※本稿は、小島和男『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。
■子どもを持たないという選択
子どもを持たない人が増えている。国立社会保障・人口問題研究所の調査によれば、生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚したことがない人の割合)は、男性で約3割、女性で約2割に達している。
結婚しても子どもを持たない夫婦も増えている。「DINKs」(Double Income No Kids)という言葉はすでに定着……の域を超え、その状況が普通になりすぎており、もはや死語だ。むしろ、生き方のスタンスや価値観を表す「チャイルドフリー」という言葉のほうが使われているように思われる。しかし、こうした変化を嘆く声は未だ多い。少子化が進めば社会保障制度を維持できなくなる、労働力が不足する、国力が衰退する……だから、もっと子どもを作るべきだ、と。
私はこうした議論に違和感を覚える。子どもを持つかどうかは、個人の人生における最も重要な決断の一つだ。それは社会の都合で左右されるべきではない。
ここでは、子どもを持たないという決断について考えたい。それは決して「逃げ」や「わがまま」ではない。むしろ、真剣に人生と向き合った結果として、子どもを持たないという選択をする人がいる。その選択は、絶対に尊重されるべきだ。
■家族や親戚、職場などからの圧力
子どもを持たない人は、さまざまな圧力にさらされる。家族や親戚からの圧力。「孫の顔が見たい」「いつ産むの?」「まだ間に合うわよ」。結婚すれば「子どもはまだ?」と聞かれ、子どもを持たないでいると「何か問題があるの?」と詮索される。悪気はないのかもしれないが、こうした言葉は当事者を深く傷つける。
職場での圧力。「子どもがいないと一人前じゃない」「子育ての苦労を知らないから」という空気。子どもがいない人は、暗黙のうちに「未熟な大人」として扱われることがある。逆に、子どもがいないことを理由に、残業や休日出勤を押しつけられることもある。
政策からの圧力。少子化対策の名のもとに、「産め」というメッセージが発信され続けている。出産や育児に対する経済的支援は充実してきたが、その裏には「支援するから産め」という含意がある。子どもを持たない人は、税金を納めているにもかかわらず、その恩恵を受けられない。
メディアや文化からの圧力。一昔前のドラマや映画では、子どもを持つことが「幸せのゴール」として描かれることが多い。子どもを持たない女性は、「キャリアウーマン」として描かれるか、「かわいそうな人」として描かれるか、どちらかになりがちだ。子どもを持たない男性は、そもそも存在しないかのように扱われる。
■根底にある「出生奨励主義」を疑う
こうした圧力の根底にあるのは、「出生奨励主義(プロナタリズム)」と呼ばれる考え方だ。子どもを作ることは良いことであり、作らないことは悪いことである、という暗黙の前提。この前提は、あまりにも当然視されているため、疑問を持つこと自体が難しい。
しかし、なぜ子どもを作ることが「良いこと」なのだろうか。誰にとって良いことなのか。社会にとって? 親にとって? 生まれてくる子ども自身にとって? この問いを真剣に考えると、「子どもを作ることは良いこと」という前提は、それほど自明ではなくなる。
出生奨励主義は、しばしば「自然」や「本能」という言葉で正当化される。子どもを産み育てたいという欲求は、人間の自然な本能である。だから、子どもを持たないことは「不自然」である、と。
しかし、この議論には問題がある。まず、「自然」であることと「良い」ことは、同じではない。人間にはさまざまな「自然」な欲求がある。
■子どもを持ちたいのは本能なのか
次に、「子どもを持ちたい」という欲求が、本当に「本能」なのかどうかも疑わしい。確かに、性欲は本能かもしれない。しかし、性欲と「子どもを持ちたい」という欲求は、同じではない。避妊技術が発達した現代において、セックスと出産は切り離されている。「子どもを持ちたい」という欲求は、むしろ社会的・文化的に形成される部分が大きいのではないか。
