NHK「豊臣兄弟!」では織田信長が本能寺で討たれ、秀吉の“中国大返し”が描かれた。秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破るが、このとき筆頭家老の柴田勝家は“動けなかった”とされてきた。
勝家に何が起きていたのか。ルポライターの昼間たかしさんが、最新研究などから史実に迫る――。
■秀吉の「中国大返し」…なぜ勝家は動かなかった
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。ついに本能寺の変後の「中国大返し」が動き出した。第29回「天下への道」(7月26日放送)では、いよいよ秀吉(池松壮亮)と明智光秀(要潤)が激突する。
今作の主人公のひとりは小一郎(仲野太賀)ということもあって、京で機転を利かせる小一郎と、備中から駆け戻る秀吉の兄弟コンビが物語の中心だ。ちなみに第28回(7月19日放送)では、小一郎が細川藤孝(亀田佳明)と密かに会談する場面まで描かれた。いやいや、さすがにそれはやり過ぎだろ……と思わず突っ込みたくなった。史実の小一郎にそんな外交ルートはない。でも、これはこれで面白い発明だ。「誰と誰が話したことにすれば辻褄が合うか」を逆算してフィクションにリアリティを持たせているのだ。
ともあれ、ここで気になるのは、ほかの武将たちはどうしていたのか? ということだ。

たとえば徳川家康(松下洸平)は、これまた何度も描かれた「伊賀越え」の真っ最中だった。しかし、家康以上に見過ごされがちな男がいる。信長軍団最大の兵力、5万とも言われる無傷の大軍団を率いていた男……柴田勝家(山口馬木也)である。7月26日の放送回では秀吉に先を越され、悔しがる姿が描かれるという。
なぜ勝家は動かなかったのか。動けなかったのか。秀吉に手柄をかっさらわれるのを、指をくわえて見ていたのか。
■優勢に進めていた中に届いた「急報」
これまで通説として語られてきたのは、上杉氏と対峙していた勝家は追撃を警戒してすぐには動けなかった、あるいは遠方にあって情報が届くのが遅かった、はたまた近江から若狭にかけては光秀についた勢力もあり容易に動けなかった、というものである。
勝家が変事の急報を得てどう対応したのかは、近年の研究でも論じられている。例えば高岡徹「本能寺の変前後の越中松倉・魚津城―新出の柴田勝家書状を中心に―」(『富山史壇』第176号)では、勝家が丹羽長秀の家臣である粟屋五郎左衛門尉に宛てた書状をもとに、勝家の動向が精査されている。
実のところ、ある程度歴史に詳しい人でも、本能寺の変当時の勝家の動向を「上杉勢の魚津城(富山県魚津市)を攻略していた」と理解している人は少なくない。
これは、大きな間違いだ。

