司馬遼太郎は代表作『坂の上の雲』で正岡子規、秋山好古・真之兄弟を主人公に日露戦争を描いた。しかし、「真の主人公」は別にいたという。
新聞記者時代から司馬に兄事していたジャーナリスト青木彰さんの著書『司馬遼太郎と三つの戦争 戊辰・日露・太平洋』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
■1904年8月、旅順攻防戦が開始
坂の上の雲』で描かれる日露戦争は、陸軍が満州で展開した地上戦と、海軍による日本海海戦などに区分けされます。
その地上戦のハイライトは、乃木希典(のぎまれすけ)大将率いる第三軍による旅順(りょじゅん)攻撃でした。
司馬さんの筆は厳しいですね。自らが陸軍の軍人だっただけに、容赦がありません。
たしかに旅順は悲惨でした。
155日に及ぶ旅順攻防戦において、多くの血が流されました。ロシア軍の戦闘兵は約4万5千人、戦死者は約1万6千人にものぼりました。
これに対し、日本軍は10万人を投入し、死傷者は約6万人、約1万5千人が戦死しています。
■乃木希典を「真の主役」に選んだ理由
これほどの犠牲は世界戦史上でもまれなもので、旭川に司令部をもつ第七師団などはほぼ壊滅しています。はたして日本軍が本当に勝ったといえるのかと思うほどです。
司馬さんは、日露戦争を描くとき、陸軍は、203高地を中心とした旅順攻略戦、とりわけ乃木大将を主題にしようと考えたと思います。
小説の流れとしては秋山好古のコサックとの戦いが主題のはずなんですが、秋山好古は脇に置かれています。
ではなぜ、司馬さんは乃木を真の主役に選んだのか。これが、『坂の上の雲』の中で、もっとも重要なテーマになります。
その理由を、私はこう考えます。
まず、乃木将軍は、明治に引き継がれた武士道の体現者であった点です。
■戦前日本のモラルを体現したような人物
今日の人に、乃木さんの存在の大きさ、不思議さは理解しがたいかもしれません。旅順陥落の英雄であり、戦後は学習院院長として、昭和天皇をはじめ皇族の教育係にもなった。明治天皇の死に殉じ、妻とともに自決し、日本のみならず、世界の人々に感銘を与えた。明治の日本人の、大きな象徴的な存在でした。
司馬さんも私もそうでしたが、戦前の教育を受けた子供にとっても、乃木さんの存在は大きい。戦前の日本のモラルを体現したような人物でした。
しかし、その乃木さんは、およそ軍事的には無能な軍人でした。
その彼が第三軍の司令官に選ばれた。必然的に日本の命運を握ることになってしまう。そこにある陸軍の体質をも、司馬さんは書きたかったのではないか。
司馬さんは、「乃木神話」にひるみませんでした。『坂の上の雲』の「産経新聞」連載が始まる約一年前、「別冊文藝春秋」の昭和42年6月号と9月号に、乃木将軍をテーマにした「要塞」「腹を切ること」を書いています。合わせて『殉死』として刊行されています。
■「何度も戦争をやってみた」司馬の結論
乃木将軍が明治天皇の死を追って殉死したことに対しては、当時の世界的な、国民的な評価とは別に、文学者などの間では是非が分かれています。芥川龍之介は『将軍』で、N将軍として批判的に描いています。アバウトにいえば、司馬さんの視点は、その中間といえるかもしれません。
独自な乃木像が司馬さんにはある。
つまり軍神に祭り上げられた“乃木神話”のベールを一枚一枚、はぎとって、その衣にひそむ、きわめて人間的な納得のゆく像を引き出す。司馬さんの乃木を考えるポイントはいくつかあります。

