スーパーに並ぶ納豆には、3パック100円程度の安価な商品もある。ところが、鎌倉の「鎌倉山納豆」には、2パック646円の高価格帯の商品もあるのに、冬の朝市には東京から5時起きで訪れる客が並ぶ。
廃業を考えるほど経営が厳しかった約40年前、代表の野呂剛弘さん(72)が掲げた目標は、「百貨店で売れる納豆」だった。安売り競争から降りた小さな納豆店は、いかにして生き残ることができたのか。ライターの西谷渉さんが取材した――。
■2パック646円でも、朝から行列
日曜日の朝8時。江ノ電に揺られて、海を眺めながら腰越駅に降り立った。海に背を向け、大船方面に向かってしばらく住宅街を歩くと、老舗の手づくり納豆専門店「鎌倉山納豆」の本店前には、すでに行列ができていた。
お目当ては、2022年に全国納豆鑑評会で最優秀賞(農林水産大臣賞)に選ばれた「鎌倉小粒」だ。5個、10個、それ以上を手にする人の姿もあった。「5時起きして、東京から車で来ました」と話す女性は、うれしそうに納豆のパックを袋に詰めていた。
この納豆を手がける野呂食品は、毎年11~3月の冬季限定で月末の日曜日に“納豆の朝市”を開催している。同社の商品を、通常よりもお手頃に買うことができる。代表の野呂剛弘さん(72)が自ら店に立ち、20年間続けてきた恒例行事だ。

3パックで100円を切る商品が出回る時代に、鎌倉山納豆の商品は、安いもので2パック189円(税込み、以下同)。丹波黒種の黒豆納豆は、40g×2パック646円と、納豆としては高価格帯だ。それでも、早朝から人が並ぶ。
なぜこの“高級納豆”を求めて、多くの人が早朝から行列をつくるのだろうか。
■「納豆屋の息子」が嫌だった
野呂食品の創業は1955年。野呂さんの祖父が東京で営んでいた納豆屋の暖簾分けとして、父が鎌倉で納豆づくりを始めたのは、野呂さんが2歳の頃だった。
「やーい、納豆屋」
友人によくからかわれ、小学生の野呂さんは、「納豆屋の息子」であることをあまり嬉しく思っていなかった。
「なんで、うちの両親は、納豆屋なんて変わった商売をやっているんだろう」
子ども時代の記憶に残っているのは、父がいつも険しい表情で、忙しそうに働く姿だった。当時は練炭や七輪を使い、人の手で温度管理をしていた。納豆の発酵に適した40度前後を保つため、3時間に1回ほど発酵室に入り、納豆棚の差し替えをしなくてはならない。一酸化炭素中毒で命を落とす職人もいたという。
「親父は、思いっきり息を吸い込んで、発酵室のなかに入って、納豆の棚を差し替えて、しばらくすると出てきて、『はぁ、はぁ』と息を荒くしていました。
暑いので、夏は汗びっしょり。本当に大変そうでした」
母も父を支え、朝から夜まで納豆づくりの現場で働いた。そんな両親の姿を見て育った野呂さんは、物心がついた頃には、「後を継ぎたい」とは思わなかった。
それでも、父親のつくる納豆のおいしさだけは、たしかに心に刻まれていた。
■父と向き合った28歳の決断
野呂さんが目指したのは、意外にもミュージシャンだった。
きっかけは10歳のとき、叔父からギターをおそわったことだ。「お前、筋がいいぞ」と褒められたのがうれしく、ビートルズやベンチャーズからレッド・ツェッペリンへとのめり込んでいく。仲間とバンドを組み、学校の文化祭で演奏するようになると、いつしかプロを夢見るようになった。
大学卒業後もバンド活動を続け、解散後はソロに転じた。家業を継ぐつもりもなければ、一般企業に就職する気もない。20代はライブハウスのマネージャーをして生計を立てながら、音楽制作をしていた。
音楽の道で食べていきたいと語る息子に、父はつねに厳しかった。
「あきらめろ」の一言に感情を抑えきれず、殴り合いになった日もあった。
転機が訪れたのは1981年。28歳のとき。母が病気で倒れたことをきっかけに、普段は口をほとんど利かなかった父と向き合った。当時、ライブハウスの仕事に行き詰まり、プロへの道に限界を感じ始めていた野呂さんは、将来への悩みを率直に打ち明けた。
すると父は意外にも穏やかな口調でこう答えた。
「その日の父は、思いのほかやさしく話を聞いてくれました。『いつまでも夢見ていられる年じゃない。自分で考えて、結論を出したら話しに来い』と。すでに結婚して長男も生まれていたので、妻とも相談して最終的に納豆屋になることを決めました」
■「百貨店で売れる納豆」をつくる
夜の仕事から、昼間の堅気の世界へ。
