賤ヶ岳の戦いでは、多くの有名武将の運命が激変した。歴史評論家の香原斗志さんは「中でも七本槍と称された武将たちの出世がめざましい。
ただ、彼らは秀吉恩顧であるがゆえに、その後の人生は平坦なものではなかった」という――。
■秀吉と勝家の衝突は「天下分け目の戦い」だった
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第32回(8月23日放送)は、サブタイトルがその名も「賤ヶ岳の決闘」。羽柴秀吉と柴田勝家がぶつかった賤ヶ岳合戦は、大義名分としては織田信雄と信孝の兄弟による戦いで、織田家の跡取りと家臣団を真っ二つに分けての、事実上の「天下分け目の戦い」だった。
「豊臣兄弟!」は、戦国期を描く大河ドラマにしては戦闘シーンが少ない気がするが、ここでは存分に登場するのだろうか。天正11年(1583)3月、勝家(山口馬木也)は北庄城(福井市)を発ち、3月17日には柳ヶ瀬(滋賀県長浜市)の内中尾山に築かれた玄蕃尾城に着陣。これを受けて秀吉(池松壮亮)も出陣し、双方は琵琶湖北方の余呉湖周辺に対峙し、それぞれがいくつもの砦を築く――。そんな状況が描かれるようだ。
ほどなくして、羽柴方は余呉湖南岸の守りが弱いうえ、ふたたび反旗をひるがえした織田信孝(結木滉星)に対するために秀吉は岐阜へ向かった、という情報が入る。そこで柴田方の佐久間盛政は、この方面への攻撃を主張。4月20日未明、盛政は中川清秀が守る大岩山砦を急襲し、清秀を討ち取り砦を陥落させる。さらに高山右近が守る岩崎山砦も落とし、余呉湖一帯を制圧してしまった。
だが、上手くいったばかりに、盛政は勝家の、勝っても駐屯せずすぐに撤退せよ、という指示を無視して現場に残った。
このため羽柴方の餌食になり、「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる若き武将たちが活躍する余地が生まれた。
■「七本槍が大活躍」は本当か
「七本槍」が功名を上げるまでの経緯をもう少し記すと、盛政にとっての想定外は、秀吉が岐阜から13里(52キロ)もの距離を、わずか5時間ほどで駆け抜け、本陣の木之本(滋賀県長浜市)に戻ってきたことだった。
4月21日、秀吉の部隊の猛追を受けた盛政の軍勢は、態勢を立て直したが、そのタイミングで後方にいた前田利家と利長父子、さらには金森長近と不破直光が戦線を離脱。前後から挟撃された盛政の部隊は壊滅したが、「七本槍」が手柄を立てたのはこのときだった。
勝家は周辺の部隊が総崩れになった挙句、本隊が秀吉の総攻撃を受け、多大な損失を出しながら北庄城に敗走。秀吉の軍勢に包囲された挙句、信長の妹で娶って間もない市とともに自害し、3000の城兵も討ち死にした。
さて、武功を立てた「賤ヶ岳の七本槍」とは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元の7人を指す。ただし、「賤ヶ岳の七本槍」という表記が初出するのは、江戸初期に成立し、史料としての評価が高くない『甫庵太閤記』で、この7人の活躍については諸説あるのも事実である。
■秀吉がことさら7人を称賛したワケ
実際に活躍したのは、石河兵助と桜井佐吉を加えた9人だったが、語呂が優先されて「七本槍」になったという説がある。「七本槍」はいわれるほど活躍していない、という見方もある。柴田方の軍勢はすでに突き崩されており、七本槍は勝利がほぼ決まった状況で追撃したにすぎない、というのだ。
それでも、秀吉はことさら7人(9人)の武功を賞賛して、感状をあたえるなどした。
その背景には、この「天下分け目の戦い」の勝利後に向けた戦略があったと考えられる。
百姓出身の秀吉には、たとえば徳川家康などと違って譜代の家臣がいない。そこで、子飼いの若い小姓たちの活躍をアピールし、今後の羽柴家を支える家臣として、彼らに箔をつけたというわけだ。
これら7人のなかでは、賤ヶ岳合戦での戦功で5000石を加増された福島正則が、とくに高く評価されていた。一番首を取ったこともあり、まぎれもなく「七本槍」の筆頭というあつかいだった。「七本槍」を称揚したことに、前述のような秀吉の戦略があったなら、正則こそは秀吉の覚えがとりわけ目覚ましかった、ということになる。