考えてみれば、「子どもを持つことが幸せ」という物語は、社会によって繰り返し語られている。幼い頃から、人形遊びを通じて「お母さんごっこ」をする。大人になれば、「結婚して子どもを産んで一人前」というメッセージを浴び続ける。こうした社会化の過程を経て、「子どもを持ちたい」という欲求が形成されていく。
もちろん、欲求が社会的に形成されるからといって、その欲求が「偽物」だというわけではない。人間の欲求は、多かれ少なかれ社会的な影響を受けている。問題なのは、「子どもを持ちたい」という欲求だけが「自然」で「本能的」だと見なされ、「子どもを持ちたくない」という欲求が「不自然」で「異常」だと見なされることだ。どちらの欲求も、等しく尊重されるべきではないか。
■最終的な決定権は女性にある
さらに押さえておかなければならないのは、子どもを「産む」ことの負担は、男女で決定的に異なるということだ。妊娠、つわり、出産の痛み、産後の身体的ダメージ、授乳。これらはすべて、女性の身体にのみ課せられる負担だ。男性は、生物学的には精子を提供するだけで「父親」になれる。
メキシコ先住民の出産方法の一つで、男性の睾丸(こうがん)に紐をくくりつけ、女性がその紐を、出産時の痛みに応じて強く引っ張ることで、二人で痛みを分かち合うアステカ式出産法を実施してみたところでこの事実に変わりはない。女性は出産時にだけ苦しいのではないことに鑑(かんが)みると、アステカ式出産法とて、苦しみを分かち合うには全然足りないのだ。
この非対称性を考えれば、男性が「子どもがほしい」と言うことには、慎重さが求められる。基本、言わないでおいたほうが良い。
■生まれてくる子ども側からの考察
出生奨励主義を疑うもう一つの視点は、生まれてくる子どもの側から考えることだ。
毎度お馴染みデイヴィッド・ベネターは、その著書『生まれてこないほうが良かった』の中で、出生には根本的な問題があると論じている。生まれてくる子どもは、自分が生まれることに同意できない。親は、子どもの同意なしに、子どもをこの世界に送り出す。これは、他のほとんどすべての行為とは異なる特殊な状況だ。
ベネターの議論の詳細は、拙著『反出生主義入門』に譲るが、ここで重要なのは、「生まれてくる子どもにとって、生まれてくることは良いことなのか」という問いを真剣に考えることだ。
人生には、必ず苦痛が含まれる。病気、怪我、失恋、挫折、孤独、そして死。どんなに恵まれた人生でも、苦痛を完全に避けることはできない。子どもを産むということは、その子どもに、こうした苦痛を経験させることを意味する。
■人生が良いものかどうかわからない
もちろん、人生には喜びもある。ベネターの議論に対しては、別の哲学者デイヴィッド・ブーニンによる批判もあり、この点については専門家の間でも議論が続いている。私自身は、人生が良いものか悪いものかは、最終的には「分からない」という立場だ。
しかし、「分からない」からこそ、子どもを産むことを「当然」視してはいけないのではないか。フィンランドの反出生主義者を自称する哲学者マッティ・ヘイリも、この不確実性を重視する。人生が良いものかどうか分からない以上、子どもを産むことは一種の「賭け」である。その賭けに負けた場合、苦しむのは生まれてきた子ども自身だ。だとすれば、リスクを回避するために、子どもを作らないという選択には、合理的な根拠がある。
繰り返すが、これは「絶対に作るな」という主張ではない。私が言いたいのは、子どもを作ることを「当然」視してはいけない、ということだ。子どもを作るかどうかは、生まれてくる子どもの人生に対する重大な責任を伴う決断なのである。
■「持たない」と「持てない」
ここまで、子どもを「持たない」という選択について論じてきた。しかし、子どもを「持てない」という状況もある。この二つは区別されるべきだが、共通点もある。不妊に悩む人々がいる。子どもを望んでいるにもかかわらず、身体的な理由で子どもを持つことができない。その苦しみは、想像を絶するものがあるだろう。
ここで私が言いたいのは、「持たない」人も「持てない」人も、「産め」という社会的圧力に苦しめられているという点では共通している、ということだ。「持たない」人は「なぜ産まないのか」と問われ、「持てない」人は「なぜ産めないのか」と問われる。どちらも、「産んで当然」という前提のもとで、「普通ではない」存在として扱われる。
