テスラやBYDが電気自動車(EV)を量産する中、開発に慎重な姿勢を見せたトヨタ自動車は批判を浴びた。あれから数年後、日本や欧米のEV市場は停滞している。
この間、トヨタはEV開発以上に何に力を注いできたのか。『PRESIDENT』で「トヨタ物語」を連載するノンフィクション作家の野地秩嘉さんが、7月に開かれた「タテシナ会議」に迫った――。
■自動車メーカー各社、損保の社長が集まる会議
毎年、7月中旬になると長野県茅野市蓼科高原にあるテラス蓼科で「タテシナ会議」が開かれる。取材に来るマスメディアはこれまで同会議を「交通安全を祈願するための集まり」としか伝えてこなかった。だが、実際は違う。そこで語られるのはトヨタと日本の自動車産業が目指す交通安全社会についてだ。
参加している経営トップは交通安全と交通事故ゼロのための具体的な方策を語り合う。会議の参加者は交通安全のための技術についても語るのだが、聞いていると、それは私が思うに、日本最先端の技術で自動運転に関わるそれだ。インフラ整備と自動運転が結びつけば、より安全性を高めることができる。
夏の蓼科では、自動運転が実現する近未来のモビリティ社会が語られていた。
タテシナ会議に参加しているのはトヨタのトップと幹部役員、スズキ、マツダ、スバルのトップ、トヨタグループ各社首脳、トヨタの仕入先とトヨタ販売店協会代表、日本自動車工業会代表、自転車メーカー、損害保険会社の会長、社長だ。日本のモビリティ産業に関わるトップだけが参加できる会議なのである。

同じ日、同会議の会場に隣接する寺、蓼科山聖光寺では交通事故ゼロを願う夏季大祭が催される。聖光寺は1970年、トヨタ自動車販売とその思いに賛同した全国のトヨタ販売店が施主として建立した寺だ。
トヨタは聖光寺創建以来、交通事故ゼロを願い続けてきた。その悲願がいまEV開発以上に注力する交通安全技術に結実しようとしている。
■「日本はEVで敗戦した」は本当か?
世界の自動車会社はEV化を断念したわけではない。EV開発の速度を落としただけだ。そして、BYDに代表されるBEV専業会社は開発スピードを上げ、バッテリーの性能向上を追求している。それが大勢だ。自動車のニュースや論評を読むと、「日本の自動車産業はEVで敗戦した」「BEVとバッテリーの量産能力を有する中国が未来の自動車産業を制する」といった予測が少なくない。
世界の自動車会社はパワートレーンのEV化を至上目的とするように見える。トヨタはそれを見据えているのだろうが、目指しているのは、他社とは違う「クルマと人の到達点」だと思われる。
それが交通安全だ。
寺院を建立し、産業界のトップが参加する会議を開き、交通安全を追求してきた。
具体的な行動は次のようなものだ。車に搭載した安全技術の向上。それに加えて、コネクティッド・カーを開発し、走行させて交通安全に有用なデータを取得してきた。人の交通安全に関わる意識を向上させるため、全国にあるトヨタの販売会社と協同して子どもたちから高齢者まで交通安全教育を実施するなどの施策を行ってきた。交通インフラも進化させようとしている。道路、信号といったもののアップデートとスマート化に力を入れてきた。車両自体の交通安全技術、人の意識、交通インフラの整備という3つの基盤を着実に前に進めてきたのである。そして、思えばこの3つはすべて自動運転技術に直結する。
■先端技術が「交差点に立つおまわりさん」になる
会議のなかでトヨタの副社長、チーフ・テクノロジー・オフィサーの中嶋裕樹が上記3つの基盤を元にしたトヨタのITSシステムについて話をした。
ITS(Intelligent Transport Systems)とは車両同士、もしくは道路インフラと車両が通信し、交通情報や周辺車両の情報を受信し、安全運転を支援するシステムだ。見通しの悪い交差点では車両自体のカメラやセンサーではとらえきれない対象がある。
その場合、ITSシステムがリアルタイムで周囲状況を取得し、車両のドライバーに知らせる。
中嶋は「トヨタのITSは確実に進歩している」と語り、次々と例を挙げた。
これまでITS車載器は車両だけのものだったが、中嶋は自転車、歩行者も携帯できる小型機の開発に言及した。自転車、歩行者が小型機を持っていれば、あるいはスマホアプリに入れていれば、見通しの悪い交差点などで「出会いがしらの衝突」といった事故に遭わないで済むようになる。信号機も大きく変わる。それが「ITSスマートポール」だ。カメラ、センサー、通信機器、LED表示板などを搭載した多機能型で、今は実証実験の最中だ。ITSスマートポールが車両、自転車、歩行者をウォッチしている。つまり、ITSスマートポールは交差点に立つおまわりさんと言っていい。人間のおまわりさんのように、周囲の状況に気を配り、ドライバー、自転車、歩行者に注意をうながす。
自動運転技術と言えばこれまでは車に載せた機器と通信システムが主役だった。だが、トヨタはそれに加えて街灯柱・電柱という、どこの地域にもある交通インフラをスマート化することで交通安全の体制を強化しようとしている。
ここでわざわざ「街頭柱」という聞き慣れない言葉を使ったのは現在、電柱をやめて道路に電線、通信線を埋伏することが進んでいる。そして、道路から電柱が消えても街頭柱は残る。ITSスマートポールは無電柱化が進んだ後は街頭柱につけるわけだ。
