■中国大返しの原典は、江戸時代の『太閤記』
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。ついに本能寺の変が起こった。それを知った秀吉はどう動くのか。もちろん視聴者は知っている。備中高松城で対峙していた毛利勢と講和を結んだ秀吉は、信長の仇を取るために、姫路までを強行軍で駆け抜ける……名高い中国大返しである。
このことを記している史料は小瀬甫庵が著した『太閤記』が挙げられる。その記述はこうだ。
同六月六日未之刻に高松を引払ひ沼の城まて帰陣有、折節甚雨疾風に因て所々之大河洪水出しかは、七日は滞留有て、八日至㆓于姫地㆒令帰城にけり、其日は諸卒休息のため、出勢延引有て、九日未明に姫地を立、急き給ひしかは、十一日午前に至㆓尼崎㆒参陣し、頓て落髪有ぬ……(近藤瓶城編『史籍集覧』第6冊 近藤出版部、1919年)
筆者訳:
(天正10年)同6月6日の未の刻(午後2時頃)に、秀吉公は備中高松城を引き払って沼の城(備前沼城)まで帰陣された。折あしく激しい雨と嵐のために、あちこちの大河が洪水となってしまったので、7日は(沼の城に)滞留された。
8日に姫地(姫路)に至り、帰城された。その日は将兵たちを休息させるため、出発を延期され、9日の未明に姫路を立って急ぎ進軍されたので、11日の午前中には尼崎へと参陣し、すぐに落髪(信長の喪に服すため髪を剃ること)された。
つまり、6月6日には、備中高松城(岡山市北区高松)から踵を返して、備前沼城(岡山市北区沼)まで帰陣。その後8日には姫路に到達、さらに11日には尼崎まで到着している。
■「1日で姫路城まで」の無理筋
備中高松城から姫路までは約108キロ、光秀と決戦する山崎までは約230キロである。現代でこそ、新幹線なら駅弁を食べ終わらないうちに通過してしまう距離だが、当時は馬のほかは歩くよりほかはない。
ゆえに、行軍スピードに驚いてしまう。なにせ姫路城を目指すとして、備中高松城から沼城まででようやく3分の1(30キロ超)ほど。ここまで一日掛けて到達、悪天候で一日足止めされたのち、駆け抜けた。平地も多いが、備前と播磨の船坂峠付近はひたすら山道である。やはり、秀吉の信長への忠誠心が、逸る気持ちを抑えきれなかったのか。甫庵以降、これは秀吉の物語の中で、必ず描かれるエピソードとなった。
でも、やはりおかしい。道路が整備された現代でも「備中高松城から歩いて沼城まで行け」といわれたら難儀である。
だから、そもそも『太閤記』の話自体が眉唾なのではなかろうか?
これを検証した論文が、服部英雄「ほらの達人 秀吉・『中国大返し』考」(九州大学学術情報リポジトリ、2015年公開)である。この論文はタイトル通り、沼城から姫路城まで一日で駆け抜けたことを、ホラ話だと結論づけるものだ。
服部はまず、後世に書き継がれた『太閤記』や『秀吉事記』を一旦脇に置き、行軍のさなかにリアルタイムで書かれた手紙、つまり秀吉自身がその場で書いた文書だけを頼りに、日程を組み直している。
■手紙からわかった「丸一日早く動き出していた」事実
1通目は6月5日付、中川清秀(摂津茨木城主)宛の秀吉書状(梅林寺文書)。花押のある、正真正銘の秀吉自筆である。ここにはそう書かれている。
尚々、の殿(野殿)迄打入候之處、御状披見申候、今日成次第、ぬま迄通申候、古左(古田左助重然)へも同然候
ようは「なお、野殿まで来たところで、あなたの手紙を読んだ。今日はなりゆき次第で沼城まで行くつもりだ。古田左助にも同じことを言っておく」という事務的な連絡である。
野殿は現在の岡山市北区、備中高松から8キロ程度。
さらに、服部はもう一通、6月8日付の杉若無心書状(松井猪助宛、松井家譜収録)を挙げる。
西国表之儀、存分之まゝ、両川人質定ふに相定、三ヶ国被相渡、去六日ニ至姫路、秀吉馬被納候