高岡は書状に「其刻くろべを指過、堺城及行之処、五日夜退散候」とある点に着目する。ここからは、既に魚津城を陥落させ、黒部川を渡河して堺城まで進軍していたことが見えてくる。堺城は富山県朝日町にあった城で、越後と越中の国境を守る城である。ここを突破すれば、越後まで遮るものはない。しかも、書状には「其より切所々を拘城共何茂破候所、六日此一義注進候間」とある。つまり、動揺した上杉勢は逃亡を始めており、堺城は崩壊寸前であった。
かつては手取川の戦いで煮え湯を飲まされた勝家だが、このときはすでに越後への突入を始めていた段階……そんな断然優勢のさなかに、本能寺の変の急報が届いたというわけである。
■“秀吉以上の猛スピード”だった
6日にこの知らせを受けた勝家は、躊躇することなく、すぐさま北庄城への引き上げを開始している。せっかく魚津城を落とし、黒部川を越えて堺城の目前まで攻め込んでいたにもかかわらず、その戦果をあっさり放り出しての撤退である。
書状には「十日方々傳候を相調、則存分共申越事」ともあり、9日には北庄城に到着し、翌日からは情報収集を進めて方針を伝える、という動きだったことがわかる。
なお、この撤退にともない、越中の後事は佐々成政に託された。しかし、勝家の撤退を見た上杉勢はすぐさま反撃に転じ、ようやく攻略したはずの魚津城まで奪還されてしまうことになる。
そこまでしても戻らねばならないほど、勝家も必死だったのである。
戦果を放り出してまで急いだのに、なぜ勝家は出遅れてしまったのか。単に秀吉が早すぎたのか?
勝家が急いでいたのは、移動速度からも明らかだ。魚津城から北庄城までは約160キロである。これを6日夜から9日までかけて進軍したとすると、一日約53キロの速さで移動していたことになる。秀吉の中国大返しについては、盛本昌広『本能寺の変-史実の再検証』(東京堂出版、2016年)などが、当時の通常の行軍速度は一日約40キロ程度だったとしている。また、秀吉の中国大返しの記事でも触れたように、歩兵・輜重込みの全軍行軍は、洋の東西を問わず一日20~25キロが標準。一日40キロ以上の強行軍は、一日二日が限度である。
つまり、勝家は秀吉以上の猛スピードで、限界突破して急いでいたのである。しかも、秀吉が毛利氏とすでに講和を結んでいたのに対し、勝家は上杉軍からの追撃も警戒しなければならないという悪条件下での強行軍だった。
■“入り口”で遅れ、“地理的条件”も悪かった
おそらくは、騎馬の者は全力疾走、雑兵は遅れながらも必死で走って行くという無茶苦茶な帰還だったろう。そこまでしても、急いだあたりに勝家の本気度がわかる。

ところが、どんなに急いでも勝家は勝てない理由があった。秀吉が備中高松で変事の知らせを聞いたのは3日夜から4日にかけてである。対して勝家が知らせを受けたのは6日と、最初から出遅れていた。
しかも、魚津城から京都までは約310キロあるのに対し、高松から京都までは約220キロと、勝家の方が最初からはるかに長い距離を戻らなければならなかった。
さらに、勝家が兵を休ませた北庄城から京都までは、まだ約150キロも残っていた。秀吉が兵を休ませた姫路城から京都(山崎)までとは、比べものにならないほどの隔たりである。
わかるだろうか。勝家自身は遅くない。必死だった。しかし、地理的条件が圧倒的に悪かったのである。
なにより、上杉に対して警戒を怠れなかったことも、勝家が動くには不利な条件となっていた。大河内勇介「本能寺の変直後の柴田勝家と丹羽長秀」(『福井県立歴史博物館紀要』第14号)によれば、上杉方が本能寺の変の知らせを受けたのは7日から8日にかけて。
しかも上杉景勝は、この段階で勝家軍を「敗軍」とみなし、すでに追撃の構えを見せていたという。
■上杉は、秀吉が討ち取られた“誤報”に勢いづいた
越後まで攻め込まれかけていたはずの上杉が、なぜいきなり息を吹き返したのか。
答えは、とんでもない誤報だった。大河内は6月9日付で景勝が認めた書状を引用している。
仍中国毛利播州・摂州之境ニ相拘候地利、木下藤吉取詰之処、毛利為後詰罷出、木下成擒之由候、然処、信長重而木下為可引助令出馬之処、其以前彼城中之者、後詰之衆揉合、木下討捕之由候、然間信長自半途敗軍之処、信長甥之織田七兵衛令心替、信長切腹之由候、賀州自越前境、追々注進、実儀候哉
(中略)
能州・越中相残国人等、則復先忠之間、為仕置山下迄出馬候、賀州之一揆、元来属当方之間、無別儀候

要約するとこうだ。「毛利に包囲されていた木下藤吉郎(秀吉)は生け捕りにされた。信長が助けに出たが、それより前に木下は討ち取られた。その混乱のなか、信長は敗走し、甥の織田七兵衛(信澄)に裏切られて切腹した」。
何一つ合っていない。秀吉は生け捕りにされていないし、信長を死に追い込んだのは信澄ではなく光秀である。伝言ゲームというレベルすら超えた、原型をとどめない誤報だ。だが、越後・加賀国境の一帯では、この「大勝利」情報がそのまま事実として流通し、上杉方を勢いづかせていた。

