賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を見限り、秀吉側に回った武将がいる。いわば“寝返り”だったが、秀吉から重用され、晩年には大坂城で徳川家康以上に重んじられたという。
なぜ「裏切り者」と呼ばれてもおかしくない男が、豊臣政権の大黒柱になれたのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが、その実像を読み解く――。
■“寝返り”から加賀百万石の大名へ
8月23日放送のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、羽柴秀吉と柴田勝家が激突する賤ヶ岳の戦い(天正11/1583年)が描かれる。この戦いでキーパーソンとなるのが前田利家だ。
前田利家は娘を養女として秀吉に譲るなど、羽柴家と親密な間柄である一方、織田家の宿老・柴田勝家が軍事行動を起こす際には「連合」「協力」する勝家の与力の立場にもあり、両者のあいだで板挟みになる。
「豊臣兄弟!」でも勝家の軍に属しながら、形勢が羽柴有利に傾くにつれ心が揺れ動く姿が描写されるだろう。そして、最終的に柴田勢から離脱する。このいわば“寝返り”が功を奏し前田は秀吉政権の重鎮へと躍進し、さらに徳川幕府が開かれたのちは加賀百万石の大名へとなっていく。
その繁栄の礎を築いた利家とは、どんな人物だったのか? また、信長の死によって秀吉へと権力が移行する転換期、利家は秀吉の目にどう映っていたのか? ――子どもの頃、“犬千代”という名で呼ばれていた前田利家の生き方を紹介したい。
■賤ヶ岳の勝敗は決まっていた
前田利家が戦いの舞台となった賤ヶ岳(滋賀県長浜市)や北ノ庄(福井県福井市)に関わってくるのは、天正3(1575)年からである。この年、織田信長と越前(福井県)一向宗とのあいだに戦いが起きた。越前一向一揆である。

利家はこの戦いに出陣し、戦功をあげた。「前田又左衛門が一向宗千人ばかりを磔(はりつけ)・釜茹(かまゆで)に処した」と刻んだ瓦が現存している。
この戦いに勝利した信長は重臣の柴田勝家を北ノ庄城に置き越前の大半を与えた他、金森長近(かなもりながちか)に大野城(福井県大野市)、原長頼(はらながより)に勝山城(同勝山市)、越前府中(同越前市)に不破光治(ふわみつはる)・佐々成政(さっさなりまさ)、そして前田利家の3人を配置した。
不破・佐々・前田を「府中三人衆」と呼んだ。利家はその後も勝家の与力として越後の上杉と戦い、天正9(1581)年に信長から直接、能登一国を与えられる。
この面々が、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍の主力を編成する(不破光治は戦い以前に死去し、賤ヶ岳には息子の直光が従軍したとの説もある)のだが、不破・佐々・前田の三人衆は勝家の目付(監視役)の任務も課せられていたという(『福井県史』)。すなわち信長は北陸を統治するうえで、諸将たちに相互監察を義務付けていたと考えられる。
こうした関係性ゆえに柴田軍は一枚岩といえず、賤ヶ岳の戦いでは戦力・兵数に勝る羽柴勢を前に、戦線離脱(または降伏)が相次いだ。前田利家も離脱した一人だった。
■前田利家が出世できた2つの理由
賤ヶ岳の戦い後、離脱(降伏)した者たちは秀吉の配下となった。なかでも前田利家の出世は目覚ましかった。
なぜ利家が突出していたのか。
それは第一に、天正9年から支配下に置いた能登の統治に際立った成果をあげており、そこに秀吉が着目したからと考えられる。
例えば利家は、能登に封じられるや検地を実施した。そのやり方が秀逸で、有力な地侍(武装農民)に村を管理する権限を付与し、扶持(ふち)(給料)も与えることによって、スムーズな年貢徴収を可能にしたという(『シリーズ・織豊大名の研究3 前田利家・利長』所収『織豊期加賀前田氏の領国支配体制』石野友康)。
新しい領主が矢面に立つと波風が立ちやすいため、在地の主要人物に権限を委譲し、裏で糸を引く――地侍たちも新しい領主の統治策に食い込むことで、利益を得られる。策士の秀吉も納得の手法だったのではあるまいか。
第二は、利家の嫡男・利長と信長の娘・永姫が結婚していたことだ。
秀吉は織田の縁者をひとりでも味方にしておきたかったはずだ。なぜかというと賤ヶ岳の戦い直後、信長三男・信孝を自害に追い込んでおり、そうなると次に戦う相手は二男・信雄だからである。
信長の血を引く信雄と渡り合うには、同じく信長の血筋である永姫の嫁ぎ先・前田家は利用価値が高かったといえる。実際、秀吉と信雄との関係は対立から和睦へと、二転三転することになる。
■秀吉を救った北陸での大逆転
第三は小牧・長久手の戦い(天正12/1584年3~11月)に利家が貢献したこと。信長二男・信雄(前述)と徳川家康が共闘し、織田をほぼ乗っ取っていた秀吉と衝突した覇権争いだった。

