本能寺の変で、織田信長と長男・信忠が討たれた。信長の他の息子たちはどんな運命をたどったのか。
歴史評論家の香原斗志さんは「当時は信孝が信長の後継になると見られていたようだ。だが、優秀がゆえに秀吉と対立してしまった」という――。
■信忠が討たれても信孝がいたのだが
織田信長(小栗旬)が三男の信孝(結木滉星)に、長宗我部元親(磯部寛之)が勢力を伸ばす四国への総攻撃を命じたのは、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第27回「本能寺の変」(7月12日放送)でのことだった。
だが、いざ渡海する前日、信長と嫡男、つまり信孝の長兄の信忠(小関裕太)は、明智光秀(要潤)配下の軍勢に討たれてしまう。四国総攻撃が取りやめになったのはいうまでもない。
第29回「天下への道」(7月26日放送)では、信孝は光秀を討伐する軍の総大将にかつがれ、備中高松城(岡山県北区)から「中国大返し」を達成した羽柴秀吉(池松壮亮)らとともに、山崎(京都府大山崎町から大阪府島本町、京都府長岡京市の一帯)の地で明智軍と激突することになる。
明智光秀の謀反が周到に準備されていたことは、信長と信忠がともに少ない供回りで京都に宿泊し、2人を同時に討てるタイミングをねらったことからもわかる。たとえ信長を殺すことができても、すでに織田家の家督を継ぎ、信長の後継者としての経験を着実に重ねていた信忠が生きていれば、織田家の体制が維持され、謀反は失敗に終わる。だから、是が非でも信忠を同時に討つ必要があった。
とはいえ、信長には多くの息子がいた(一説には11人とも)。そのなかで次男の信雄と信孝は、織田家で重要な役割を果たし、彼らが信長の跡を継いでも不思議ではなかった。とりわけ信孝は、各方面から評価が高かったのだが、結果をみれば、あまりにも悲運だった。

■三男までは「息子」としてあつかった信長
信長は当初、信忠だけに英才教育を施し、次男以下とのあつかいをはっきりと変えていた。実際、信雄は永禄12年(1569)、侵攻した伊勢との和睦の条件として、同地の北畠家の養嗣子になった。信孝は前年の永禄11年、やはり伊勢の神戸家へ養嗣子に出されていた。
とはいっても2人は事実上、信長の息子としてあつかわれた。信長の生前は、それぞれ北畠姓と神戸姓を名乗っていたと思われるが、信雄には伊勢(三重県中東部)の大半と伊賀(同西部)の3郡が授けられ、信孝も四国征伐が成功すれば、阿波(徳島県)をあたえることが約束されていた。
四男以下は養子に出したきりか、わずかな扶持で養っていたにすぎないので、信長は信雄と信孝については、信忠に不測のことが起きたときに後継者にする可能性も考えていたのではないだろうか。
2人とも永禄元年(1558)生まれで、信忠と信雄はともに、生母が信長の側室の生駒殿だが、信孝の母親は坂氏という呼び名しか伝わっていない。信孝のほうが先に生まれたが、母の身分が低かったので報告が遅れ、次男になるところが三男になった、とも伝わる。
いずれにせよ信雄が次男であり、母親の格も上だったようだ。しかし、周囲からの評価は信孝のほうが圧倒的に高かった。
■能力が高く信長からもほかの武将からも信頼された
たとえば、秀吉の御伽衆の大村由己が書いた軍記物『柴田退治記』には、信孝について「智勇、人に超えたり(知恵も勇気も人並み以上にすぐれている)」と記されている。『川角太閤記』でも「御覚え御利発の有様、残る所御座なく候(周囲の評判が高くとても利発で、申し分ないご様子だ)」と称賛されている。