■光秀にふさがれた“正面”、くすぶる“迂回路”
しかも大河内によれば、11日から13日頃には光秀の使者までもが景勝のもとを訪れ、協力を要請している。景勝にしてみれば「言われなくてもそうする」というところだろう。
秀吉は、信長の弔い合戦という大義名分のもと賛同者集めに全力を注げた。これに対し、勝家は、まず東から押し寄せる誤報混じりの攻勢をどう鎮めるかを考えなければならなかった。秀吉への牽制に回るのが遅れたのは、この東側の火消しに手を取られていたからでもある。
さらに、勝家は光秀と激突するのはもっと先だと考えていたようだ。既に、光秀は近江方面の攻略を効率よく進めており、佐和山城も安土城も、すでに光秀の影響下にある。つまり、越前から近江に入るルートは塞がれている。
そこで勝家が検討したのが、若狭を経由して京都方面へ抜けるルートだった。若狭は丹羽長秀の領国で、家老の溝口秀勝が高浜城(福井県高浜町)に入っている。つまり、このルートを使うには長秀サイドとの調整が要る。ところが、肝心の長秀は大坂にいる。密書のやり取りだけで数日はかかる距離だ。
しかも、その若狭では牢人衆が光秀に呼応して挙兵する動きまで出ていた。正面は光秀にふさがれ、迂回路は根回しに数日かかり、しかもその迂回路自体がくすぶりかけている。どう転んでも、すぐには動けない。だから、まずは状況を整えてから弔い合戦を行うというのが勝家の構想だったのだろう。
ところが、光秀が近江方面の封じ込めに力を割いた分だけ、摂津・播磨方面への警戒は手薄になった。結果として、秀吉は誰にも邪魔されず軍をまとめ、難なく上方へ進出できたのである。
■「自分の庭」を走った秀吉、「敵の庭」を走った勝家
あらためて、勝家の置かれた状況を秀吉と並べて整理してみる。
まず、情報が届く速さからして違っていた。秀吉が変事を知ったのは3日夜から4日にかけて。勝家が知ったのは6日で、この時点ですでに2、3日のビハインドを背負っている。しかも、その遅れを取り返そうにも、二人が走る道の質がまるで違った。
秀吉の進路である備中から姫路、尼崎を経て山崎には光秀方の勢力がほとんど存在しない。姫路から先は秀吉自身の分国である播磨で、街道も補給拠点もすべて自分の庭だ。一方の勝家は、光秀が押さえた近江の佐和山・安土のど真ん中を突っ切るか、他人の領国である若狭を借りるかの二択しかなく、どちらに転んでも自分の庭ではなかった。
背後の安全度も対照的だった。秀吉は動き出す前に毛利との講和をまとめ、背中を気にする必要をなくしている。勝家はその逆で、背後の上杉は「勝家は敗軍だ」という誤情報でむしろいきり立ち、越中には佐々成政を残さざるを得ず、若狭では牢人衆の挙兵まで警戒しなければならなかった。前門に光秀、後門に上杉である。
おまけに、若狭ルートを使うには遠く大坂にいる丹羽長秀との調整が要り、密書のやり取りだけで貴重な数日が溶けていく。秀吉が自分の指揮下だけで完結して動けたのとは、そこも決定的に違う。
■“走った道”があまりにも違いすぎた
つまり、秀吉は自分の庭を、味方だらけの一本道で全力疾走できた。対する勝家は、敵の庭を、他人の許可を取りながら、背中を気にしつつ突破しようとしていた。同じ強行軍でも、走っていた地面の性質がまるで違うのである。
勝家は遅くなかった。ただ、走っていた道が、あまりにも違いすぎたのだ。
なお、勝家や秀吉よりもすごいのは、命がけで伊賀越えをして岡崎城に帰り着いたと思ったら、すぐに出陣、14日には鳴海城まで到着していた家康ではなかろうか。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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