■「日本に行ったら親が心配する」
昨年11月、台湾有事をめぐる高市早苗首相の答弁に反発した中国政府は、地震や犯罪を理由に、自国民に対して日本への渡航自粛を呼びかけた。
行き場を失った中国客が流れ込んだ先の一つが、ビザが免除されたロシアだ。だが、そこで彼らは、知らぬ間に電子機器の運び屋に仕立て上げられたほか、美しい氷原が広がるバイカル湖では氷を突き破って車ごと沈む死亡事故も起きた。「危険」な日本を避けた結果、かえって危険に晒された格好だ。
さて、ロシアと同じくビザが要らない韓国にも、中国客が殺到している。しかし、彼らを迎え入れる韓国国民の感情は、必ずしも芳しくないようだ。
中国南部・広西チワン族自治区出身の20歳の大学生、チャン・リサ氏は、日本行きを取りやめた旅行者の一人だ。もともとスキー目的で日本行きを希望していたが、ウォン安で旅費が割安になったこともあり、韓国旅行に切り替えた。
シンガポール英字日刊紙のストレーツ・タイムズの取材に、「日本に行ったら親が心配する。反中感情が強く、身の安全が脅かされるのではと」と語っている。
地理的にも中国から近い韓国は、日本旅行の代替地として人気が高い。同紙は今年1月、予約予測と航空便データを基に、春節(旧正月)連休で韓国がコロナ禍以降初めて日本を抜き、中国人旅行者の渡航先トップに立つ見通しだと報じている。
渡航者数の増加ペースは激しく、受け入れ側が戸惑うほどだった。ソウルで外国人向けに美容整形クリニックなどを仲介する医療観光コンサルタント、トニー・メディナ氏のもとには、春節休暇中の施術を希望する中国本土の見込み客から、数百件の問い合わせが殺到したという。前年の同時期はほんの数件だった。中国国内でも中国語でも、マーケティングは一切行っていない。
「韓国に20年いるが、こんな急増は見たことがない」とメディナ氏は語る。
■中国人の消費額は前年比3倍超に
流れ込む中国マネーの急増で、韓国が潤っているのは事実だ。
韓国英字日刊紙のコリア・ヘラルドが今年6月に伝えた韓国観光公社のデータによると、5月のインバウンド旅行者によるクレジットカード消費額は2兆1200億ウォン(約2330億円。7月16日現在のレート、1ウォン0.11円で換算、以下同)に達し、月間で初めて2兆ウォンを突破した。
前年同月比で67.1%増となっており、2023年以降で最も大きな伸び率を記録した。
韓国の旅行テック大手ヤノルジャのシンクタンク・ヤノルジャ・リサーチは、2026年の中国人訪韓者数を700万人超、前年比15%増と予測している。韓国政府はこの好機を逃すまいと動いた。当初6月末が期限だった中国人団体客向けのビザなし入国制度を12月31日まで延長している。
韓国観光公社は、インバウンド消費の二極化を指摘する。インバウンド旅行者全体では20~30代を中心に現地の文化体験を重視する「ライフスタイル」型の消費が広がる一方、中国人旅行者は超高級ブランドの購買に集中しているという。
だが、政府レベルで中国人観光客が歓迎される一方、韓国国民は必ずしも良い印象を抱いていない。
■ソウルで多発する抗議運動
過去最高額の中国マネーが韓国経済を潤す一方で、首都ソウルの中心部では、殺到する中国人観光客に対する抗議運動が広がっていた。
運動の発端は昨年6月、外国人観光客でにぎわう明洞(ミョンドン)での第1回抗議集会だ。主催者によれば、参加者数はそれ以来7~8倍に増え、約1万人以上に達した。
弘大(ホンデ)にも、別グループによる抗議が広がっている。中国系住民が多い大林洞(テリムドン)では、抗議中に中国人住民が警察の目の前でデモ隊に瓶を投げつける事案も起きた。
今年1月、約2000人が凍てつく繁華街・江南(カンナム)をデモ行進した。台湾英字日刊紙のタイペイ・タイムズが現場の模様を報じている。「CCPアウト(中国共産党は出て行け)」「韓国は韓国人のもの」。参加者の大半は学生だった。「滅共」と漢字で記した帽子を被り、「天滅中共(天が中国共産党を滅ぼす)」と書いた横断幕を掲げるなど、過激な主張も目立つ。
デモを主催した保守系青年運動団体「フリー・ユニバーシティ」のリーダー、パク・ジュンヨン氏は、ハンガーストライキを実施。氷点下の街頭で演説を終えた直後に倒れ、病院に搬送された。