これも「西国のことはこちらの思い通りに片がついた。両川(吉川・小早川)から人質も取った。3カ国も放棄させた。去る6日、姫路に秀吉は馬を入れた」という連絡文だ。
『太閤記』の記述、これらの文書を組み合わせると時系列が無茶苦茶である。
■「備中高松→姫路城」実際は約3日の行軍
服部はこれらの史料をもとにして、このような推論をしている。
6月4日に、清水宗治が切腹し備中高松城は開城、これで毛利との講和が成立する。この時点で、既に出発していた先遣隊は6日に姫路に入城する。続いて、秀吉の本隊は5日に陣を引き払い野殿から沼城へ、その後7日に姫路に入城したというものである。つまり、服部は、秀吉が6日に姫路に馬を入れたという記述は、秀吉自身のことではなく、秀吉の先遣隊のことを指して書いたものだと考察している。
自分の家臣の部隊だから、あながち間違いでもない。杉若無心書状の宛名である松井康之は、細川藤孝の家臣。ゆえに「我々はもう姫路まで到着しているぞ」と存在感を誇示してアピールする必要があったのだろう。いわば筆が走ってしまったわけだが、服部もこれを「ことばのあや」であると考察している。
わかるだろうか。
■スピードは“ごく標準的”だった
結論からいうと、ごく標準的な進軍である。
リュウ・ポール・カン・ハウ「ごく普通だった『中国大返し』―秀吉の行軍と他の行軍と比較―」(『紀尾井論叢』9号)は、様々な史料に見られる行軍速度から秀吉のものを比較している。
この論文は、江戸時代の軍法書『兵要録』、大日本帝国陸軍の『作戦要務令』、信長・武田信玄・上杉謙信の実際の行軍記録、さらにアレクサンドロス大王、カエサル、ナポレオン近衛軍、アグリコラのスコットランド遠征まで横断的に集めて、「歩兵・輜重込みの全軍行軍は、洋の東西を問わず一日20~25キロが標準」としている。
つまり、はるかインドまで到達したアレクサンドロス大王も、行軍スピードで諸国を圧倒したナポレオンも、信長も秀吉も行軍スピードは変わらない。それは、食料や行軍隊列の長さ、体力の限界によるもの。ハウは数日なら強行軍も可能だがそれでも40キロ前後が限界だとしている。
実際、当時の道路は決して広くはない。そこに最大限広がったとしても行列は長大だ。どんなに歩調を合わせたとしても坂道や難所があれば前のほうからスピードが落ちていって詰まるので、そんなに早くは進めない。早めようとしたら先頭のほうは駆け足になってしまい、これまた体力が落ちて詰まる。
■秀吉が“盛っていた”
その上で、ハウは5日の行軍開始から13日の山崎到着までを平均1日23.4キロと割り出している。実に、ごく普通の行軍である。
そして、ハウは騎馬であれば1日あたり40~60キロ、条件があえば80~90キロの移動も可能であるとする。そこで、先遣隊が姫路に馬を入れたのを自分のこととして書いたと解釈する服部に対して、ハウは、秀吉は馬で先行して後続部隊を待っていたのではないかと推論している。
服部とハウの論文で共通して指摘するのは事後に秀吉のホラが大きくなっていたということである。
服部が指摘するのは、本能寺の変から4カ月後、10月18日、信孝との関係が険悪になりつつあった秀吉が記した文書である。信孝の周辺にいた岡本良勝・斉藤利尭らに宛てた文書で、秀吉は「廿七里之所を一日一夜に姫路へ打入」と書いている。ようは高松から27里を一夜で駆け抜け姫路に到達したというわけだ。
ハウはこれに重ねて、別の文書で沼城から姫路まで「廿里」と記されていることを指摘する。ハウは、Googleマップで実測した場合、沼城と姫路城の距離は約71キロになるとする。江戸時代の里数でも17里以下である。
ハウは論文中で各研究者による目的地までの距離を一覧表にしているが、沼城から姫路城は最短で70キロ、最長でも77.9キロ……どうやっても27里にはならない。つまり、秀吉が自分の手柄を誇張する過程で、距離は伸び時間は縮んだというわけだ。
