※本稿は、堤未果『堤未果の「すばらしい新世界」』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
■“やんちゃな子”が「脳に問題ある子」に
1990年代、うつ病と並行して、アメリカを中心に爆発的に診断数が増えたもう一つの精神疾患があった。
1987年に米国精神医学会の『精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)』に初めて病気として加えられた、ADHD(注意欠如多動症、注意欠陥多動性障害などとも呼ばれる)だ。
抗うつ剤のプロザックが「悲しみを消すソーマ」ならADHD治療薬のリタリン(メチルフェニデート)は、「多動や好奇心を抑え込むソーマ」だろう。
かつての学校では「やんちゃ」「個性的」と大目に見られていた子供たちがいた。「じっと座っていられない」「教師の指示に従えない」「興味のないことにはまるで集中できない」そういう子たちだ。効率性ファーストの新自由主義が教育現場に浸透するにつれ、彼らは「脳に機能不全を抱える子」として再定義されてゆく。
リタリンを飲ませると、驚くほど静かになり、反復的な作業に集中できるようになる。親や教師たちは、救われた気分になった。
だがここで、ある問いが宙に浮いたままになっている。
「そもそも、人間が8時間も机に縛りつけられること自体が不自然ではないか?」
■集中できないなら「薬を飲みなさい」
この問いは一部の大人たちによって投げかけられたが、「集中できないあなたが悪い。だから薬を飲みなさい」というプロザックと同じ自己責任論の前にかき消されていった。
子供の「問題」は、子供の脳が原因だとされ、教室の構造や栄養状態、画一的な学習環境への問いは、処方箋一枚によってなかったことにされたのだった。
だが、リタリンの普及とADHDの製薬会社による親や教師への大規模なマーケティング、診断基準の拡大は、90年代から21世紀初めにかけて、異常事態を引き起こす。
1990年からわずか5年で、リタリンの主成分メチルフェニデートの生産量は5倍以上に増加した(米連邦麻薬取締局生産割当データ、1990~95年)。幼児への処方も急増し、2000年代初頭には2、3歳児への投与の増え方が医学誌で問題にされるほどだった。
この背景には、新自由主義的教育政策と巨大化する製薬業界、そして親たちの不安がある。
1991年、「障害者教育法(IDEA)」の運用通達により、ADHDが公教育の支援対象として認められると、落ち着きのない子供の親に精神科受診を勧めることが、競争原理の圧力にさらされる学校側にとって合理的な選択肢になった。
子供たちの学力テストの成績が学校予算に直結する仕組みの下では、「授業の妨げになる子」は早急に「対処」すべき存在になるからだ。
■3つの「圧力」による一方向への収束
ADHDを疾患カテゴリーに加えるよう政府へ働きかけた最大の団体は、1987年に多動性障害の子を持つ親たちが立ち上げた「CHADD(注意欠如多動症を持つ子供と大人の会)」だが、リタリンの製造元であるノバルティスが同団体に90万ドルの寄付をしていたことが後に発覚し、大きな批判を浴びた。
親の切実な願いと、製薬企業の利益、競争原理を導入した教育制度の圧力の三つが、一つの方向へと収束していったのだ。
だが、やがてこの問題は、教室の外にまで広がってゆく。競争が激化する社会の中で、適応できずストレスを抱えるのは子供たちだけではなかったからだ。
「もっと速く、もっと長く、もっと正確に」――そう求められる大人たちもまた、リタリンへと手を伸ばし始めた。
「気が散りやすい」「飽きっぽい」という性質は、24時間フル稼働する資本主義社会においては、修正すべき「欠陥」とみなされる。かつて子供に向けられた問い――「じっと座れない子が悪いのか、それとも座らせ続ける環境が問題なのか」――は、大人の世界でも同じ形で繰り返されているのだ。
こうして、ソーマは、教室から社会全体へと、静かに広がっていった。
■年5兆円も爆売れする薬の正体
2026年、ついに人類は、年間5兆円分の「集中力」を買った。
複数の市場調査によると、リタリンを含むADHD治療薬は、毎年9%という異常な成長率で「空前の爆売れ」を続け、売上げは2024年で約279億ドル(約4兆円)、2026年には約331億ドル(約5兆円)を突破すると予測されている。