家業に入ることを決意しても、音楽への未練がすぐに消えたわけではない。
「未練はずっとありました。
休日に楽曲制作をしようと企んでいたのですが、とても音楽をする時間がなかったんです」と苦笑する。
野呂さんは営業の手伝いから始めた。職人としての腕と質へのこだわりを持つ父とは、方向性の違いでぶつかることもあったが、率直に意見を交わした。この「対話」の姿勢は、その後の野呂さんの経営を支える一本の軸になっていく。
当時、父が廃業を考えるほど、店の経営は厳しかった。野呂さんが最初に変えようと考えたのが、価格で競わない商品づくりだった。
「安い納豆をいくら売っても、うちの規模では儲からない。だから高質な納豆を目指そうと思ったんです。実際につくれる技術はありましたから」
1980年代はスーパーの流通が伸び、大手メーカーが大量生産・大量販売を進めていた。小さな納豆会社が同じ土俵で戦えば、設備投資でも価格でも勝てない。野呂さんが活路を見いだしたのは、祖父から受け継ぎ、父が磨き続けてきた納豆づくりの知識と経験だった。
目標にしたのは「百貨店で売れる納豆」だ。
当時、納豆が百貨店に並ぶこと自体が珍しく、贈答品になるなど考えにくい時代だった。
そこで、自社ブランドを立ち上げ、職人の技術を前面に出した納豆づくりへ舵を切った。1983年、「鎌倉山納豆」が誕生した。
目指したのは、ただの値段の高い納豆ではない。国産大豆を厳選して豆本来の甘みを引き出し、透明で力強い糸引きと、嫌な匂いや雑味の少ない味わいを追求した。父は当初、ブランド化に半信半疑だったが、最後は野呂さんの考えを受け入れ、後押しした。
「うちの納豆なら、必ず勝負できる」
子どもの頃から父の納豆を食べ続け、その味を知り尽くしていた野呂さんには、確かな自信があった。
■「最高の商品です」と高島屋に売り込んだ
とはいえ厳しい経営状況のなか、高級路線への転換に使えるお金はほとんどなかった。野呂さんにできたのは、知恵を絞り、商品の価値を伝えようと、百貨店に何度も足を運ぶことだった。
そのなかで、「鎌倉山納豆」に最初に関心を持ったのが高島屋だった。横浜・港南台への出店にあたり、バイヤーが地元の食材を扱う企業と面会する機会を設けた。
野呂さんは、昔ながらの経木に包まれた看板商品「手づくり小粒」を持参し、担当者にその場で食べてもらった。
そして、豆の味、匂い、糸の味、糸引きの強さ、豆の硬さについて、一つひとつの感想を聞いた。
「とにかく召し上がってください。この納豆が、わたしたちにつくれる最高の商品です。百貨店で売れる最高レベルの手づくり納豆です。お気に召していただけたら、いつでもお声がけください」
反応は上々で、そのまま取引開始の話が進んでいった。
高島屋で反響を得ると、横浜、日本橋、玉川の店舗で催事出店が続いた。1987年には、売り場の大幅なリニューアルを進めていた日本橋高島屋から、常設のオファーが届く。当初の目標だった贈答品としての取り扱いも実現し、高島屋への出店は約13年間続いた。
「高島屋への出店で得たものは、本当に大きかったですね。販売のノウハウや、お客様との接し方、包装紙の包み方まで教わりました。その経験が全部、自分たちの財産になったのです。だから次は、自分たちの店を出したいと思いました」
百貨店での販売を続ける一方、野呂さんは父と何度も話し合った。経営に対する考え方でぶつかり、互いの判断を理解できないこともあった。それでも野呂さんは、「自分を経営者にしてほしい」と率直に伝え続けた。
「父も、早く社長の座を譲りたいという気持ちだったようです」
1997年、野呂さんは42歳で代表に就任した。高島屋で培った経験を胸に、自らの経営を始めた。
■「手伝う人」から「会社を支える仲間」へ
代表に就任した野呂さんが、まず向き合ったのは、会社としての基盤を固めることだった。
「ちゃんと役に立って、働いてくれる人を大事にしなきゃ、と思いました」
それまでは家族経営で、従業員がいても“手伝ってくれる人”という感覚だった。しかし、代表になったことで、会社を支える仲間として社員と向き合おうと考えた。
職人気質だった父の時代には、社員の声を聞くという発想がなかった。だからこそ野呂さんは、何でも言い合える会社をつくろうとした。社員に積極的に相談し、周囲を巻き込むうちに、会社の雰囲気は少しずつ変わり、笑顔も増えていった。
今では社員は社長を相手にしても遠慮しない。問題に気づけば率直に伝え、改善策も提案する。父の頃から働く社員は、家族のような存在になった。
