スポーツ用品メーカーのアシックスを創業した鬼塚喜八郎。始まりはどのようなものだったのか。
敗れてもまた走れ アシックス創業者 鬼塚喜八郎の情熱』(NewsPicksパブリッシング)を出した経済ジャーナリストの財部誠一さんは「元軍人である喜八郎は、敗戦直後の焼け野原になった神戸三宮から自分の道を歩き出した」という――。
■見渡すかぎりの瓦礫に覆われた三宮
1868(慶応3)年の開港以来、神戸は西洋人を隣人として受け入れ、明治・大正を通じて西洋の香りが漂う独特の街を築いてきた。外国人居留地に暮らす西洋人に憧れた神戸の人たちは、西洋の近代技術だけではなく、洋装や音楽、料理まで、進取の気性に溢れていた。
日本人がスポーツという概念をまったく知らなかった明治時代、神戸の人たちは、新しくつくられたレクリエーショングラウンドで、西洋人たちが楽しそうにスポーツに興じる姿を目の当たりにした。1903(明治36)年、日本最初のゴルフ場である「神戸ゴルフ俱楽部」がつくられたのも、神戸の六甲山である。
明治後期から昭和初期まで、神戸は外国貿易と造船、海運によって大きく発展した。第一次世界大戦が始まるや、この地は空前の好景気に沸いた。神戸発の商社である鈴木商店が、1917(大正6)年、三井物産を追い越して売上高で日本一の商社になったのは、その象徴的な出来事だった。
こうして、日本のどこにもない独特の文化を醸成してきた神戸だが、その街並みは戦争で廃墟と化した。1945(昭和20)年の米軍の空襲は100回を優に超え、神戸の中心である三ノ宮の駅前は、見渡すかぎりの瓦礫になった。幸運なことに、国鉄のネットワークだけが無傷で残された。
■鬼塚夫婦に迎えられた喜八郎
見る影もなくなった国鉄三ノ宮駅に喜八郎が降り立つと、「坂口さん」と弾んだ声が聞こえた(*1)。
振り返ると、満面の笑みを湛(たた)えた鬼塚福弥が改札口で待っていた。隣には、申し訳なさそうに頭を下げる清市がいた(*2)。
「疲れたでしょう」
「いや、大丈夫です。それにしても、列車のなかは身動きできぬほどの混みようでした。重たそうなリュックを背負ったまま、みな立ちっぱなしだ。痩せた婦人は肩で息をして、顔も蒼(あお)ざめていて気の毒でした。鬼塚さんもあんな列車に乗って私の家まで来られたかと思うと、ほんとうに大変でしたね」
戦時中も国から配給される食料は粗末なもので、人々は窮乏生活を余儀なくされたが、敗戦直後はそのわずかな配給ですら滞り、着物や宝飾品をコメやイモなどと交換してもらうため、田舎の農家に人々が殺到した。唯一の移動手段であった国鉄の列車は、朝から晩まで鈴なりの混雑だった。
「来てくださってほんとうに嬉しい」
喜八郎を目の前にして、鬼塚福弥の表情には安堵(あんど)の思いが広がっていた。だが対照的に、福弥の背後に広がる暗澹たる光景に、あらためて喜八郎は愕然とした。
〈それにしてもひどい。この焼け野原が神戸きっての繁華街、三宮か〉
福弥も喜八郎の胸の内を察した。