■秀吉恩顧の武将だったのに家康軍に
そもそも正則は、母がのちに大政所と呼ばれる秀吉の母の妹で、秀吉とはいとこの関係にあった。その縁で、幼少期から秀吉の陣営に加わったが、数少ない秀吉の血縁のひとりという意味でも、秀吉には重要だった。ただ、秀吉とは24歳の年の差があったので、むしろ甥のようにかわいがられたようだ。
正則はその後も合戦のたびに従軍した。翌年の小牧・長久手合戦を皮切りに、紀州攻略や四国征伐にも参戦し、天正15年(1587)の九州征伐後には、伊予(愛媛県)に11万3000石をあたえられ、ついに城持ちの大名にまで出世した。
その後も小田原征伐はもちろん、文禄元年(1592)の朝鮮出兵(文禄の役)では、五番隊の主将として京畿道を進軍しただけでなく、兵糧の輸送にも関わった。
いったん帰国後、ふたたび渡海して戦功を挙げている。文禄4年(1595)のいわゆる秀次事件で、秀吉の甥の関白秀次が切腹したのちは、その遺領の尾張(愛知県西部)24万石をあたえられ、豊臣政権の重臣として、清洲城(清須市)を居城にした。
このように正則は終始一貫して秀吉に仕え、尽くし、実績を上げ、出世を遂げてきた。そもそも秀吉の血縁でもあり、羽柴家への忠誠心はだれよりも強かったとされる。ところが慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、家康が総大将の東軍にくみしている。なぜなのか。
■石田三成が憎いばかりに
秀吉の死後、正則は石田三成と対立する。正則だけでなく、加藤清正、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、池田輝政といった武将たちがみな三成と対立し、三成を襲撃する事件まで起こした。簡単にいえば、実力や武功を重視する正則らは、法度や数字をもとに四角四面の査定をする三成とは、水と油のように相容れず、強い恨みをいだくようになったということだ。
だから、正則をはじめ秀吉恩顧の武将たちが、三成を失脚させた家康に心を許すようになっていった。
家康の上杉討伐に参戦していた正則は、三成が挙兵すると、いわゆる小山評定でいの一番に、家康に味方して三成を成敗すると誓約。その発言が諸将を家康のもとにまとめる契機になったとされる。
要するに、三成が憎いあまり、三成を倒すことこそが豊臣家のためになると信じ、家康に味方することの危うさに気づかなかったのだろう。
合戦での戦功ももちろんのこと、小山評定での功を考えれば、正則は関ヶ原合戦の第一の功労者だった。このため戦後、安芸(広島県西部)と備後(同東部)に49万8000石を得て、全国でも有数の大大名になった。だが、豊臣家を思うあまり徳川政権樹立の功労者になり、結果として、豊臣家を追い詰めることになったのは皮肉であり、悲劇であった。
■49万石から4万石まで転落
また、徳川幕府から見れば、正則は功労者ではあっても、豊臣家への忠誠心が人並み以上に強い、もっとも警戒すべき大名だった。その点も正則には悲劇だった。
だから、大坂の陣に際しては、幕府から最大限に警戒される。冬の陣も夏の陣も江戸留守居役に留め置かれ、従軍を望んでも許されなかった。その一方で、冬の陣に際しては、自身の大坂蔵屋敷に置いてあった兵糧米を、豊臣家が略奪することを認めており、徳川家が警戒するのも当然だった。
元和5年(1619)、広島城を無断で修復したことが武家諸法度に抵触するとして、領地を没収され、越後(新潟県)の魚沼の4万5000石へと大減俸される。2年前に洪水で破損した城の修復を幕府に願い出ていたのだが、なかなか許可が下りず、結果的に許可なしで城に手をつけたところが、いきなりの処分だった。
むろん、幕府は危険分子である正則の領地を、没収する機会をねらっていたのだろう。
しかし、秀吉のお気に入りが、すなわち徳川幕府には危険分子であったとするなら、賤ヶ岳七本槍の筆頭として讃えられたことが、正則の晩年の悲劇につながったということもできる。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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