甫庵の『太閤記』など後世の資料は、こうした秀吉のホラ話を真に受けて記述したものといえるだろう。
■大返しを“神業”にした司馬遼太郎
しかし、江戸時代はこの秀吉の行軍はさほど重視されていなかった。ハウが史料を洗い直したところ、江戸期の記録には「速かった」とはっきり書いたものがほとんど見当たらない。むしろ当時の読者が食いついていたのは、速度そのものより「秀吉が一騎駆けした」という騎馬先行の逸話の方だった。江戸の人間にとって、この事件の見せ場は「秀吉が颯爽と馬で駆けた」であって、「軍全体が神業的スピードで動いた」ではなかったのである。
なにより、この事蹟も「中国引返し」と呼ばれており「大返し」ではなかった。ハウによれば「中国大返し」の初出は1911年、福本日南の『英雄論』という書物だ。しかし、1970年代までは「引返し」のほうが主流で「大返し」はまったく定着していなかった。
これを逆転させたのが、あの司馬遼太郎のフィクションである。論文中でハウは次のように記している。
現代人の認識を位置づけたのは名作家司馬遼太郎であった。(中略)1966年から1968年まで連載された『新史 太閤記』では「いまでは京での流行語にすらなっている」と紹介し、1973年から1975年まで連載された『播磨灘物語』と1971年から連載された『街道をゆく』には秀吉自身が後日その名を使って生涯自慢したことになっている。
■秀吉のささやかな“ホラ”が、いつの間にか史実に…
司馬としては、面白いフィクションとして語ったつもりなのかもしれない。なにせ小説家である。史実に忠実であることより、読者を興奮させることが本業だ。行軍が実際は一日23キロの、ごく普通の速度でした、では小説にならない。「秀吉が官兵衛の知恵をかり、軍勢と共に神業的スピードで駆け抜けた」のほうが、そりゃ筆も乗る。そこは責められない。責められるべきは、それを鵜呑みにした側である。
ハウは、ここまで司馬のフィクションが受け入れられた理由として、車と電車の普及につれ、長距離を歩くことがなくなり、1日20数キロを歩くこと自体が特別視されるようになったこともあるとしている。
だとしても、司馬の小説を史実と勘違いしたり、人生の参考にしたりするのは大藪春彦を読んで会社のオフィスで「ククク、俺は野獣だ」と犯罪計画を練ったり、平井和正を読んで「ついに幻魔が来るんですよ」と真顔で語っているのと変わらない。
そもそもの発端は、信孝に対して優位に立ちたい秀吉がついた、ささやかなホラだった。それが軍記物に取り込まれ、最後は小説家のペン一本で「日本史上屈指の神業」にまで押し上げられた。誰も嘘を検証しないまま、ホラの上にホラが積み重なって、いつの間にか動かしがたい史実の顔をして居座ってしまったのである。
■紙面初登場は80年代、1996年の大河以降使われるように…
さらにハウ論文の検証は細かい。論文では『朝日新聞』の紙面を検証。そんな司馬が生み出したホラである「中国大返し」が初めて紙面に登場したのは1988年。その後1996年になり、大河ドラマに関連して再現イベントが開催、以降毎年のように使われる言葉になったとしている。こうして、ホラの積み重ねは史実として完成したのである。
これ、令和の現代とまったく同じ構造ではないか。誰かが盛った投稿が拡散され、次の人がさらに話を盛って引用し、気づけば出所不明のエピソードが「みんな知ってる有名な話」になっている。中国大返しは、いわば天正10年のバズり案件だった。秀吉のホラも、司馬のフィクションも、それを信じた我々も、SNSに踊らされる現代人と、何一つ変わらない。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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