「『そんなに正直に言う?』というくらい、何でも話してくれます。僕にものを言いにくいやつは、世界中にいないと思うよ」と笑う。
「経営者と社員は、まったく逆の立場。そういう人たちが、ひとつのコンセンサスで固まれるのが、仕事の面白さのように思います」
社員との対話を重ねながら、野呂さんは家族経営の「納豆屋」を、少しずつ一つの会社へと変えていった。
■11坪の店で、1日200万円を売った
百貨店での販売を続けながら、代表就任翌年の1998年、野呂さんは新たな挑戦に踏み出した。鎌倉を代表する観光地・小町通りに、腰越本店に次ぐ納豆専門店を開いたのだ。
わずか11坪の店には、連日のように国内外から訪れた観光客が押し寄せた。
とはいえ、“高級”といっても、納豆である。主力商品は1個あたり300円前後で、3個入りのセット商品が1000円、高くても1500円ほどだった。それでも飛ぶように売れ、最高で1日200万円近い売り上げを記録した。
「家賃は高かったけれど、びっくりするほど売れたんです。いい波に乗っちゃって、バカみたいに売れて。正直、自分もちょっと調子に乗っていた部分がありました。あの頃、『商売ってこんなに簡単なんだ』って思っちゃったんだからね」
しかし、現実はそう甘くはなかった。開店してから、3年~5年目をピークに、売り上げはゆるやかに落ちていった。夏場は人が海に流れ、冬になると再び客足が戻る。そのサイクルを繰り返すうちに、年間の利益は少しずつ減っていった。
■「絶対、いやだ。俺の夢だったんだよ」
売り上げが落ち、このまま店を続けるのは難しい。野呂さんも、薄々は気づいていた。
それでも小町店は、百貨店で学んだことを形にした念願の店であり、一度は大きな成功を見せてくれた“夢の店”だった。どうしても手放したくなかった。
開店から17年目を迎えた頃、家業に関わり始めていた息子が言った。
「僕の分析の結果をはっきり言わせてもらうと、申し訳ないけれど、親父が安心して年の瀬を迎えられることを一番重要に考えた場合、小町店はやめた方がいい」

「絶対、いやだ。俺の夢だったんだよ!」
思わず本音がこぼれた。それでも息子と何度も話し合い、野呂さんは小町店を閉める決断をした。2015年のことだった。
■3パック48円でも、値下げはしなかった
小町店を閉じた後も、苦しい時期は続いた。デフレの影響で納豆の価格競争はさらに激化し、3パック100円以下の安価なイメージが定着。コロナ禍の後には、3パック48円の商品までが出回るようになった。
一方、鎌倉山納豆は、最も手ごろな商品でも当時は2パックで170円。スーパーの売り場に並べば、価格差は歴然だった。2021年から2022年にかけて売り上げは低迷し、前年対比で30%以上落ち込んだ月もあった。
「こだわりの強い商品が、あまり世間から求められない時期がありました。納豆の価格帯がすごく落ちちゃって、その全盛の頃は本当にきつかったです」
それでも、野呂さんは値下げを選ばなかった。代わりに取り組んだのが、自社商品の強みを見つめ直し、他社との違いを言葉にして伝えることだった。
「ずっとやり続けてきたことは、(鎌倉山納豆の商品が)どこかの会社の何かでお役に立てないかと考え、いろんな人に会いに行って話をすることでした」
商品の価値に共感し、定価で扱ってくれる取引先を探して、一社一社を訪ねた。
「時代の流れに耐えるしかない。でも、そういうときこそ、自分の会社の良いところをもっと引き出し、伸ばすことを考える。そのとき滑稽に思えても、後になって『あのとき動いてよかった』と思うことは必ずあります」
地道な働きかけが実り、特売ではなく、定価で鎌倉山納豆の商品を並べ続けるスーパーも現れた。
■「僕にできる商売は、これしかない」
人に会い、商品の価値を伝え続けることができたのは、野呂さんに、自分たちの納豆の味への揺るぎない自信があったからだ。
「きついときに、『経営者なんて辞めたい』と思ったこともありますよ。だけど、僕にできる商売は、これしかないと思ってね」
野呂さんにとって、納豆はただ長く扱ってきた商品ではない。幼い頃から父のつくる納豆を食べ、自らも製造現場に立ち続けてきた。どんな豆を選び、どう発酵させればおいしくなるかを、自分の舌で判断できる。
「いきなり僕が日本酒を飲んで『うまい』と言っても、周りの人が信用して買ってくれるわけではない。でも納豆だったら、自分が本当にいいものを見極められるし、周りも信用してくれる。納豆をつくり続けることで、まだまだ自分のなかで光が見えていたんだね」