■2000万台が見つける「事故が起きそうな場所」
ITSシステムとともにトヨタが進化させてきた交通インフラがコネクティッド・カーのデータだ。トヨタはすでに世界で2000万台以上のコネクティッド・カーを走らせている。時々刻々と入ってくるデータは安全運転支援、自動運転の基盤となる。
これまで、道路の危険個所とは交通事故があった場所のことだった。だが、コネクティッド・カーでは車両の急発進、急加速、急ブレーキの各データを取得できる。多くの車が急ブレーキを踏んだ箇所、急発進、急加速した箇所を「事故が起きてもおかしくない場所」として認識することが可能になった。コネクティッド・カーのデータは「事故が起きそうな場所」を特定することに使えるのである。
実際に大分市ではトヨタ、トヨタ販売店、あいおいニッセイ同和損保、JAF、立命館アジア太平洋大学、地元自治体などが一緒になってコネクティッド・カーのデータから交通事故が起きそうな場所のマップを作り、それを配布して交通安全につなげている。
自動運転は自動車メーカーだけで実用化できる技術ではない。
メーカー、人、交通インフラが一緒にならなければ実現しない。協同意識、チーム意識が重要なのである。
個を捨ててチームになることに長けた日本人の協同意識は交通安全、ひいては自動運転に役立つ。加えて日本人は交通事故を減らしてきたという事実がある。
■世界的に見て日本の交通事故死は少ない
現在、世界中の自動車会社が自動運転に取り組んでいる。自動運転技術を開発する際、忘れてはならないのが、その国の交通インフラであり、かつ、交通安全事情だ。そこで、世界の国の交通事故死者数を見てみる。
世界的に見ると、日本の交通事故死は少ない。そして、交通事故を毎年、減らしているとわかる。
国際道路交通事故データベース(IRTAD International Road Traffic and Accident Database)がデータを有する35カ国について、人口10万人当たりの交通事故死者数を比較した表がある。(※令和7年交通安全白書より「海外の交通事故発生状況(2023年)」内閣府)
日本は10万人当たりの交通事故死者数が2.6人であり、少ないほうから5番目だ。いちばん少ない国はノルウェー(2.0人)、もっとも多いのがコスタリカ(17.0人)で、アメリカ(12.2人)も多い。
解説文には「長期的な推移に着目すると、2014年から2023年にかけて、アメリカは増加傾向にあるが、他国は減少傾向にある」(同白書)。日本はこれまで毎年、交通事故死者数を減らしている。
中国はIRTADに参加していない。10万人当たりの年間死者数は中国の公安部(MPS Ministry of Public Security)が発表した数字が約4.3人(全体6万2218人 2021年)。そして、より正確とされるWHO(Global status report on road safety 2023)が推計した数字では17.4人(全体24万8099人)で、コスタリカよりも多い。公安部とWHOの数字が異なっているのは死亡定義などが違うからだ。公式発表の定義は事故後7日以内、WHOは事故後30日以内としている。
■EV論争で誰も語らない“日本の強み”
繰り返しになるが、日本は人口規模の割に交通事故死者数が少ない国であり、かつ、交通事故死者数を減らしてきた。これまでに蓄積されたデータは自動運転技術の開発に役に立つ。交通事故死者数が少ないこと、事故を減らしてきた人の意識と交通インフラの進化、そこから生まれた数々のデータは日本の自動車産業にとっては大きな価値を持っている。日本が今後も交通事故を減らしていったとする。その方法、そのデータは安全運転支援と自動運転の技術に活用できる。世界のどの国よりも実績を挙げたデータを持っているのだから。
車両技術と通信技術の他に、日本は人の交通安全意識と進んだ交通インフラ、コネクティッド・カーのデータがある。自動運転技術の開発では日本はまったく負けていない。それどころか優位な立場にいる。
マスメディア、自動車関係者はEV化とバッテリー性能、そして、車両と通信の自動運転技術については語るけれど、日本人の交通安全意識と交通インフラについては、ほぼ触れたことはない。だが、後者ふたつは自動運転社会に欠くことのできない要素だ。
■他社は「クルマをスマホに」、トヨタは「事故ゼロに」
今年のタテシナ会議の後、記者会見したのはトヨタの社長、近健太だった。近社長は就任会見の時からSDVについて触れている。
そして、トヨタのSDVとは次のようなことだ。トヨタの目的は「悲しい交通事故をゼロにすること」であり、SDVそれ自体は「クルマを“買った時のまま”ではなく、機能を継続的にアップデートしたり追加したりすることで、スマホに好きなアプリを入れるみたいに、一人ひとりの好みに合わせた進化が可能」になることだ(トヨタイムズから)
SDVについては他の自動車会社の場合は車内エンタテイメントの充実、ドライバーのコミュニケーション体験の深化といった方向だ。つまり、クルマをスマホにしてしまおうといった姿勢である。
