戦前の昭和金融恐慌は何が引き金になったのか。歴史作家の河合敦さんは「銀行の経営不振が噂される中、昭和2年3月14日の国会で投げかけられた質問に対する答弁で、時の蔵相はトンデモ発言をしてしまった。
結果的にこの発言が、金融恐慌の誘発に加え、内閣の崩壊まで招くことになる」という――。
※本稿は、河合敦『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
■日本の空前の好景気から戦後恐慌へ
大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦では、日本は大戦景気と呼ぶ空前の好景気を迎えた。輸出が一気に伸びたのである。
ヨーロッパ諸国は主戦場となり、ヨーロッパ資本は中国などアジア市場から引き上げていった。その穴を埋めたのが日本企業であり、綿糸などを大量に中国などへ輸出した。
また、ヨーロッパ諸国は、日本からの軍事物資を膨大に買ってくれた。さらに日本同様、戦争景気にわくアメリカも、日本産の生糸を大量に購入したのである。
このように、アジア、ヨーロッパ、アメリカへの輸出を一気に拡大した日本だったが、大正7年(1918)に戦争が終わると、ヨーロッパは軍需品を必要としなくなり、アメリカの好景気も終息を迎えてしまった。
しかも、アジア市場に優良なヨーロッパ企業が戻ってきた。このため、日本の輸出量は縮小し、主力品の綿糸や生糸の値段は暴落、株価も大暴落してしまう。こうして大正9年(1920)に戦後恐慌が起こった。

このおり政府は、日本銀行を通じ、大企業に多額の救済融資をしたが、中小企業にまではなかなか手が回らず、多くは没落していった。
さらに不運なことに、大正12年(1923)に関東大震災が発生した。これにより首都圏は壊滅状態となって、総被害額は55億円以上にのぼり、震災恐慌が到来してしまう。
■2億円以上が未決済だった震災手形
そこで時の第2次山本権兵衛内閣は、支払い猶予令(モラトリアム令)を発して、債務の履行を30日間猶予する救済措置をとった。
さらに、震災手形割引損失補償令を出して、銀行の不良手形(震災手形)を日銀が再割引することにしたのである。日銀の損失については、1億円まで政府が補塡することに決めた。
ただ、再割引の条件が厳しかったこともあり、銀行が保持する震災(不良)手形は昭和元年(1926)末まで2億円以上が未決済だった。このため、各銀行は経営難に苦しんでいた。
そこで、時の若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣(憲政会を与党とする内閣)は、昭和2年(1927)3月3日、震災手形を処理しやすくする2つの法案を衆議院本会議に提出した。
しかし、野党の立憲政友会などが「この法案は税金を使って、一部の企業だけを救おうとするものだ」と強く反発、議会は大荒れとなった。その過程で、銀行の経営状況の悪さも明るみに出てしまう。
ただ、どうにか法案は翌4日に衆議院本会議で可決され、貴族院へ回付された。

■震災恐慌の中で飛び出たトンデモ発言
3月14日、衆議院の予算総会の場において、片岡直温蔵相は法案の説明をしていた。このさい、野党・立憲政友会の吉植庄一郎(よしうえしょういちろう)議員から「銀行が破綻した場合に、政府はいかなる手段を取るのか」という質問を投げかけられた。
自伝で片岡は「極めて抽象的なる質問を試み、得意の毒舌を振ふて、毫(ごう)も(少しも)仮借(かしゃく)するところがなかった」(片岡直温著『大正昭和政治史の一断面 続回想録』西川百子居文庫)と立腹しているが、質問内容を読んでもあまり違和感は覚えない。
ただ、片岡にとっては、攻撃的に聞こえたのかもしれない。それで動揺したのか、この質問に対する答弁で、片岡直温蔵相は、信じられない言葉を発した。「今日の正午頃、とうとう東京渡辺銀行が破綻しました」と言ったのだ。
銀行の経営が危ないと噂されているさなか、なんでそれを言うのか、もうちょっと訳がわからない。思わず焦ったのだろうか。
高知県出身の片岡は、小学校の教員から滋賀県警察部長を経て、内務省に入るという異色の経歴の持主。政府を下野した後は、日本生命保険会社や都ホテルの社長として実業界で力をふるうとともに、政治家としても活躍、第2次加藤高明(かとうたかあき)内閣の商工大臣を経て若槻内閣の大蔵大臣に就いた。
それまでは政治家として、とくに瑕疵はなかった。だからこそ、意外な言動といえた。

