、細川(ほそかわ)忠興(ただおき)などの武断派大名との対立を仕掛けた。
次に、五大老の実力者の前田利家が亡くなるや、嗣子(しし)の前田利長に謀反の疑いをかけ、利家の妻まつを人質にしてその勢力を封じ込めた。豊臣恩顧の有力大名との婚姻戦略など、正信は戦わずして勝つ戦略で政略を仕掛けた。
関ヶ原の戦いを前にしては、小早川秀秋らの西軍武将の寝返り工作にも知略の限りを尽くした。
大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家を滅亡させる際には、正信は嫡子の正純と父子して悪役、憎まれ役に徹した。
この大坂の陣では、正信は、鷹狩で勢子が獲物を追い込むように、豊臣家の重臣の片桐且元を操って、豊臣家の内部崩壊を策すなど、謀略の限りを尽くした。このように、献身的な正信に対する家康の信頼はますます篤くなっていった。
正信の台頭は、徳川四天王(酒井(さかい)忠次(ただつぐ)、本多(ほんだ)忠勝(ただかつ)、井伊(いい)直政(なおまさ)、榊原(さかきばら)康政(やすまさ))ら武断派の反感と嫉妬を買ったが、家康の正信への信は変わらなかった。正信との関係は「朋友の如くにて」であり「その謀るところ言葉多からず、一言二言にて尽せるよし」というように、まさに以心伝心だった。
■領地の加増を断り続けた無私の生き方
正信には幾度となく加増の話があったが、その都度辞退したという。
「某(それがし)は長年大殿の御恩をこうむっております。たとえ家が富まずとも貧しいわけではなく、一生食べていくことができまする。それにもう老人でございます。某にとお考えのご領地はぜひ武功の士にご加増をお願い申し上げます」
他の本多忠勝や井伊直政などの有力家臣が、十万石、十二万石と加増を受ける中、相模国玉縄一万石の禄に満足し、ひたすら家康の天下取り実現に挺身(ていしん)した。
正信は、日頃から質素な暮らしをしていて、瓜や茄子などのつけ届けをもらっても、一つを受け取ってお礼を言い、残りは全部丁重に返却したという。このように清廉で私心がなかったからこそ、家康に信頼されたのであろう。正信流の無私の仕事術といえる。
晩年は二代将軍秀忠の年寄(老中)となり、武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定など、嫡子の正純とともに幕府を支え、260年余におよぶ徳川幕府の基礎を固めた。
大坂の陣で、家康の天下取りが完全に成って初めて、三万石以下ならと加増を受け、二万二千石の知行になったという。
1616年4月17日に家康が逝去、50日後の6月7日、家康49日の忌明けを待つかのように、正信は79年の生涯を閉じた。
「両御所(家康と秀忠)に奉仕して、乱には軍謀にあずかり、治には国政を司り、君臣の間、相遭こと水魚のごとし」と評されたが、まさに水と魚の如く、ともにこの世を去ったといえようか。
一言で、正信の人生を評すれば、自分の分をしっかりとわきまえた、誰よりも主君・徳川家康に忠義を尽くした無私無欲の人生、あるいは、正確なSWOT分析に基づいた「足るを知る仕事術」を完遂したといえよう。
(初公開日:2026年6月23日)

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皆木 和義(みなぎ・かずよし)

経営コンサルタント、作家、歴史研究家

1953年、岡山県生まれ。早稲田大学法学部卒。東京理科大学大学院修了。経営コンサルタント、作家、歴史研究家として幅広く活動。平成ニュービジネス研究所所長、(株)ハードオフコーポレーション(東証プライム)代表取締役社長、特別注意銘柄に指定された(株)リソー教育(東証プライム)再建、(株)大戸屋社外取締役、経済産業省消費経済審議会委員、駒沢女子大学非常勤講師などを歴任。著書に『教養としての日本史』(KADOKAWA)、『稲盛和夫と中村天風』(プレジデント社)、『MBAビジネスプラン』(共著、ダイヤモンド社)など多数。歴史に学ぶビジネス戦略や生き方、経営哲学をテーマに講演・研修活動を行っている。

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(経営コンサルタント、作家、歴史研究家 皆木 和義)
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