※本稿は、河合太郎『ヤバい日本の住所』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■京都の住所にある謎の「上る」とは?
京都市に観光に行かれたことがある方は、一風変わった住所の表記に気付いたことがあるかもしれません。たとえば京都市役所の、ウェブサイトに記載されている正式な住所は以下の通りです。
・京都市中京(なかぎょう)区寺町通御池上る上本能寺前町488
やけに長い上に、ちょっと他では見たことがないような表記です。「上る」って何でしょうか。この住所表記の構造は、実は以下のようになっています。
・京都市中京区:京都市の中京区で、
・ 寺町通御池上る:寺町通を、御池通との交差点から北上したところにある
・上本能寺前町488:上本能寺前町の488番地
つまり、ある交差点からいずれかの方向に向かって進んだところにうちはありますよ、という相対的な表現になっているんですね。道案内をするときの口上をそのまま住所表記にしてしまったようなものです。
これは京都市、それも平安京に端を発する旧市街を中心として使われている住所表記で、京都における通り名を用いた地名表記の方式、あるいは短く京都通り名方式などと呼ばれています。基本的に道が東西南北に規則的に走っている京都市街だからこそ有効な仕組みで、実際に京都で使うとなかなか便利なものでもあります。
■現代に残る「住所界の生きる化石」
道路の名前を用いた表記なので、欧米に見られる道路名ベースの住所システムと同一に語られることもありますが、まったく異なる仕組みであり似て非なるものであることには注意してください。
道路名ベースの住所システムは「道路とそれに面する建物」に番号を振っていくものですが、京都の通り名方式は基準点からの相対的な方角指示であり、前述したように住所システムというよりは道案内です。
古来の住所表記(※)が現代に生き残っている稀有な例と言ってよいかもしれません。住所界の生きる化石です。それにしても京都市は現状日本の他のどこでも使われていない、まったく独自の住所表記方式を、それも市役所が率先して使っているわけです。
※古来の住所表記は、それぞれの人がどこに住んでいるかを特定さえできれば済んでしまい、正確な住所の表記でなくても何とかなっていた。
実際に、住民票などの公的な書類にもこの通り名方式の住所が記載されています。他地域の人からすれば、ずいぶん自由だな、と思うところかもしれませんが、京都の人にしてみれば、そない言わはってもうちら先の戦争の前からこないしてますさかいに、というわけで、住居表示だの地番だのがむしろポッと出の新参者と言われればグゥの音も出ません。
なお、ここで言う「先の戦争」とは第二次世界大戦ではなく、もちろん応仁の乱のことです。
では京都通り名の仕組みをもう少し詳しく見ていきましょう。
■交差点を基準にして方向を教えるルール
先に少し説明した通り、まず基準点を決めて、そこから東西南北どちらの方向に向かうか、というのが基本的な構造になっています。
たとえば先ほどの京都市役所の「寺町通御池上る」ですが、まず寺町通も御池もどちらも通りの名前であり、このように二つの通りが交差するところ、つまり交差点を基準点とするのが基本です(後述しますがあくまで「基本」です)。
そして、一番目の方が目的地が面している通りの名で、二番目の通りの名からは「通」を除くのが慣例となっています。次に進む方向ですが、「寺町通御池上る」の「上る」は北に向かうという意味になります。
この「上る」「下る」ですが、のぼる、くだるではなく、「あがる」「さがる」と読みます。カタカナの送り仮名で「上ル」「下ル」と書かれるのは古い表記ではありますが、いまだによく見られます。
では南北に対して、東西はどう表現するのかというと、シンプルに「東入る」「西入る」と書きます。ただし、ひがしはいる、にしはいる、ではなく「ひがしいる」「にしいる」と読みます。
■縁起や通りやすさで変わる住所
たとえば河原町にある京都髙島屋の住所は「京都市下京区四条通河原町西入真町52」です。四条通沿い、河原町通との交差点(四条河原町交差点)から西に向かったところの真町52番地、ということです。
また、この例にあるように、送り仮名の「る」は除かれることもあり、また上ル下ル同様にカタカナで書かれることもあります。ここで気付いた方もいらっしゃるかもしれませんが、この理屈だと、A、B二つの通りの間にある同じ地点を「A東入ル」「B西入ル」のどちらでも表せてしまうことになります。
その場合どちらが正しいのでしょうか。やはりより近い交差点から指し示すべきでしょうか。これは実は「どちらでも可」が答えになります。
近い交差点から案内した方が遠回りにならず親切である一方で、より大きく有名な通りから案内した方が分かりやすい場合もあり、どちらを選ぶかは決める人次第なのです。
他にも、たとえばビジネスの場合は縁起を担いで「下ル」となる南向きの案内を避け、たとえ交差点からは遠くても「上ル」となる北向きの案内を選ぶこともあるようです。
また同じビジネスでもより利便性を重視して、タクシーなどでアクセスしやすいように、一方通行の道の場合はたとえ遠くとも一方通行の入り口側からの案内にする、といった工夫がされることもあります。
■なぜ北が「上る」、南が「下る」なのか
ところで北がなぜ「上る」なのかというと、平安京の正門である羅城門から御所を目指して北へ向かう方向を「上る」と表しているのだろうと思うわけですが、実際には御所の北側の地域でも北を「上る」、南を「下る」と書きます。
