中国のテック業界で、「人間蒸留」という言葉が広がっている。社員のチャット履歴や業務データを吸い上げ、思考プロセスや文章の癖まで写し取った「AI分身」を作る動きだ。
ジャーナリストの上田裕資さんによれば「ただでさえ1270万人もの大学卒業生が就職難に直面する中国で、今度は働く人自身の知識や経験までAIに吸い上げられ、仕事を奪う“分身”として再利用されようとしている」という――。
■人間を“蒸留”し始めた…
人工知能(AI)が人間の仕事を奪うという懸念は、もはや誰もが感じるものになりつつある。しかし、いま中国のテクノロジー業界で起きている事態は、人々の想像を超えた新たなフェーズに突入している。
その不気味さを如実に示すのが、人間のスキルや特徴を「蒸留」し、AIに移し替えるというコンセプトだ。AI分野の専門用語である「蒸留(Distillation)」は本来、大規模なAIモデルの知識から重要な要素のみを抽出し、小さなモデルに転写することを意味していた。
だが中国では最近、この言葉が人間に用いられるようになり、波紋を呼んでいる。労働者たちは職場の上司の命令で、自らを蒸留することを強いられ、職を失うリスクにさらされているというのだ。
騒ぎの発端は4月初旬、上海人工知能研究所(Shanghai AI Lab)のエンジニア、周天一氏が人間の業務スキルをAIで複製する「Colleague Skill(コリーグ・スキル)」と呼ばれるAIツールをGitHubで公開したことだった。
直訳すると「同僚のスキル」を意味するこのツールは、社員の名前や基本情報を入力するだけで、その人物の過去のチャット履歴や共有ファイル、業務データを社内システムから吸い上げる。そして、個人の思考プロセスや文章の癖までを含むパーソナリティをパッケージ化し、完璧な「AIの分身」を生成するというものだ。
■AI同僚が仕事を手伝う
米テック系メディアMITテクノロジーレビューによると、開発者の周氏は中国メディアの取材に対し、このプロジェクトは当初、AI関連の人員削減や過酷な労働環境、企業が従業員に業務の自動化を求めるトレンドから着想を得た「風刺的なジョーク」だったと述べていた。しかし、そのジョークが引き起こした反響は、予想をはるかに超えていた。

Colleague Skillは公開から約3週間で、GitHub上で1万3000以上のスター(お気に入り)を集め、世界的な知名度を獲得。台湾のテック系メディアTechOrange(科技報橘)は、「#人間蒸留」「#同僚伝承」「#サイバー永生(※)」といったハッシュタグがSNSで拡散したと報じた。

※ 編集部註

とこしえに生きる、不滅であることを意味する。もとは仏教用語。
上海のテック企業で働く27歳の女性は、SNSでColleague Skillについて知り、試しに元同僚のAIペルソナを生成した。彼女はMITテクノロジーレビューに対し、ツールの精度が予想以上に高く、「その人のメッセージへの反応の仕方や、句読点の打ち方などの癖まで捉えていた」と語っている。さらにこの女性は、AIエージェントを「新しい同僚」に見立て、プログラムのバグ探しを手伝わせたり、メッセージの返信を依頼したりしたが、その体験を「どこか不気味で居心地が悪いものだった」と表現した。
■先に同僚を蒸留しよう
だが、Colleague Skillが打ち出した「人間を蒸留する」というコンセプトは、単に不気味なだけでなく、実際に労働者たちの不安をかき立てている。中国版インスタグラムと呼ばれる「小紅書(RED)」では「#AI不安」というハッシュタグの閲覧数が数百万回規模に達している。あるユーザーは「先に同僚を蒸留しておけば、自分はもう少し長く生き残れるかもしれない」と皮肉交じりに投稿した。
人間を「スキルの集合体」として捉え、個人を置き換え可能にするツールは、すでにさまざまな分野で実験が進んでいる。中国では今年初めにオープンソース型のAIエージェント「オープンクロー」の利用が急速に拡大したが、企業での実用性はまだ限定的だ。

