皇位が長きにわたって受け継がれてきた背景には、何があるのか。歴史作家の河合敦さんは「1242年、時の四条天皇は自ら仕掛けたいたずらにより12歳で亡くなった。
その後、朝廷は近親者に皇統を継ぐべき皇族がおらず、後継者選びに苦しむことになり、結果的にこれが皇統を分裂させることにつながる」という――。
※本稿は、河合敦『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
■白馬節会に四条天皇が出座しなかった理由
仁治3年(1242)正月7日、朝廷では白馬節会(あおうまのせちえ)がおこなわれた。毎年この日には、21頭の白馬(青馬)を紫宸殿(ししんでん)の前庭にひき出し、天皇がその毛並みなどを見た後、宴会がおこなわれた。この儀式を白馬節会と呼ぶ。白馬を見ると、年中の邪気を払うことができるとされたからだ。
だが、この年の白馬節会に、時の四条天皇は出座しなかった。『百練抄(ひゃくれんしょう)』(古代から鎌倉中期までの公家の日記をもとにした歴史書。史料的な価値は高い)によると、「不予(不快)により出席しなかった」とある。
じつはその2日前、天皇は「渡殿ニ於テ顚倒アラセラル」(藤井譲治・吉岡眞之監修『天皇皇族実録59 四条天皇実録』ゆまに書房)と記されている。「顚倒」、つまり、渡り廊下(渡殿(わたどの))でひっくり返ったのである。
しかも四条天皇は、白馬節会から2日後の正月9日、この転倒がもとで亡くなってしまったのだ。
おそらく頭を強打したのが原因だろう。かわいそうに、天皇はまだ12歳の少年だった。数え年だから、満年齢でいえば10歳ぐらいであろう。
■渡り廊下に塗った粉で転倒
転んだのは偶然だったわけではない。鎌倉後期に成立した『五代帝王物語』には、次のように記されている。
「近習の人女房なとを倒ふして笑はせ給はんとて、弘御所に滑石の粉を板敷きに塗りをかれたりけるに、主上悪しくして御顚倒有けるを、御犬の立まはりまはり、如法に吠え参らせたりけるこそ、前表にて有りける。やがて御悩つかせ御座して、取りあへず御大事に及けり。併天魔の所為なり」(『群書類従』所収)少々難解な文章なので、わかりやすく意訳しよう。
「近習や宮廷の女房たちを転ばし、その姿を見て笑おうと、四条天皇は御所の渡り廊下にスベりやすい蠟石(ろうせき)の粉を塗ったところ、自分が誤ってスベって転んでしまった。これを見た犬が激しく吠えるので、倒れているところを発見され、運び込まれて床についたが、そのまま亡くなってしまった。まさに天魔の仕業(しわざ)のようだ」
四条天皇は、随分といたずら好きな少年だったようだ。ちょっと過酷な言い方になるが、ある意味、自業自得だったといえる。
ただ、まさか本人も、そんなことで死んでしまうとは夢にも思わなかったろう。
■転倒による死亡事故は祟りなのか
四条天皇の不運な死は、後鳥羽(ごとば)上皇の怨霊(おんりょう)の仕業だと貴族たちは考えた。
知られているように後鳥羽上皇は、承久(じょうきゅう)の乱で鎌倉幕府に敗れ、隠岐(おき)の島(島根県)に流された人物である。
乱から19年後の延応元年(1239)に60歳の生涯を閉じたが、興味深いことに後鳥羽自身、死んだら自分は怨霊化するのではないかと危惧していた。
そこで遺言に「私は法華経を信仰し、成仏しようと思っている。けれど、妄念(もうねん)のために怨霊となったなら、世の中に災いをもたらすことがあるかもしれぬ。だが、私が生前におこなった善行をよすがに、霊を供養してくれたなら、いったん怨霊と化しても必ず鎮(しず)まるだろう。
関白以下に対して、私が祟りをなすことはない。私が怨霊となって災いをもたらしているという者がいても、その言を取り上げてはならない」と記したのだ。
けれど後鳥羽死去の翌年、敵だった鎌倉幕府の重臣・三浦義村(みうらよしむら)が死に、さらに翌年、承久の乱で後鳥羽軍を撃破した北条時房(ほうじょうときふさ)が死ぬ。同年、幕府が信奉する鶴岡八幡宮の神宮寺が突如、倒壊。翌年には、鎌倉に大津波が襲った。

これらは、後鳥羽の怨霊の仕業だと噂された。だから後鳥羽の死から3年後に起きた四条天皇の事故死も、やはりその祟りだとされたのだ。
■四条天皇の後継者選びに難航
四条天皇の崩御(ほうぎょ)により、朝廷は後継者選びに苦しむことになる。四条には弟も叔父もなく、さらに近親者に皇統を継ぐべき皇族がいなかったのだ。
その原因は、やはり承久の乱である。この乱では、後鳥羽上皇だけでなく、その第一皇子の土御門(つちみかど)上皇、第三皇子の順徳上皇も処罰され、順徳の第一皇子でわずか4歳の仲恭天皇も廃されてしまった。
かわって皇位についたのは、守貞親王の第三子・茂仁王。のちの後堀河天皇である。後堀河天皇の父・守貞親王は、高倉天皇の第二皇子として生まれた。兄は平清盛の娘・建礼門院(平徳子)が産んだ安徳天皇であった。
そもそも、高倉天皇の母も清盛の義理の妹・平滋子だったから、そういった意味では、平氏系統に皇統が戻ったわけだ。ただ、守貞新王の母は建礼門院ではなく、従三位・藤原信隆の娘・殖子で、実弟が後鳥羽であった。