学生が運動の先頭に立つ理由に、韓国特有の世代意識がある。多くの国では高齢層ほど中国に否定的だが、米シンクタンクのピュー・リサーチ・センターが2020年に14カ国を対象に行った調査で、若年層が高齢層より否定的だった唯一の国が韓国だった。若年層の80%が中国に否定的な印象を抱いている。
■王宮で起きた「排泄騒動」
反中デモは差別的な側面をはらむ一方、否定的心情には一定の理由があるようだ。
昨年11月10日、ソウル・景福宮。70代の中国人観光客が、北門・神武門の石垣付近で排泄しているところを咎められた。韓国英字経済メディアのグローバル・エコノミック・タイムズは、朝鮮王朝の王宮であり国の指定史跡でもある景福宮での行為に、韓国世論が激しく反発したと報じている。
同紙などによると、済州島にある韓国最高峰・漢拏山(ハルラサン)の国立公園や龍頭海岸(ヨンモリ海岸)でも同様の迷惑行為が問題化している。漢拏山の公式サイトには「排泄したり大声で騒いだりする中国人観光客をどうにかできないのか」という訴えが投稿された。2024年夏には済州島で外国人の子どもが歩道で排泄する写真も怒りを買い、罰則の強化を求める声が相次いだ。
済州島では昨年4月、バスの車内で喫煙する外国人観光客の動画がSNSで拡散し、激しい批判を浴びた。コメント欄には「今すぐ強制送還して罰金を科せ。払わないなら航空券の購入を禁止しろ」といった書き込みが殺到したと、CNNが報じている。
こうした事態を受け、済州島は外国人観光客向けに多言語の行動ガイドラインを策定し、公表した。禁煙エリアでの喫煙や自然環境の損壊にはそれぞれ5万ウォン(約5500円)の罰金が科される。
■「中国人留学生は100%スパイ」
こうした事件がSNSで取り上げられるたびに、韓国各地で中国人を排斥する動きが強まっていった。
韓国の主要都市を歩けば、目に飛び込んでくるものがある。「中国人留学生は100%潜在的スパイ」「中国人が押し寄せている。犯罪を持ち込んでいる」と書かれた横断幕だ。コリア・ヘラルドが昨年12月に報じた韓国各地の光景である。
中国を否定的に見る人の割合は、過去四半世紀ほどで倍以上に増えた。タイペイ・タイムズによると、2002年の31%から2008年には49%に上昇。ピュー・リサーチ・センターの2022年調査では80%にまで急伸し、ギャラップ・コリアの2025年調査でも72%と高止まりしている。
コリア・ヘラルドによると、横断幕は韓国全土に広がりつつある。韓国与党の「共に民主党」の李海瓚議員が昨年9月に委託した全国世論調査では、韓国人の68%がこうした横断幕を実際に目にしたことがあると回答した。
一方、目にした人の約80%が不快感を覚えたと答えており、保守を自認する層でも65%が同様の反応を示した。誤情報やヘイトスピーチを広めたり、他者を公然と名誉毀損したりする横断幕を規制すべきだとの回答は全体の70%を超えており、行きすぎた国籍差別には自重論も根強い。
■反中感情を高めている3つの要因
韓国社会の対中感情は根が深く、タイペイ・タイムズが挙げる反中感情の主な要因は3つ存在する。
まず、一部の中国人観光客のマナー問題。そして、中国籍住民による不動産購入に伴う地価上昇や短期滞在者の国民健康保険利用といった制度上の軋轢。さらに、2017年の地上配備型ミサイル迎撃システム(THAAD)配備をめぐる中国の外交的・軍事的圧力だ。
なかでもTHAAD配備の影響は大きい。米政府系国際放送局のボイス・オブ・アメリカによると、韓国が北朝鮮の脅威に対抗してTHAAD配備を受け入れた2017年以降、中国が経済的な報復措置に踏み切ったことで両国関係は大きく悪化した。
これら3点とは別に、対立は歴史・文化の領域にも及ぶ。同局は、中国が高句麗や渤海といった朝鮮半島の古代王国を自国の歴史に編入しようとしてきたことが、韓国の反感の根底にあると報じている。中国のこうした行為は「東北工程」と呼ばれている。
火種は近年も絶えず、中国の国営メディアは、キムチの起源は中国にあると主張。2022年の北京冬季五輪の開会式でも韓服(韓国の伝統衣装)を着た女性が中国国旗を掲げて行進し、韓国側は自国文化の盗用だと猛反発した。
■黄海に現れた謎の鉄骨構造物
海上でも両国の間に緊張が走っている。政策シンクタンクの全米アジア研究局の2020年の報告書では、黄海での中国漁船の違法操業による韓国側の経済的損失は年間約11億ドル(約1780億円。7月16日現在のレート、1ドル162.09円で換算)に上ると指摘されている。拿捕・検査の際に中国漁民から攻撃を受け、韓国海洋警察の隊員が複数名殉職する事態も起きている。