「でも、我が家は空襲の難を逃れて無事です。安心してください」

*1 鬼塚喜八郎の出生名は「坂口喜八郎」。1918(大正7)年、父・坂口伝太郎、母・かめの末子として鳥取県で生まれた。

*2 鬼塚清市・福弥夫妻。当時、学徒兵教官の上田中尉と養子縁組をする予定だった。ビルマ戦線へ赴く上田から夫妻の世話を託された喜八郎は、戦後、夫妻の養子となる。
■居場所を失った敗戦後の軍人の戸惑い
鬼塚夫妻の住まいは、神戸市の生田(いくた)区(現・中央区)山本通(やまもとどお)り四丁目にあった。造船所や製鉄所が集中していた神戸の海側は空爆で全滅したが、福弥の住んでいたあたりは焼失をまぬかれた。神戸のおよそ六割が焼け落ちたことを考えれば、借家とはいえ、住む家が残ったことは、このうえない幸運だった。
こうして、喜八郎と赤の他人の老夫婦との奇妙な生活が始まった。まずはともあれ、この廃墟と化した神戸で食い扶持(ぶち)を探さねばならない。
だが、鳥取一中を卒業してから28歳になるまで、喜八郎は軍隊という特殊な世界しか知らなかった。

軍隊は規律と秩序が支配する究極の縦社会である。命令には絶対服従だが、裏を返せば命令に従ってさえいればよい。
個人の創意工夫が発揮される余地の少ない軍隊経験しかなかった敗戦後の軍人は、明治維新の武士さながら、いきなり居場所を奪われ、多くの人間が新しい社会に適応できなかった。
もちろん喜八郎も、その例外ではなかった。
■とにもかくにもカネを稼ぐしかない
どこで何をしたらよいのか。いや、そもそも、自分は何ができるのか。
鬼塚夫妻の面倒をみるとはすなわち、カネを稼いで夫妻を養っていくことだったが、喜八郎は民間で働いたことなどなかったし、一面焼け野原の神戸において、そう簡単に勤め口が見つかるはずもなかった。
二階の一部屋をあてがわれた喜八郎は、とにもかくにも、と翌日から街に出た。そこでは、家を失った人たちが、焼け跡に散乱した廃材を使って雨露をしのぐ掘っ立て小屋をつくり、食料も手に入らぬ窮乏生活を送っていた。
一方で、旧外国人居留地の神港(しんこう)ビルを訪れると、その前には軍用車両のジープがところ狭しと駐車し、米兵が隊列を組んで歩いていた。彼らの顔は生気に溢れていた。
神戸随一の繁華街であった新開地も焼け野原だったが、無傷で残った聚楽館(しゅうらくかん)は占領軍に接収されていた。
聚楽館は大正時代に神戸の財界人たちがつくった劇場で、「西の帝国劇場」とも称されたが、1927(昭和2)年に映画館へと衣替えし、2年後には松竹に売却された。
神戸の廃墟を我が物顔で支配する占領軍の様子を見ながら、戦争に負けるとはどういうことか、少しずつ喜八郎は理解しはじめた。敗者は勝者に従うしかないのだ。
■人間の欲の象徴として栄えた「闇市」
当時の日本人は、誰もが焼夷弾や爆弾に恐れおののく日々から解放された安堵を感じていたが、人間というものは、生きているだけで腹が減る。敗戦の焼け野原のなかでも物欲や性欲がなくなるわけではない。軍国主義の秩序が消えたあとに剝き出しになるのは、人間のどす黒い欲そのものだ。三ノ宮駅から神戸駅方向の国鉄の高架下を占拠した闇市は、その象徴だった。
初めて闇市に行ったとき、よくも悪くも、純粋培養されて生きてきた喜八郎は驚愕した。
三ノ宮駅から元町駅にかけて続いた闇市は当時、「三宮自由市場」と称され、日本国内屈指の規模を誇った。もっとも栄えた時期には1500軒もの屋台が連なったが、当然ながら、それは国民生活を陰で支える必要悪であったと同時に、殺人や盗難など、多くの犯罪の温床ともなった。
混迷極まる社会情勢のなか、職探しはひと筋縄ではいかなかった。
独力で仕事を見つけることの難しさを痛感した喜八郎は、神戸国防婦人会会長であった福弥の伝手をたどり、西井商事という会社を紹介してもらうことになる。