この時代、朝廷では院政が敷かれていたが、承久の乱で上皇(院)がすべて流罪となったので、極めて異例ながら、皇位についたことのない守貞親王が院政をしいた。
平氏滅亡後、守貞は出家して、持明院宮行助入道親王と称していたが、後高倉院として10歳の息子・後堀河天皇を奉じて朝廷の政治をとったのだ。
■後堀河の一粒種が絶え朝廷は大混乱
その後、後堀河も貞永元年(1232)に第一皇子の秀仁親王に譲位し、院政を開始したが、生まれながら病弱ゆえ、わずか2年後に23歳で亡くなってしまった。
秀仁親王は、2歳で即位して四条天皇となるが、4歳で父の後堀河が他界し、後堀河に弟や男児がいなかったため、高倉皇統で唯一の男系となった。なのに、あっけなく事故死。こうして、後堀河の一粒種が絶えたことで、朝廷は大混乱に陥った。
皇統の脆弱性を心配した貴族たちは、配流先で生きていた順徳上皇が都に戻れるよう、鎌倉幕府に打診した。
だが、3代執権の北条泰時は認めようとしなかった。
当時、皇位継承者としてふさわしいと考えられたのは、順徳天皇の皇子・忠成王と故・土御門上皇の第二皇子・邦仁王(岩蔵宮)であった。
朝廷の実力者で、四条天皇の外祖父である九条道家や西園寺公経は、順徳の子・忠成王を擁立しようと動き、同時に幕府に許可を求めるため鎌倉へ使者を派遣した。ところが、北条泰時はこれを認めず、邦仁王に皇位を継がせるように命じてきたのである。
■三日三晩考え抜いた泰時の決断
『五代帝王物語』によれば、四条天皇崩御の知らせを聞くと、酒宴していた泰時は黙って部屋に籠もり、三日三晩、思案に明け暮れ、最終的に邦仁王を即位させようと決意。
鶴岡八幡宮の神意も確認できたので、安達義景を使者に送った。
しかし、途中で義景は朝廷の使者と出会い、鎌倉に戻って「朝廷はすでに忠成王の即位の準備を進めている」と泰時に告げた。けれど泰時は「そんなことは関係ない」と再度、義景を上洛させ、強引に邦仁王を即位させたのだ。内心、貴族たちは大いに不満だったが、泰時の決めたことに逆らう力はなかった。
泰時が邦仁王を推したのは、その父・土御門上皇が承久の乱に関与していなかったからだ(先述のとおり処罰はされたが、これは土御門が父の後鳥羽に連座して、罪をつぐなうと自ら申し出たことによるもの)。逆に、積極的に与した順徳上皇の子・忠成王を天皇にするなど論外だった。
それに、このとき順徳は配流先の佐渡で生きており、万が一にも帰洛が許され、朝廷の実権を握ることがあってはゆゆしきこと。
いずれにせよ、武士政権たる鎌倉幕府が、天皇を決める時代が到来したのである。
■後嵯峨天皇から生じた天皇家の争い
こうして邦仁王は、即位して後嵯峨天皇となったが、貴族が選んだ天皇ではないので、朝廷内で孤立していた。後嵯峨は、息子の久仁(ひさひと)親王を4歳で即位させ(後深草(ごふかくさ))、形式的ながらも上皇として院政を開始したが、九条道家が朝廷を牛耳っていた。
しかし、道家の息子で幕府の4代将軍・頼経(よりつね)が謀反(むほん)の罪で鎌倉を追放されると失脚。
以後、後嵯峨上皇が本格的な院政を展開するようになる。