こうした対立は今も深刻化する一方だ。黄海には2001年の韓中漁業協定に基づき、両国の漁船が一定の規則のもとで操業できる「暫定措置水域」が設定されている。米外交専門誌のディプロマットは2025年8月、この水域内に高さ・直径ともに50メートルを超える鉄骨構造物が確認され、同協定に違反していると報じた。名目は漁業施設だが、実態は石油掘削施設ではないかとの見方もある。
こうして、歴史認識や文化の起源をめぐり対立していた中韓関係に、中国人観光客の急増による摩擦が加わった。
韓国政府は中国からの観光需要を取り込みたい一方で、国内の反中感情を抑えきれない板挟みに陥っている。
韓国の李在明(イ・ジェミョン)大統領は昨年9月9日、反中デモを公式に非難した。11月11日の閣議では、反中の横断幕を「下品で恥ずかしい」と批判。コリア・ヘラルドによると、その1週間後の11月18日には行政安全部が20ページにおよぶ指針を公表し、政治的横断幕を禁止広告物の対象とする基準を定めた。
■中国を批判してきた大統領の「翻意」
中国国旗を引き裂いた一部のデモ参加者は、警察の捜査対象となっている。全北大学の学生で「フリー・ユニバーシティ」のメンバーであるイ・サヤ氏は、「この弾圧は、李政権が中国を恐れているから起きた」とタイペイ・タイムズに語っている。
しかし李大統領自身、かつては反中的な立場を取っていた。韓国英字日刊紙のコリア・タイムズによると、2022年の大統領選では、候補者だった李氏が中国当局を、「祝祭イベントを文化盗用に悪用している」と批判。
対立候補の尹錫悦(ユン・ソクヨル)氏も、「高句麗と渤海は韓国の輝かしく誇り高い歴史の一部だ」と強調している。党派の対立を超えて、中国が韓国文化の起源を主張することへの反発は広く共有されていた。
その李氏が、政権に就くと一転、反中運動の取り締まりに乗り出した。タイペイ・タイムズによると、昨年10月には、与党「共に民主党」の議員が、反中運動で用いられる歌やスローガンの使用を禁止する法案を提出した。違反者には最長5年の禁錮刑が科される。
だが政府が規制を強める一方で、国民の反中感情はかえって強まっている。ストレーツ・タイムズは、韓国メディアが中国人観光客の急増と犯罪増加を結びつけて報道し、SNSでも同様の投稿が拡散していると伝えた。政府はこれを「根拠がない」と退けているが、ビザ免除措置の撤回を国会に求める請願には約6万人が署名した。
■中国は日本行きを阻止できたが…
ソウルに暮らすある中国人大学院生は昨年12月、匿名を条件にコリア・ヘラルドの取材に応じた。「友人たちは街の一部を避けるようになりました」。横断幕の写真を見た両親からは「夜は出歩くな」と連絡があったという。
「文字が全部読めなくても、自分たちが何かの原因とされていることはわかる」と、この院生は話す。
明洞を訪れた別の中国人観光客も同紙に訴えた。「政府を批判するのは構わない。でもなぜ観光客を犯罪者扱いするのか」
文化の盗用も海上での違法操業も、旅行や留学で来た一個人には何の関わりもない。それでも国家間の対立や歴史的な摩擦によって、街の中国人観光客の一人一人がしわ寄せを受けている。
中国政府は訪日自粛要請によって、自国民を韓国へ向かわせることに成功した。だが、韓国国内で高まっていた反中感情まで制御することはできなかった。
「日本は危険だ」と告げられ、代わりに韓国を選んだ中国の観光客たちは、旅行先でヘイトの矛先を向けられる厳しい状況に置かれている。
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青葉 やまと(あおば・やまと)
フリーライター・翻訳者
1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。
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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)

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