リタリン単体でも、全世界で年間22億ドルの売上げを叩き出すというし、これにジェネリックを含めるとさらに膨大になるという、まさに製薬業界にとって「金の卵を産むニワトリ」だ。
最大の特徴は、処方される患者の年齢がどんどん若くなっていることだ。
6歳から12歳の子供に処方されるADHD薬の量は、2002~2004年と2008~2010年を比較すると、84%増加、13歳から18歳では2.5倍にまで跳ね上がった。
90年代のブームが一時的熱狂で終わらなかった最大の理由は、かつては「子供の病気」とされていたADHDが、今や「大人になっても続く、一生管理すべき特性」へと再定義されたことにある。
製薬会社にとって、「一生の顧客」を確保できるビジネスモデルが完成したのだ。
■正常な悩みまで発達障害扱いに
2010年代の半ばから、製薬業界は「ADHDは親のしつけや本人の努力不足ではなく脳の特性」というメッセージを大量に発信するようになった。
例えば、武田薬品が運営する啓発サイト「大人の発達障害ナビ」にあるチェックリストは、過酷なビジネス環境にいる人なら、誰でも一度は経験するような項目で構成されている。
「物事の優先順位をつけるのが難しい」
「約束や締め切りを忘れる」
「ミスが多い」
「じっとしていられない」
サイトでは、チェックした結果を「印刷または保存し、医師に面談する際に見せて回答結果について相談することもできます」と勧めており、通常は長くかかる精神科の初診手続きを、大幅に短縮させている。
日本の診断基準の拠(よ)り所(どころ)である米国精神医学会の『精神疾患の診断・統計マニュアル』が2013年に改定された時、前版(DSM-IV)の作成委員長だったアレン・フランセス教授は大人のADHD診断基準がゆるめられたことを、強く警告した。
「製薬会社がチェックリストを悪用し、正常な範囲の悩みまでADHDという病気に変えて、医師を巻き込み患者を増やしている」
■ADHD治療薬がスマートドラッグ化
欧米の市場が飽和してくると、次に、「過酷な学歴社会」や「ストレスの多い労働環境」を持つ日本、韓国、中国、インドなどアジアの国々がターゲットになった。
売上げをさらに後押ししたのが、2020年の新型コロナパンデミックだ。
ビジネス街や学校が閉鎖され、人々が家にこもっていたあの頃、アメリカでは、一度も対面せずにオンラインだけでADHD診断をして処方箋を出すサービスが急拡大した。これが「スマートドラッグ」としての乱用を招き、世界的な需要過多を引き起こしている。
今やこの薬は、「治療」や「幸せになりたい」からだけではなく「社会の一員として機能し続けなければならない」という強迫観念から服用されるようになった。
職場環境や、政治の腐敗、社会の不公平さなど、理不尽な制度に向けられるはずの「怒り」や「違和感」は、医療という門をくぐった瞬間に、個人の脳内物質の不均衡という「医学的な問題」にすり替えられてしまう。
1993年のプロザックが「不安や悲しみ、絶望を消すソーマ」だったのに対し、2026年のリタリンは「衝動を抑えて集中力を高め、競争から脱落しないためのソーマ」だろう。
オルダス・ハクスリーがディストピア小説『すばらしい新世界』(1932年)で描いた世界では、不快な感情が湧きあがるたびに、人々は迷わず手を伸ばした。
現代の私たちも、迷わず手を伸ばす。月曜の朝に。プレゼンの前に。大事な面接の前に。誰に強制されたわけでもなく。
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堤 未果(つつみ・みか)
国際ジャーナリスト
東京生まれ。NY市立大学大学院国際関係論学科修士号取得。国連、アムネスティ・インターナショナルNY支局員、米国野村証券を経て現職。日米を行き来し、各種メディアで発言、執筆・講演活動を続ける。『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』で日本ジャーナリスト会議黒田清新人賞、『貧困大国アメリカ』(3部作、岩波新書)で日本エッセイストクラブ賞、新書大賞受賞。多数の著書は海外でも翻訳されている。
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(国際ジャーナリスト 堤 未果)

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