これについては同志社女子大学の吉海直人教授が興味深い見解を示されていて、「かつて東寺の五重塔のてっぺんは、北大路通りと同じ高さだといわれてい」たのだそうです。
そして実際に、五重塔の高さは55m、そして平安京の南端である東寺と、平安京の北側、北大路通辺りの高低差は54mほどであり、確かに一致します。京都市は北から南に大きく傾斜している構造になっているんですね。なので北に向かうことを「上る」と称したのだろう、というのが吉海教授の説です*1。
※1:https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2018-03-27-10-10
このように、仕組みさえ理解すればけっこう分かりやすい通り名方式ですが、もちろんそんな良いことだらけではありません。京都市役所の住所をもう一度思い出してください。
・京都市中京区:京都市の中京区で、
・寺町通御池上る:寺町通を、御池通との交差点から北上したところにある
・上本能寺前町488:上本能寺前町の488番地
でしたね。「寺町通御池上る」についてはこれまで説明してきました。
■「寺町通御池上る」がなくても郵便物は届く
実は、この部分はこの部分で、れっきとした住所表記なのです。中京区にある町名で上本能寺前町、そこにある488番地の土地、つまり「京都市中京区上本能寺前町488」という、他の地域でもよくある地番表記の住所そのものなんですね。
「寺町通御池上る」を書かなくても、これだけでちゃんと郵便物は届きます。というか「寺町通御池上る」は、488番地がある辺りの上本能寺前町、というざっくりとした表現と等価であり、つまり通り名表記というのはかなり冗長な記述になっているのです。
むしろ「寺町通御池上る」だけではあくまで「寺町通と御池通の交差点から北に向かえばどこかにあるよ」までしか分からないわけで、肝心の場所がピンポイントでどこかを記述しているのは488番地の部分なのです。
そんなことなら、もしかして通り名表記の部分はなくても問題ないんじゃない? という気分になってきませんでしょうか。
現に、通り名表記を使っていないお店も多くあります。
■通り名なしでは辿り着けない場所も
たとえばラーメン「本家第一旭本店」の住所は、もし通り名で表記するなら「京都市下京区高倉通塩小路下る東塩小路向畑町845」となりますが、ウェブサイトなどに記載されているのは「京都市下京区東塩小路向畑町845」です。
また、京都市役所向かいの一之船入町にある懐石料理「花八代」の住所は「京都市中京区河原町通二条下る一之船入町537-11」ですが、同じ通りのすぐ隣にある中華料理「創作中華 一之船入」は「京都市中京区一之船入町537-50」と通り名抜きの住所を記載しています。
このように、通り名を用いるか用いないかは人やお店次第で、どちらでも問題ないのです。
だったら京都市内宛の住所を書くときは、通り名を省略して書いてしまえば短くて便利じゃないでしょうか、と誰しも思うことでしょう。しかしここには特大の罠があります。
たとえば中京区石橋町。中京区には石橋町が、御池通近辺の石橋町と、三条通近辺の石橋町の2カ所あって、しかも別に隣り合っているというわけでもなく1km以上も離れています。旧京都地方合同庁舎は西側の石橋町にあって、住所は「〒604-0043 京都市中京区御池通小川東入石橋町4381」。
カルディ三条河原町店は東側の石橋町にあって、住所は「〒604-8036 京都市中京区三条通寺町東入石橋町26」となっています。これらが全然違う場所にあるとは、京都の通り名に詳しくない人にはちょっと想像がつかないかと思います。
■同じ区内に「亀屋町」が5つあるカオスな街
これが数少ない例外ならよいのですが、あいにく京都市内にはこういう「同じ区内で同じ町名なのに違う場所」という例が他にもたくさんあります。最もバラエティに富んでいるのは中京区亀屋町で、中京区には実に5カ所も亀屋町があります。
もっと言えば、中京区だけじゃなく上京区にも4カ所、下京区にも2カ所、亀屋町があります。東京駅でタクシーに乗って「歌舞伎町まで」と言ったらたぶんそれだけで適当な場所におろしてもらえるでしょうが、京都駅で「亀屋町まで」と言ってもどこに行けばよいのか運転手さんにもさっぱり分からないわけですね。
さすがに実用的にも困るからか、実はそれぞれの町には別々の郵便番号が割り当てられています。中京区の亀屋町でいえば
・604-0865 中京区亀屋町(竹屋町通など)
・604-0094 中京区亀屋町(釡座通など)
・604-0941 中京区亀屋町(御幸町通など)
・604-0811 中京区亀屋町(堺町通など)
・604-8253 中京区亀屋町(蛸薬師通など)
となっています。
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河合 太郎(かわい・たろう)
地図エンジニア
1973年、岐阜県生まれ 名古屋大学教育学部を卒業後、(株)アルプス社で地図ソフトの開発に従事していたが、会社が民事再生を申請。それを買収したヤフー株式会社でLatLongLabなど地図サービスの開発を行いつつ、Appleが新しく発表した自社製地図をdisっていたところを見つかりそのままAppleに転籍、渡米。「マップ」の改善を担当する。現在Sunnyvale在住。インターネット上の識別子はinuro。
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(地図エンジニア 河合 太郎)

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