不妊治療は、心身ともに大きな負担を伴う。経済的な負担も大きい。それでも治療を続ける人が多いのは、「子どもを持つことが幸せ」という社会的な物語の力が、それだけ強いからだろう。しかし、不妊治療がうまくいかなかったとしても、子どもと暮らす方法はある。それが養子の制度だ。
■養子という倫理的に優れた選択肢
日本では、約3万2000人の子どもが児童養護施設や乳児院で生活している。親がいない子、親がいても一緒に暮らせない子。虐待、経済的困難、親の病気など、理由はさまざまだ。この子どもたちには、養育者が必要だ。家庭的な環境で育つことが、子どもの発達にとって重要であることは、多くの研究が示している。しかし、日本では養子縁組や里親制度の利用が、諸外国に比べて極めて少ない。
カリフォルニアの哲学者ティナ・ルッリは、「子どもがほしいなら、産むよりも養子を取ることを検討すべきだ」と論じている。すでに存在している、養育者を必要としている子どもがいる。その子どもたちを養育することは、新たに子どもを産むことよりも、倫理的に優れた選択ではないか。
私もこの議論に賛同する。3万2000人もの子どもが、家庭的な環境を必要としている。その現実を前にして、「自分の遺伝子を残したい」という理由で新たに子どもを産むことは、冷静に考えれば、それほど合理的な選択ではない。
もちろん、これは「産むな」という命令ではない。人間は完全に合理的には生きられない。感情や欲求に動かされるのが人間だ。「自分の子どもがほしい」という気持ちを、私は否定しない。ただ、これから子どもを持とうと考えている人には、養子という選択肢もあることを知っておいてほしい。そして、「自分の遺伝子を残すこと」が本当にそれほど重要なのか、一度立ち止まって考えてみてほしいのである。
■子どもを持った人を責めない
ここまで読んで、すでに子どもを持っている人の中には、不快に感じた人もいるかもしれない。「自分は間違った選択をしたのか」「自分は責められているのか」と。断っておきたい。私は、すでに子どもを持った人を責めるつもりはまったくない。つもりがないからといって責められていると感じた人の気持ちが癒やされることはないので、基本的には、「つもりはない」みたいな弁明はしないほうがよろしいと思うが、事実として述べておく。
私は、「すでに子どもを作ってしまった親を責めることは不当である」と明言する。その理由はいくつかある。第一に、過去の決定を責めても、何も変わらない。子どもはすでに生まれている。その事実は変えられない。過去を責めることは、親を苦しめるだけで、子どものためにもならない。
第二に、ほとんどの親は、子どもの幸せを願って子どもを産んでいる。悪意を持って子どもを産む親はほとんどいないと思われる。子どもに苦しみを与えようと思って産む親は、まずいない。その善意は、尊重されるべきだろう。
第三に、「生まれてこないほうが良かった」という考え方は、まだ社会に浸透していない。ほとんどの人は、子どもを作ることは良いことだと信じている。その信念のもとで子どもを作った人を、後から責めるのは公平ではない。
私がこの章で述べているのは、「これから」の話だ。これから子どもを持とうと考えている人に対して、「本当にそれでいいのか、一度立ち止まって考えてみてほしい」と言っている。すでに子どもを持った人に対して、「あなたは間違っていた」と言いたいのではない。子どもを持った人には、その子どもを愛し、できる限り幸せにしてあげてほしい。それが、すでに生まれてきた子どもに対する、親の責任だ。
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小島 和男(こじま・かずお)
学習院大学文学部哲学科教授
1976年生まれ。博士(哲学)。専門は、古代ギリシア哲学、反出生主義、うどん。日本うどん学会理事を務め、研究対象の貴賤の無さを語る。著書に『プラトンの描いたソクラテス』(晃洋書房、2008年)、『反出生主義入門』(青土社、2024年)、翻訳書に『生まれてこないほうが良かった』(デイヴィッド・ベネター、田村宜義との共訳、すずさわ書店、2017年、新訂版2024年)などがある。
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(学習院大学文学部哲学科教授 小島 和男)

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