値下げはしなかった。代わりに、人に会い、商品の価値を語ることに徹した。本当においしい納豆をつくっている、という強い信念と、自信が、野呂さんを動かし続けた。
■値下げしない品質の正体
古都・鎌倉の街並みを描いたパッケージに、「最優秀賞受賞」の文字が躍る「鎌倉小粒」。2022年の全国納豆鑑評会で日本一に選ばれた、野呂食品の自信作だ。
器に移してかき混ぜてみると、まず驚くのが糸引きの強さだった。粘りが強いのに糸には透明感がある。添付のタレを加えて、軽く和え、炊きたてのごはんにかける。味には、納豆特有の渋みや臭みは少なく、豆の旨みがしっかりと感じられた。口の中に重く残らず、まろやかな味わいだ。
鎌倉山納豆の品質を支えているのが、大豆と水、空気、そして、熟練の職人による品質管理だ。大豆は、納豆づくりに適した国産中心のものを職人が選ぶ。
「プリッとまん丸に近くて、水をよく吸い込んでくれる豆がいいですね。蒸した時に皮が柔らかすぎず、とは言え硬くないものを選んでいます」
大豆から納豆に仕上がるまでには3日間かかる。豆を洗って水に浸し、蒸した大豆に納豆菌をかけて発酵させる。最後に職人が味や糸引きを確認し、合格したものだけを出荷する。
■発酵室では、職人が「パズル」を解く
納豆の味を決める要となるのが、発酵の工程だ。
鎌倉山納豆では、一つの発酵室で複数の種類の納豆を同時につくっている。そのため、機械を導入した現在も、温度や時間の管理にはいまも職人の経験が欠かせない。
「たとえば、発酵を始める温度や時間に差をつけながら、3種類ともが商品として良品になるために、頭のなかでパズルのように組み立てるんです」
納豆菌が最も活発になるのは38~41度前後だという。しかし、決められた温度を守るだけではない。
「一度32、33度まで下げてから上げたら、どんな変化が起きるかと実験することもあります。常識にとらわれないで、自分で確認しながら、自分の常識を確立していく。それを今でもやり続けています」
機械化によって製造量は増えたが、毎朝6時には職人が集まり、人の舌で味を確かめる。野呂さん自身も製造現場に立つ。
「豆は生き物ですから、この品種ならこの温度、という方程式はあり得ないんですよ」
同じ品種でも、その年の天候や栽培状況によって状態は変わる。前日の出来を確かめながら、毎日温度を微調整する。その積み重ねによって、初めて一定の品質を保つことができる。
「やっぱり技術っていうのは、お金に変えられない。ポロッと教えるもんじゃないですよね。うちのひきわり納豆や、納豆のつくり方全般、よそにはあまりないやり方なんじゃないかな」
■父から受け継いだ、経木納豆
数ある商品のなかでも、野呂さんが特に思い入れをもつのが「手づくり小粒」。
茨城県産の極小粒大豆を使い、経木で包んだ昔ながらの納豆だ。一つひとつ手作業で包むため手間がかかり、現在ではほとんど見かけなくなった。それでも、野呂さんには外せない理由がある。
「経木が水分を吸ってくれるので、納豆が水っぽくならず、蒸発がうまくできます。木を一枚入れるだけで、納豆の味が濃くなったような、全体にしまった食感になるのです」
そして、こう続けた。
「父がつくった納豆の原点。これは、どうしても外せません」
■安売りしなかった納豆が、世界へ
品質にこだわり続けたことで、新たな活路も開けた。海外展開だ。
きっかけは2015年、中国・大連の企業から取引を持ちかけられたことだった。2017年には初めて海外の展示会に出展し、香港の「シティスーパー」との商談が成立した。数ある日本のメーカーのなかから鎌倉山納豆が選ばれた理由は、商品の品質、何よりその「おいしさ」だったという。
「香港ではすごく評判がよかったです。日本と同じ包装で売れるのも、やりやすくて」
コロナ禍以降は、世界的な健康志向の高まりや日本食ブームも追い風となった。取引先は少しずつ増え、2026年現在、中国、香港、台湾、シンガポール、アメリカ、イギリスの6カ国・地域へ輸出している。海外売上は全体の約5%を占めるまでになった。
国によって食品規制が異なり、賞味期限の短い納豆を輸出する難しさもある。それでも同社は、海外売上を10%まで伸ばすことを目標にしている。
■40年の品質が「日本一」に