正元(しょうげん)元年(1259)、後嵯峨上皇は、子の後深草を譲位させ、弟の亀山(かめやま)天皇を即位させた。このおり、後深草に皇子の熙仁(ひろひと)がいたにもかかわらず、亀山の皇子・世仁を皇太子にすえたのである。
後深草も亀山も同じ中宮・藤原姞子(ふじわらきっし)から生まれたのだが、どういうわけか後嵯峨は亀山を偏愛した。この後嵯峨の措置が、のちに皇統を分裂させることになった。
文永9年(1272)、30年近く院政をとった後嵯峨が没したが、死に際「治天(ちてん)の君(きみ)」の決定を鎌倉幕府に委ねた。治天の君とは天皇家の惣領のことで、実質的な朝廷の権力者である。
もし後嵯峨が愛する亀山を治天の君に指名すれば、同系統が代々惣領となっていっただろう。が、それをしなかったのは、幕府に遠慮したからだといわれる。
前述のとおり、後嵯峨は貴族たちの意向に反し、北条泰時の命で皇位についた経緯があった。そうした遠慮もあり、治天の君を自らで決めなかったのだと思われる。
■持明院統と大覚寺統の「玉座」争い
後嵯峨の死後、幕府は中宮の藤原姞子に、後嵯峨の遺志を問うている。姞子が亀山のほうを寵愛(ちょうあい)していた事実を告げたので、文永11年(1274)に幕府は、亀山天皇が皇位を息子・世仁(後宇多(ごうだ)天皇)へ譲り、院政を始めることを認めた。
すると、失望した後深草上皇が、世をはかなんで出家しようとしたのだ。噂を聞いた8代執権・北条時宗は同情したのか、後宇多天皇の皇太子に熙仁(後深草の子)をすえるよう命じた。
かくして、後深草系統も治天の君を相続できる血筋となり、以後、半世紀近くにわたって両統は天皇家の惣領権や皇室領をめぐり、水面下で激しい勢力争いを展開するようになる。後深草系統を持明院(じみょういん)統、亀山系統を大覚寺(だいかくじ)統と呼ぶ。
後宇多の後は、熙仁親王が正応(しょうおう)元年(1288)に即位して伏見(ふしみ)天皇となった。
23歳であった。持明院統の名称は、この伏見天皇が持明院殿に住んでいたことに由来する。
翌年、伏見天皇の皇子・胤仁(たねひと)親王が皇太子となり、持明院統が優勢になった。すると大覚寺統の不満がつのり、翌正応3年(1290)3月、大覚寺統派の浅原為頼(あさはらためより)らが御所内に乱入し、伏見天皇を殺害しようとしたのだ。伏見は女装してなんとか難を逃れ、為頼らは目的を遂げられずに自害した。
伏見天皇は、永仁(えいにん)6年(1298)に第一皇子の胤仁親王(後伏見(ごふしみ)天皇)に譲位して上皇となった。
しかしこの間、大覚寺統が巻き返しをはかり、同派の公卿(くぎょう)(現在の閣僚)吉田定房(よしださだふさ)が「後嵯峨上皇の遺志とは違う」と幕府に直訴。訴えは取り上げられ、大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子・邦治(くにはる)親王が皇太子となり、正安(しょうあん)3年(1301)、即位して後二条(ごにじょう)天皇となった。
皇太子には、持明院統の富仁(とみひと)親王(伏見天皇の第三皇子)が擁立された。
■「命を捨てるから雨を降らせてほしい」
延慶(えんきょう)元年(1308)、後二条天皇が24歳で死去したため、持明院統の富仁親王が即位して花園天皇となった。花園はまだ12歳であったが、皇太子には大覚寺統から天皇より9歳年長の後宇多上皇の第二皇子・尊治(たかはる)親王が就任した。
花園天皇は歌道や学問に秀で、父の伏見上皇、続く兄の後伏見上皇が院政を敷いていたものの、自分の不徳を痛感していた。
とくに正和(しょうわ)2年(1313)に長雨が続くと、なんと花園天皇は「自分が人びとにかわって命を捨てるから、雨を降らせてほしい」と祈願している。そういった意味では、名君といえるだろう。
文保元年(1317)、両統の確執を見かねた幕府は仲介に乗りだし、「以後は両統が十年ごとに交代で皇位につくように」と命じた(文保の和談)。これを両統迭立(りょうとうてつりつ)と呼ぶが、これにより花園天皇(持明院統)が譲位し、大覚寺統から尊治親王が即位して後醍醐(ごだいご)天皇となった。
■もし四条天皇がスベって転ばなければ……
すると後醍醐は院政を停止して親政を始め、やがて倒幕の決意をかためて挙兵する。
その後、楠木正成(くすのきまさしげ)、足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)らの協力を得て元弘(げんこう)3年(1333)、150年間続いてきた鎌倉幕府を倒し、京都に新政権(建武(けんむ)政府)を樹立したのである。
だが、後醍醐の独裁によって公武の不満が高まり、足利尊氏が反乱を起こし、2年ちょっとで呆気なく政権は瓦解(がかい)。尊氏に一旦は降伏した後醍醐だったが、隙を見て京都から脱出し、大和国吉野(やまとのくにのよしの)(奈良県吉野郡吉野町)の地に新たな政権を樹立した。
尊氏もこれに対抗するため、持明院統の血筋を継ぐ人物を即位させた。それが光明(こうみょう)天皇である。光明天皇のもとで尊氏は京都に幕府を開設した。
こうして吉野の南朝と京都の北朝(幕府の傀儡(かいらい))が並立する状況が生まれ、その後、動乱が60年以上も続くことになる。もし四条天皇が、うっかりスベって転ばなければ皇統は分裂せず、南北朝の動乱は起こらなかったかもしれない。

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河合 敦(かわい・あつし)

歴史作家

1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)
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