■「これからは平等な世の中になったんだ」
まずは面接だ。指定された場所に行ってみたが、会社らしき建物が見当たらない。瓦礫のなかにポツンと張ってあったテントらしき囲いの前に腰掛けていた男に、喜八郎は声をかけた。
「この近所に西井商事という会社があるはずなのですが、ご存じありませんか」

「おお、知っているよ」

「それは助かった。どのあたりですか」

「ここだよ。ここが西井商事だ」

「ええっ」
素っ頓狂な声が出た。
「君が坂口君か」

「はい」

「おれが西井だ。人手が足りなくて困っている。君は陸軍の将校だったそうじゃないか」

「姫路師団の少尉でした」
西井は揶揄(やゆ)するようにニヤリとして語った。
「戦争に負けちまったら、大将も軍曹もありゃあしない。威張り腐っていた憲兵もいつの間にか消えちまって、これからは平等な世の中になったんだ」
不敵な臭いがプンプンする怪しい男だったが、語った言葉に偽りはなかった。戦前に存在したヒエラルキーは、神戸の街が瓦礫に化すと同時に粉砕された。
とはいえ、人間が集まれば必ず序列が生まれ、新たなヒエラルキーが誕生する。
帝国陸軍という鉄壁の官僚組織が消えたあと、「権力の空白」を埋めるべく、あらゆる勢力が策動していた。
■就職して最初にした意味不明な仕事
「明日は動きやすいように兵隊ズボンで来てくれ」

「わかりました。仕事は何をするのですか」

「来ればわかる。明日の朝8時だ」
そういうなり、西井はさっさとテントらしき囲いのなかに入ってしまった。これまでの人生で出会ったことのない得体の知れぬ男に面食らったが、当座の仕事にありつけたことに喜八郎は安堵した。
しかし、西井商事とは何をしている会社なのか。
翌日の朝8時に到着すると、案の定、意味不明な仕事が待っていた。
「そのリヤカーで、あたりに散らばっているレンガを集められるだけ集めてくれ」