また、イエズス会宣教師のルイス・フロイスも、「我らの大いなる友人であり、デウスのことに好意を寄せていた」と評価し、四国総攻撃を前にしてのことを『日本史』に次のように書いている。
「(註・信長は)都に向かって出発するに先立ち、三七殿と称する三男を四国の四カ国を平定するために派遣した。父は彼に一万四千ないし一万五千クルザードを黄金で与え、世継ぎである彼の兄と他の武将たちも、彼が一同から愛されており、またそうすることが父を喜ばせることを承知していたので、黄金および高価な品物を贈呈した」(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)
つまり、父の信長は信頼する信孝に多量の黄金をあたえ、信忠やほかの武将たちも、信孝が周囲から信頼され、信長の覚えもめでたいのを知っているので、黄金や贈答品を次々に贈ったというのである。
■安土城に放火した「信雄」と光秀討伐の総大将「信孝」
一方、次男の信雄はというと、フロイスは安土城の中枢が炎上したことを報告する箇所にこう書いている。「しかしデウス(註・神)は、(中略)付近にいた信長の子、御本所(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく、彼に邸と城を焼き払うよう命じることを嘉し給うた。城の上部がすべて炎に包まれると、彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった」。
織田信長の安土城は、明智光秀が殺された直後の6月14日から15日早朝にかけ、天主などの主要部が焼失してしまったが、その「犯人」が信雄だというのである。
織田政権のシンボルをみずから壊滅させてしまった兄と、山崎合戦の総大将を務め、父の仇を討った功労者である弟。もっとも、最近発見された史料にもとづき、秀吉も信孝も山崎の合戦に間に合わず、実際には池田恒興らが戦った、という説が浮上している。だが、そうはいっても、信孝の存在がゆえに光秀に圧力がかかり、織田軍の勝利につながったとはいえる。
この状況だから、自分が織田家の後継になる、と信孝が思っても不思議ではない。イエズス会の『耶蘇会年報』にも「信孝が天下の主になる」という噂があった旨が記されている。

■秀吉によって謀反人に仕立てられる
だが、6月27日、織田家の今後の体制と、領地の分配を決める清須会議が開催されたところから、信孝の不満は鬱積していったと思われる。
織田家の後継は信忠の遺児の三法師と決まっていたが、幼少のため、信雄と信孝のどちらが名代となるか。信孝は光秀討伐の実績を強調し、信雄は信忠に次ぐ格を誇示。だが、議論が紛糾したため、2人を名代とせず、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4人の宿老が合議制で、織田家を運営することに決まった。
信孝は信忠の所領だった美濃(岐阜県南部)をあらたに支配し、信長が整備した岐阜城に入って、そこで三法師を後見することになった。ここまではまだよかったが、以後、秀吉にしてやられることになる。
秀吉が丹羽長秀や池田恒興を事実上配下に置き、信長の後継者のようにふるまい出すと、信孝は反発し、同様に反発していた柴田勝家と接近。すると秀吉は対抗して、信雄を暫定的に織田家の当主に据えた。12月には、三法師を岐阜城から放そうとしない信孝を謀反人あつかいし、三法師奪還を名目に信雄とともに挙兵。ここに詳細を記す余裕はないが、それが柴田勝家との全面対決である賤ヶ岳合戦につながっていった。
■秀吉には優秀な信孝が邪魔だった
当時、フロイスの報告などによれば、世間は信孝が信長の後継になると見ていたようだ。しかし、秀吉にとっては「智勇、人に超えたり」と評価される信孝をかつげば、織田政権を簒奪しにくい。
だったら「ふつうより知恵が劣っていた」信雄を主君とあおぎ、どこかでポイ捨てするほうが都合はよかったことだろう。
秀吉と対立した信孝は、以後、ほとんど軍事行動を起こすこともできなかった。清須会議で領有を認められた美濃は、信長および信忠が治めた国だが、若くして伊勢に養子に出た信孝にとっては、ほとんど縁もゆかりもない。もう少し時間があれば、美濃の有力な国衆たちを従わせることもできただろうが、その前に紛争が起きてしまった。だから、軍事的にはまったく力を持たなかったのである。
秀吉は柴田勝家を滅ぼしてこそ、天下獲りにつなげられると踏んでいたが、その際、組む相手は愚鈍な信雄がよかった。優秀な信孝は、勝家と一緒に滅ぼしてしまえばいい。
秀吉は北庄城を攻めて勝家を自害させると、信雄の軍勢に岐阜城を包囲させた。そして開城させると、信孝は野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺に退かされ、そこで切腹させられた。兄が弟に死を命じたのだが、そう導いたのは秀吉だったといわれる。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。
日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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