まずは旅順攻略戦です。
『司馬遼太郎全集32』の末尾に「年譜」がありますが、それに司馬さんの“解説”的な話が載っています。『殉死』について語ったものですが、そこで司馬さんはいいます。
「さらにまた『殉死』で心を使ったのは、戦術のことでした。旅順の第一回総攻撃から第三回総攻撃までの地図を幾枚もつくり、もし自分でやればどうなるだろうと思い、紙上で何度も戦争をやってみました。やはり乃木希典の旅順攻撃のやり方は根本からまちがっていたと思いました」
■同じ時代を生きた人を描くつらさ
次に明治天皇との関係ですが、封建社会での主君と家臣の関係だと司馬さんは考えた。
新しい時代になっているのですから、その求道家としてのストイシズムはときにこっけい感をともないます。純粋な、古武士道の体現者に対しある種の親しみを示し、評価もしています。
司馬さんは冷静に乃木将軍を分析しています。これは私たちが考えるより、辛い作業だったと思います。
「『殉死』を書く用意をしはじめたとき、途方に暮れる思いがした記憶があります。乃木希典があまりにも最近の人であるということです。
歴史というのは百年たたないと成立しないというのは、本当ですね。乃木希典はまだ死後、半世紀とちょっとしか経っていません。
(中略)
ともかく乃木希典という人間は、歴史的にはまだ●醸(うんじょう)されていないのです。ですから、小説を書くために必要な取材以上の取材をしようと思いたち――つまりあとから故障が出ないように――できることなら天皇さんにも取材したいと思いました。天皇さんはまだ少年のころ、乃木希典の最後の講義を聴かれたからです。
※「うん醸」の「うん」漢字は正しくは「とりへん」、右側上に「囚」下に「皿」。
この『殉死』が刊行されてから、天皇さんに接しうる立場にいる人が、あのくだりは本当ですか、と質問されたとき、天皇さんが、私もそのように記憶している、とおっしゃったそうで、その話をあとで聞いて、妙な安堵感(あんどかん)をおぼえました。その人物を知っているという人が作者と同時代にいるということは、じつにつらいことです」
■小説は自分で考えだして書くべきもの
乃木将軍を書くうえで、大きなプレッシャーがあったことを想像させます。しかし司馬さんはこうもいっています。
「わたしにとって『小説』とは、まずわたし自身のためのものです。わたしが別のわたしに読み聞かせるためのもの……とこうひらき直っているのは一種のコンプレックスのせいなんです。
(中略)
小説というものは自分で考えだして書くべきもので、『純文学』とか『大衆文学』とかいうふうに概念で分けて書くものではありません。
わたしはそうした概念で小説を書こうとしたことは一度もありません」
以上の司馬さんの考えは、覚悟を語ったものだと思います。
■相当の覚悟をもって「軍神」に斬り込んだ
『坂の上の雲』は時代を書こうとしている。その時代の栄光も、その後の破滅にいたる時代への萌芽も、書こうとしている。そのために乃木将軍は書かねばならない。テーマであり、書く以上は自分が納得できるものにしなければならない。
なるほど乃木将軍は人格的にはたしかに高潔でした。写真が好きでしたが、旅順陥落後の敗将、ステッセルとの会見写真はありません。会見後の、友人としての記念撮影ならあります。敗軍の将に対する武士の情がそこにあります。太平洋戦争でシンガポールが陥落したときの、山下奉文(ともゆき)中将とパーシバル中将との写真を思い起こせば、ふたつの戦争の違いがわかります。日本人もまた変わっていく。
乃木将軍は神格化されました。
赤穂(あこう)浪士と同じように、浪花節、講談、琵琶などで、その死は美化された。いろいろあった軍国美談の中で最大のものでしたが、そこに司馬さんは本格的に斬り込んでいる。
軍神に祭り上げられる怖さを、だれにも文句がいえないような取材で書き込んでいます。殉死の不自然さを冷静に書いた「腹を切ること」を読めば、さらに司馬さんの覚悟がわかると思います。
このことは記憶してほしいですね。
世界とほとんど交流がなく、チョンマゲ姿に刀を二本差した侍が支配していた日本が、わずか3、40年で清国はおろか、大国ロシアを破る国になった。そこには、国家、民族、人間の面白さがありますが、恐ろしさもあります。乃木さんはその象徴的な存在でもありました。

----------

青木 彰(あおき・あきら)

ジャーナリスト、筑波大学名誉教授

1926年、東京生まれ。東京大学文学部教育学科卒。49年に産経新聞社入社、教養部長、社会部長、論説委員、大阪・東京両本社編集局長、フジ新聞社社長などを経て、1978年から筑波大学現代語・現代文化学系教授。1990年、東京情報大学教授。東京新聞客員、朝日新聞紙面審議会会長代理、NHK経営委員、司馬遼太郎記念財団常務理事などを歴任。2003年12月逝去。

----------

(ジャーナリスト、筑波大学名誉教授 青木 彰)
編集部おすすめ