「それで何をするんですか」

「そんなことは気にしなくていい。とにかく急いでくれ」
〈目的もわからぬ肉体作業ほど空(むな)しいものはないが、いまは稼ぐことが先決だ。初年兵時代の過酷さを思えば、レンガ集めなどなんということはない〉
それからひがな一日、喜八郎は焼け野原に散乱したレンガを拾い集め、リヤカーがいっぱいになるとテントへ運ぶ作業を繰り返した。喜八郎以外にも、同じようにレンガ集めをしている西井商事の社員たちが何人もいた。
■敗戦直後に横行した土地の不法占拠
二~三日もすると、山のようなレンガが集まった。
〈これだけの量のレンガがあれば、ビル一棟は建設できそうだな〉
そう思った瞬間、ハッとした。
〈西井はここに勝手にビルを建ててしまうつもりなのか〉
図星だった。
敗戦直後、空襲で土地登記の台帳が消失し、他人の土地を不法占拠する者たちが続出した。警察や裁判所などの行政機能全般が一時的にストップしたからである。
いまレンガを積んでいる土地の所有者が誰なのか、関係者全員が亡くなっているのか、喜八郎は知る由もなかったが、少なくとも、テントを張って囲っている土地がかつて、西井のものでなかったことはたしかだった。
ひときわ大きな声で、レンガ運びの社員たちに向かって西井が叫んだ。
「テントの周りにレンガを積め」
■いつの世もカネはあるところにはある
“CULTURAL RECREATION CENTER”
完成したレンガビル正面に据え付けられた英語のロゴを見て、喜八郎は唖然(あぜん)とした。
ついこのあいだまで、敵国語の言葉を使えば非国民扱いされたのに、進駐軍がやってくるなり豹変(ひょうへん)する西井の変わり身の早さに感心するやら、あきれるやらである。
「カルチュラル・レクリエーション・センター」
誰もが生きていくことに必死であった時代、西井の目線はまったく異なるところに向いていた。なんとそのビルで、著名な画家やアーティストの作品を展示したのである。もちろん、ただ展示するだけではなく、その美術品を売って販売手数料をとったり、オークションを開催したりもした。
敗戦によって、それまで神戸にあったすべてが消えてしまったわけではない。むしろそこには戦時中に抑圧されていた飢餓感が、一気に溢れ出していた。戦争には“役にも立たなかった”芸術はその典型だ。
人々は食料だけに飢えていたわけではないこと、そして、どんな時代にもカネはあるところにはあるということを、西井は本能的に嗅ぎ取っていた。
■無から有を生みだす商売勘に驚嘆
西井の思惑どおり、カルチュラル・レクリエーション・センターには芸術家たちが集まるようになり、それにつられるように神戸の文化人も出入りするようになった。
西井がどんな伝手をたどったのか、喜八郎には皆目わからなかったが、兵庫県知事の岸田幸雄(さちお)や神戸市長の小寺(こでら)謙吉までが顔を出し、神戸政財界の社交場となっていったのだ。
〈レンガ集めを始めたときから、西井はこの成功を思い描いていたのだろうか〉
不法に土地を占拠したことはさておき、焼け野原と化した三宮で、無から有を生み出してそれを大きなビジネスにつなげた西井の商売勘に、喜八郎は驚嘆した。
一方で、このカルチュラル・レクリエーション・センターが完成する直前、喜八郎の運命を大きく変える出来事があった。
ある日、鬼塚清市宛てに届いた一通の公報には、こう記されていた。
■坂口あらため「鬼塚喜八郎」へ
「上田師団参謀、昭和十九年十二月にビルマ戦線で戦死」
上田の戦死を覚悟していたとはいえ、引き揚げが遅れているだけかもしれぬ、と一縷(いちる)の望みを抱き続けていた福弥の落胆はひどいものだった。そして、上田の死を悲しむやいなや、喜八郎に懇願した。
「上田のことはあきらめるから、坂口さん、あなたが養子になってくれ」
三男二女の末っ子だから家督は継げず、実家に喜八郎の居場所がないことは事実だった。しかし、なにも鬼塚夫妻の養子になる理由はない。いまの鬼塚家には財産らしいものはなく、住んでいる家も借家である。鬼塚夫妻に義理立てもなく、あるのは上田との約束だけだ。
養子という形式にこだわらなくとも、上田との約束を自分は守る、と伝えても埒(らち)が明かない。明治村を出て神戸に行くことすら強く反対した両親のことを思うと、そう簡単に福弥の願いを聞き届けることもできないが、福弥は「上田もあなたが養子になることを願っているにちがいない」といって両手を合わせ、頭を下げた。
ついに喜八郎も根負けした。
「わかりました。養子になりますから、もう頭を上げてください」
この瞬間、坂口喜八郎あらため、鬼塚喜八郎としての人生が始まったのである。

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財部 誠一(たからべ・せいいち)

経済ジャーナリスト

1956年東京都生まれ。80年、慶應義塾大学法学部を卒業し、野村證券に入社。その後、出版社勤務を経て、95年に経済政策シンクタンク「ハーベイロードジャパン」を設立。会員向けレポート「ハーベイロード・ウィークリー」は取材直後の現場レポートを提供し、多くの経営者に好評を得ている。テレビ朝日系「サンデープロジェクト」「報道ステーション」などに長年にわたって出演。金融・経済誌への寄稿も多数。2015年、脳梗塞で倒れるが、リハビリを経て完全復帰。その後7年間、BS11「タカラベnews&talk」に出演。著書に、『冷徹と誠実』(KADOKAWA)、『京都企業の実力』(実業之日本社)、『ローソンの告白』『農業が日本を救う』(以上、PHP研究所)ほか多数。

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(経済ジャーナリスト 財部 誠一)
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