海外で評価されたのも、安さではなく、長年守ってきた品質だった。その歩みは2022年、一つの大きな結果となって表れた。
全国納豆鑑評会で、同社の商品「鎌倉小粒」が最優秀賞の農林水産大臣賞に選ばれた。鎌倉山納豆は、ついに「日本一の納豆」に認められた。
全国納豆鑑評会は、全国から約100社が出品する納豆業界最大級の審査会だ。研究者や文化人、省庁関係者など約30人の審査員が、ブランド名を伏せた状態で試食し、見た目や香り、粘り、味わいなどを評価する。まさに「納豆のワールドカップ」とも言える一大イベントだ。
鎌倉山納豆は、過去にも特別賞や優秀賞を受賞してきたが、最優秀賞はこのときが初めてだった。
受賞した「鎌倉小粒」は、国産大豆を100%使った小粒納豆で、力強い粘りと糸引き、雑味のない味わいが特徴だ。長年培ってきた製造技術の集大成ともいえる商品だった。
安さを競うのではなく、自分たちの技術を磨き、その価値を守り続けてきた。その40年の積み重ねが「日本一」という形で実を結んだのだ。
■対話が生んだ縁
野呂さんは、会社の代表を30年務める一方、全国納豆協同組合連合会でも役職を歴任し、2013年から12年間は、会長として納豆業界を牽引してきた。
長年大切にしてきたのは、相手とよく話し、本音を出し合うことだった。
「みんなでとにかく気心が知れるまで、よく話をする。それから本音を言い合って、どうするのが一番いいかを決めたら、そっちへ向かってみんなで協力していく。そういう道筋を立てて、先頭で旗を振っているような役割が多かったと思います」
一人ですべてを決めたほうが早いかもしれない。それでも野呂さんは、周囲の声に耳を傾け、互いの考えを理解するまで話し合う方法を選んできた。そうして築いた仲間との関係は、ときに仕事の枠を越えた。
全国納豆協同組合連合会の青年部で知り合った、兵庫県姫路市の納豆業者も、そうした仲間の一人だった。その男性は、阪神・淡路大震災で家と工場を失い、苦労の末に事業を再建した経験を持っていた。
東日本大震災が起きた後、その仲間が言った。
「納豆を袋に入れて配って、『がんばりや』って言われるだけでもうれしいんだ。だから今度は、俺たちが東北へ行かなきゃいけない」
その言葉に背中を押され、青年部の仲間7人で東北へ向かい、納豆を配った。
「自分が経験したことを、今度は人に返そうとする。気持ちがいいですよね。いいことを思いつくなと思いました」
野呂さんが大切にしてきた「対話」は、言葉を交わすことだけではない。人との縁を育み、相手の思いを受け取り、行動へとつなげていくことでもあった。
そうした長年の功績が評価され、野呂さんは2025年秋、旭日小綬章を受章した。野呂さん個人だけでなく、納豆業界にとっても大きな栄誉となった。
■20年続く朝市に感じる「愛」
その野呂さんが、いまも大切にしているのが、20年間続けてきた“納豆の朝市”である。
日曜日、朝市に立つのは、野呂さんと息子と、手伝いのスタッフ一人だけ。スーパーでは値引きをしない鎌倉山納豆の商品を、この朝市では特別価格で販売する。職人の技で丁寧につくった納豆を、社長自ら店頭に立って販売し、その分を客に還元する。それもまた、野呂さんらしい商売の形なのだろう。
朝市を始めた当初、野呂さんが町を歩き、チラシを配ったという。
「この辺で、納豆屋をやっています。鎌倉山納豆です。朝市をやるので、よかったら来てください」
すれ違う人たちに声をかけながら、一枚ずつチラシを手渡していった。
「愛を感じているんだよ、この朝市にね」
早朝から続く行列の先にあったのは、納豆への愛情と、人とのつながりを大切に育んできた、野呂さんの歩みだった。

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西谷 渉(にしたに・あゆみ)

ライター

1986年、東京都出身。早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業。Web制作会社などで企画・編集職を経験後、ライターとして独立。人物インタビューを中心に、暮らしやものづくり、グルメなどの分野で執筆。心を豊かにしてくれる旅が好き。鎌倉市在住。2児の母。

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(ライター 西谷 渉)
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