この最中、越中(富山県)の佐々成政が家康に内通し、兵を挙げた。小牧・長久手(愛知県)にいる秀吉は動けなかった。成政と対峙したのが利家だった。
8月28日、朝日山城(石川県金沢市)が佐々勢の急襲を受けるが、前田の家臣が辛くも撃退。続いて9月9日、成政は1万5000(この数は誇張ではないかとの説もある)の軍勢で末森城(石川県羽咋郡)を包囲した。ここを落とされると加賀と能登が分断され、前田は危機に陥る。
城に籠城する兵力は数百人。圧倒的な数的不利のなか、落城は時間の問題と思われた。そこに利家が2500人を率いて佐々軍の背後を突き、勝利した。
小牧・長久手の戦いの“北陸戦線”で勝利したも同然で、秀吉にも勢いを与えた。秀吉はまず単独で信雄と、続いて家康と和議を結び、信雄・家康のつながりを寸断させることに成功し、天下人へと一歩近づいた。
■丹羽長秀の死がもたらした好機
続いて天正13(1585)年4月、秀吉を支えてきた丹羽長秀が逝った。
長秀は柴田勝家の滅亡後に北ノ庄城を譲られており、越前・加賀にまたがる領地を治めていたが、その重鎮が没したのである。
長秀の跡目・長重はまだ10代半ばだったため、領地は若狭(福井県西部)に減封されてしまう。代わって利家が北陸全域を統治することになった。いかに秀吉が利家を頼りにしていたかわかる。
利家はとても喜んだようで、この時期、上洛して秀吉に拝謁した際、
「今度上洛仕合無残所、下着候」(京へ上洛するにあたり道中何事もなく、無事に到着した、あるいは無事に目的を達したという意味か……)
……と、満足感を述べている(『北徴遺文』所収文書)
北陸のさらに北にいる強敵・越後の上杉とも、関係が好転していった。
織田と上杉は、一時は同盟関係にあったものの、柴田勝家が北国の軍事統括者だった時期は対立していた。しかし上杉家中も、先代の上杉謙信が没すると内部紛争(御館の乱)が起き、国力が低下していた。そうした最中、政権が秀吉に移った。謙信に代わる新しいリーダー・上杉景勝は、これを和議の機会と捉えた。
天正13(1585)年8月、佐々成政と秀吉との決戦・富山の役で景勝は秀吉に味方し、利家と連携して成政を攻め、越中の平定に貢献した。
■豊臣外交を支えた陰の立役者
この結果、翌年(1586年)6月、景勝は秀吉に謁見した。秀吉はすでに関白となっていた。
倶利伽羅峠(くりからとうげ)(富山県と石川県の境にある砺波山の峠)を越えてきた上杉一行を出迎えのが、石田三成と利家だったという(『上杉景勝上洛日記』)。
また一行の大坂到着後、景勝が大坂城で秀吉に謁見する儀には、利家嫡男・利長が参列している(同上)。
いまだ関東の北条が秀吉の軍門に降っていない状況下では、北陸は東北へ続く道の拠点として重要だった。東北諸将と秀吉をつなぐ仲介役を利家が担うのは、自然の流れだったといえよう。
上杉だけではない。天正14(1586)年以降、陸奥の三戸南部氏の当主・信直(のぶなお)と豊臣の盟約を介したのも(『南部家文書』)、翌年に伊達政宗との折衝を開始したのも(『伊達家文書』)、利家だった。政宗が、秀吉が滞在していた小田原に参陣するのは、天正18(1590)年である。
利家は豊臣政権の外交の一翼を担っていた。秀吉にとって重宝な人物だったことは疑いようがない。
■戦国を生き抜く“計算高さと世渡り上手”
前田利家は、運に恵まれていたといえる。
柴田勝家は利家を青年期から可愛がっていたという。しかしどのような意図を持っていたかは不明だが信長は勝家の直属家臣としてではなく、独立した大名として利家に能登を与え、それが結果的に賤ヶ岳の戦いで勝家を見限る決断を促した。

さらに末森城の戦いの1年後には丹羽長秀の死によって領地を拡大し、北陸において“ひとり勝ち”の様相を呈する。
上杉との連携も、越後が謙信亡きあとの衰退傾向に入った時期にあったため、それまでより交渉しやすかったといえるだろう。
利家および前田家の発展を概観すると、こうした「運」に加え、権力者の交代機に即応できる機智を持っていたことも読み取れる。計算高く、世渡り上手――それこそが、戦国の世を生き抜いた利家の強みだった。
■家康を凌いだ「人望」
人望も厚かったようだ。利家に小姓として仕えた村井勘十郎が江戸初期に著した逸話集『利家夜話』は、晩年の利家についてこう記している。
大野修理殿、蒔田権之介殿など、内店と大納言とは、御位も国数も多く候へども、御城中にて人の用ひ申すは、大納言殿強く候、扨又御前体(さてまたごぜんてい)も能(よ)き故なり、浅野弾正殿・有馬法印も、常々大納言様御威光強き事御咄候
書き下すと――。
大野修理(おおのしゅり)や蒔田権之介(まいたごんのすけ)(共に秀吉の家臣)らが語ったところによると、内店(内府(ないふ)/徳川家康)と大納言(前田利家)は、官位や支配する国の数では家康が上だが、大坂城中において人々が重んじ、支持しているのは利家だ。人柄が立派で振る舞いにも威厳があり、浅野弾正(浅野長政)や有馬法印(有馬則頼)も、常日頃から大納言様の威光は強いと語っている。
小姓という近習が著した書物なので誇張が過ぎている可能性はある。ただし利家と家康とを比較した場合、世間に浸透している印象は、おそらくこのようなものだろう。
前田利家は、人望と時勢を読む力が太閤・秀吉をはじめ多くの人を捉え、激しい権力争いを生き抜いた。そして、後世へと続く前田家繁栄の礎を築いた。
稀有な人物だったのはまちがいない。
参考図書

・大西泰正編著『シリーズ・織豊大名の研究3 前田利家・利長』(戎光祥出版、2016年)

・岩沢愿彦(よしひこ)『新装版 人物叢書 前田利家』(吉川弘文館、1988年)

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小林 明(こばやし・あきら)

江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表

編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。

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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
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