そこでColleague Skillのようなツールを使い、従業員に日々の業務を細部まで記録させ、特定のタスクやプロセスを自動化する動きが活発化した。
米エモリー大学でAIと労働を研究するハンチェン・ツァオ助教授は、企業がこのようなツールを用いて、従業員の知識や業務フロー、意思決定のパターンに関する豊富なデータを得られると述べている。その結果、「どの業務が標準化・システム化できるのか、どの部分に人間の判断が依然として必要なのかを把握できる」と同氏は指摘した。
■AI推進の影で職に就けない大量の学生たち
中国政府は、「AIプラス」と呼ばれる取り組みにより、主要セクターにおけるAI導入率を来年までに70%、2030年までに90%に引き上げようとしている。だが、ロイターによれば、AI関連の求人が昨年74%も急増した一方で、そのブームの裏では1270万人もの大学卒業生が初任給の低下と求人の減少に直面している。シティグループは最近のレポートで、中国の全雇用の9.6%がAIによる置き換えの高いリスクにさらされていると推定したが、その中でも20代の労働者のリスクは13.6%に達していた。
「ほとんどの人の業務は、完全にオープンクローに置き換えられる。自分の作業フローを全てAIエージェントに書き込んでしまえば、その人は基本的に解雇される」と、アリババなどのハイテク大手が本拠を置く杭州市に住み、大手ネット企業に勤める26歳の契約社員はロイターの取材に語っている。
■AI置き換えのための解雇は違法の判決も
AI投資の加速と業務効率化を理由とした大規模な人員削減は、米国のテック業界ではすでに日常化している。メタとマイクロソフトは直近で、それぞれ約8000人と約4800人の削減を発表した。だが、中国政府は企業が迅速にAIを導入することを望んでいるものの、社会の安定を脅かすほどの規模の解雇が発生することは求めていない。
米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)は5月の記事で中国当局が昨年末、ハイテク企業などの雇用主に対し、AI導入に伴う従業員の解雇を控えるよう求めたと報じた。
中国の労働法では、以前から20人以上、または従業員の10%以上を対象とする大規模リストラを行う場合、企業は事前に労働組合への説明や労働当局への届け出を求められていた。だが近年は、企業側がAI導入を理由とした人員削減ではないことを証明しなければならないケースが増えている。
杭州市の裁判所は4月末、従業員をAIに置き換えて解雇したフィンテック企業に対し、その解雇が違法であるとの判決を下し、約26万元(約630万円)の賠償金を元従業員に支払うよう命じた。この元従業員は、同社でAIモデルのユーザー応答をレビューし、評価する管理責任者を務めていた。だが、2025年初頭、中国製の大規模言語モデル「DeepSeek」の登場によってAIブームが加速するなか、会社は元従業員に対し、別の職務への配置転換と40%の給与カットを提示。拒否すると、雇用契約を解除したという。
■それでも“静かな解雇”は続く
同様の判断は、北京でも示された。前出WSJの報道によれば、ある中国のハイテク企業で15年間にわたり地図データ収集の仕事に従事していた男性は、雇用主がAIを使って仕事を自動化し始めた結果、2024年になって職を失った。彼は雇用主を相手取って北京市労働人事紛争仲裁委員会に仲裁を申し立て、不当解雇に対する賠償を請求。同委員会は解雇を違法と認定した。
そんな中、AIによる効率化を目指す中国企業は、政府の監視を避ける目的で、小規模で「静かな解雇」を密かに進めているとロイターは報じている。アリババのクラウド部門のエンジニアは、同社の一部で始まった人員削減の取り組みが、大規模なレイオフではなく、段階的な削減や自然減を通じて進む可能性が高いとコメントした。