だが、トヨタは社長の近健太が明言したように「交通事故ゼロ」のためにソフトウェアの可能性を追求する。ここに持てる力を結集している。トヨタのSDV、自動運転技術とはあくまでも交通安全のためのそれだ。
■「EVに遅れている」と叩かれても
かつて、EUを始め世界の自動車会社は「これからはEVだ」とバッテリーEVの増産に走った。エンジンをやめてすべての車両をEVにすると発表したメーカーもあった。
一方、トヨタの会長、豊田章男は「お客さまの欲しい車を造る」とだけ言った。そうして「トヨタはEV化に遅れている」と叩かれた。
世界の自動車会社、特にEV専業の会社は今もなおEV量産、バッテリー性能向上こそが未来への道だと考えている。だが、トヨタは「お客さま本位」が未来を決めると信じた。EVに背を向けたのではなく、交通事故ゼロという一点を見据えていた。交通事故ゼロはお客さまのためであり、ひるがえって自動運転に通じるからだ。他社が設定した「土俵」には上らず、自分が信じる土俵で戦う。それはトヨタのやり方であり、トヨタらしさなのだろう。
現在も世界の自動車会社はEV化を進めている。バッテリー性能の向上に持てる力を注いでいる。トヨタだってハイブリッドを含めたEV化を進めている。燃料電池車を出し、水素エンジンも開発している。しかし、トヨタは交通安全基盤の開発と整備を優先して進めている。
■近社長が語った「豊田章一郎氏の姿」
近健太は記者会見に臨む前、タテシナ会議の終わりの挨拶をした。そこで彼は豊田章男が2019年に述べた言葉を引用した。
「私は今日、参加させていただきました。56年間、毎年7月17日・1日の万灯会および大祭法要が続いていること、タテシナ会議のような枠組みで、トップのみなさまが交通事故撲滅に向けて議論している場があること、どちらも決して当たり前のものではないと思っています。
思えば豊田章一郎名誉会長は毎年、この時期に蓼科にお越しになっていました。お年を召していても、毎年のように来られています。
私は当時、豊田章男会長(当時社長)の秘書としてここに来ていましたが、名誉会長と会長が並んで祈る姿は、私にとって非常に強い記憶として残っています。
今日は聖光寺責任役員の豊田章男が欠席しております。そこで私は(豊田が)6年前に述べた言葉の一節をご紹介させていただければと思います。読み上げます。
■「この50年、願い続けてきた」
『私たちはこの50年、毎年欠かすことなく、ここ聖光寺において、交通事故による悲しみがなくなるよう願い続けてまいりました。創建当時には願うだけでは事故はなくならないと言われたこともあったというふうに聞いております。それでも私たちは願い続けてまいりました。精一杯の願いを込めた技術であり、車でなければ世の中に成すことなどできない。私はそう思っております。CASEと呼ばれる技術革新によって、車の概念そのものが大きく変わろうとしています。それでも変わらないものがあります。それは、私たちが本当に作りたいものは人々の幸せだということです。
これからも私たちは願い続けてまいります。この世界から悲しい事故がなくなるように、そしてもっと人々を幸せにする車を追求してまいります。
交通事故でお亡くなりになった方々のご冥福と、お怪我をされた方の早期回復をお祈りするとともに、引き続き交通事故ゼロを目指して力を合わせて精進することを誓います。お誓い申し上げ、私の挨拶とさせていただきます。豊田章男』」
■「夢想」したことは、必ず形にする
トヨタは「交通事故ゼロ」を言ってきた。
交通事故ゼロの実現について、おそらく日本人の9割以上は夢だと思っているだろう。だが、夢が形になることはある。かつて、トヨタの創業者、豊田喜一郎が「日本人の手で自動車をつくる」と言った時、日本人の99.9%は「そんなことは夢だ」と考えた。馬車、人力車が町のなかを走っていた時代、自動車を作ることは夢想で、自動車をつくると言った人は夢想家だった。しかし、豊田喜一郎は自動車を作り、今のトヨタを作った。彼は夢想家で終わらず、夢を形にした。
今後も、災害に関わる交通事故、意図的な交通事故、不可避の交通事故はなくなることはない。そうした交通事故の場合、死者が出ることは避けられないと思われる。
しかし……、町を走る車の過半が自動運転車になったとする。
人の交通安全意識が今よりもさらに向上したとする。
見通しの悪い交差点のすべてにITSスマートポールが設置されたとする。
そうすれば災害や不可避の事故以外では少なくとも交通事故死はなくなるのではないか。
豊田章男は交通事故ゼロを信じて訴えてきた。祖父の喜一郎と同様、彼もまた夢想家では終わらない。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)

ノンフィクション作家

1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。ビジネスインサイダーにて「一生に一度は見たい東京美術案内」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
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