■休業する銀行が続出して金融恐慌に発展
じつは失言の数時間前、東京渡辺銀行の重役が大蔵省に来ていた。
重役は、決済ができなくなって破綻に瀕している事実を報告し、あわせて大蔵省に支援を求めたのである。
だが、折り合いがつかず、大蔵省は力添えをしなかった。しかも東京渡辺銀行の状況は、大臣の片岡にそのまま報告された。だからこそ、ポロリと口からこぼれてしまったわけだ。
しかしその後、東京渡辺銀行は、必死の努力によって持ち直し、営業を再開していた。それなのに片岡がこんな発言をしたことで、本当に休業に追い込まれることになった。
発言の意図について片岡本人は、自伝の中で、「予算委員会でこの発言をしたのは午後4時すぎで、すでに銀行の業務は終了していたので問題はなかった」と主張し、さらに、銀行を「監督を致して居る者が、其の監督を受けて居る者よりして、届け出でました時に、之を公に致すと云ふことに於いて何等不都合はない」(以上、前掲書)と断言している。
いずれにせよ、この発言はその夜には噂として広がり、翌朝、新聞に大きく掲載されてしまう。
結果、人びとを動揺させ、「銀行が潰れる前に預金を引き出そう」と、大勢が銀行の窓口に殺到する事態になった。
この取り付け騒ぎにより、東京渡辺銀行を含め、6行が休業を余儀なくされた。これが、いわゆる金融恐慌である。

■内閣を崩壊させ外交政策まで変えてしまった
騒動をつくった片岡の言動は、衆議院でも大問題となり、3月19日、小川平吉ら13名の議員たちが「現に営業中の銀行に対し、已に破綻せりとの宣言を為し、依て財界の動揺を惹起したるは、極めて重大なる失態なり」と問責決議案を提出した。同案は反対多数で否決されたものの、騒動はこれで終わらなかった。
翌4月、破綻した巨大商社の鈴木商店に対し、膨大な金を貸していた台湾銀行の経営状態が危うくなり、とうとう休業に追い込まれてしまう。
すると、再び取り付け騒ぎが始まり、それが前回以上に拡大し、今度はなんと37行が休業状態になってしまった。
そこで若槻内閣は、緊急勅令による台湾銀行の救済を昭和天皇に求めた。ところが、昭和天皇はこれを拒絶する。
といっても、実際に反対したのは枢密院(すうみついん)であった。枢密院は、天皇の諮問(諮詢(しじゅん))機関で、天皇が緊急勅令の可否を問うたところ、枢密院が拒んだので、天皇は許可しなかったのである。
枢密院は、保守的な閥族(ばつぞく)の牙城であった。だから、若槻内閣が中国に対して協調外交を展開していることが面白くなく、倒閣を企図して緊急勅令を認めなかったのだ。この結果、若槻内閣は事態を収拾できなくなり、総辞職してしまった。
そう、片岡の失言が、金融恐慌の誘発に加え、内閣の崩壊まで招いたのである。

■高橋是清が短期間で恐慌を鎮めた
かわって組閣したのが、立憲政友会総裁の田中義一(たなかぎいち)であった。つまり政権は、憲政会から野党の立憲政友会へと交代することになったわけだ。
田中は、財政や金融に詳しい高橋是清(たかはしこれきよ)元首相を蔵相に任じ、金融恐慌の沈静化にあたらせた。高橋は、支払い猶予令と日銀非常貸出を実施し、短期間で恐慌を鎮めることに成功した。
この立憲政友会内閣は、緊縮財政を展開した憲政会と正反対に積極財政を進め、さらに外交においても協調外交から対中国強硬外交へ転じた。
このように、たった一言の失言が、経済界の混乱と政権交代をもたらし、日本の経済・外交政策を変えてしまうという、思わぬ変動をもたらしたのである。

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河合 敦(かわい・あつし)

歴史作家

1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。
著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)
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