■人間が“デジタル資産”に変わっていく
ここまで述べてきたように、AIによる効率化とそれに伴う人員削減は、さまざまな批判や反発を浴びながらも進んでいる。だが、テクノロジー業界はいま、AIによって単に人間の仕事を自動化しているだけではない。人間の頭の中にある知識やノウハウ、意思決定のパターンを抽出し、AIエージェントが再利用可能な「デジタル資産」に変える取り組みが広がっている。
ロイターは米メタが4月、自社開発のAIエージェントの訓練データを確保するため、米国内の従業員が使用する会社支給のPCに、操作内容を詳細に追跡するソフトウエアの導入を開始したと報じている。「Model Capability Initiative(MCI)」と呼ばれるこのプロジェクトは、キー入力やマウスの動き、閲覧したコンテンツの画面キャプチャなどを記録し、人間特有のコンピュータ操作をAIに学習させるためのものだった。
だが、当然ながらメタ内ではプライバシーや雇用への影響を懸念する声が噴出。1600人以上の従業員が、会社に対し従業員のPCデータの収集と再利用を停止するよう求める嘆願書に署名した。また、社員らの非公開の会話やプロンプト、文字起こしデータ、業績評価などが「社内の誰でも閲覧できる状態」になっていたことが発覚したこともあり、このプロジェクトは2カ月足らずで一時停止に追い込まれた。
■AIの訓練に従業員を利用「理にかなっている」
それでもハイテク大手による同様の取り組みは、今後も続きそうだ。4月にメタが実施した社内会議の音声データが米国の労働問題を扱う非営利メディアMore Perfect Unionによってリークされた。そのなかでマーク・ザッカーバーグCEOが「AIの訓練に従業員を利用することは理にかなっている」と述べていたことが確認されている。
「AIモデルは、本当に賢い人々が物事を行うのを見ることで学習する。
この会社にいる人々の平均的な知性は、一般的な人々の平均よりもはるかに高い」とザッカーバーグは語っていた。
同様の動きは、小規模なテクノロジー企業でも進んでいる。米フォーブスは4月、事業を停止したcielo24と呼ばれるスタートアップが、社内のチャット履歴や業務データを、数十万ドル(数千万円)規模で売却することに成功したと報じた。
この背景には、AI企業による「実務データ」の争奪戦がある。職場で通用するAIエージェントを育てるには、人間が日々の業務で積み重ねてきた生の作業記録が欠かせないが、インターネット上の公開データは、2024年後半までにほぼ枯渇したとされる。
■安く見積もられていく「人間の価値」
そのため、これまで無価値と思われていた社内の日常的なやりとりや、個々の社員の反応、メッセージの履歴などが新たな鉱脈として注目を浴びつつある。前出の米フォーブス報道によれば、この分野では既にSimpleClosureSunsetなどの「業務データのマーケットプレイス」を運営する企業が勢いを増しているという。
さらに、廃業したスタートアップのデータを使って、AIエージェントが実際の職場に近い形で訓練を行える模擬環境を提供する「強化学習ジム(reinforcement learning gym)」と呼ばれる新たな業界も生まれている。
これらの環境では、AIエージェントがデジタル上のオフィス内を動き回り、仮想空間で現実世界の課題を解決する訓練を積む。AI大手のアンソロピックは、こうした強化学習ジムを活用したAIエージェントの訓練に、今後1年間で10億ドル(約1620億円)を投じる計画だと報じられている。
中国で進む「人間の蒸留」は、個人の知識や経験、判断力を切り出し、AIが再利用できるデジタル資産にパッケージ化する試みとも言える。だが、蒸留というプロセスを経た後の人間に、何が残るのかという疑問も浮かぶ。

前出の上海のテック企業の女性社員は、「自分の仕事が今すぐAIに奪われるとは思っていない」と、MITテクノロジーレビューに語った。「ただ、自分の価値がどんどん安く見積もられているように感じる。そして、それにどう対処すればいいのかわからない」と彼女はコメントした。

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上田 裕資(うえだ・ゆうじ)

ジャーナリスト

1968年生まれ。関西学院大学卒業後、雑誌編集者を経てデジタルコンテンツ企業に勤務。『フォーブスジャパン』ウェブ版立ち上げに参画し、米国、中国・深圳、イスラエル、ベルリンなどのスタートアップを取材。

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(ジャーナリスト 上田 裕資)
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