サービス業や介護・福祉分野の働き手が減っている。立教大学教授の首藤若菜さんは「『人手不足になれば賃金が上がる』という市場メカニズムが、日本では機能していない。
そのため、低賃金による離職→人手不足の深刻化という悪循環が生じている」という――。
※首藤若菜『なぜ賃金は上がらないのか 日本経済30年の陥穽』(講談社現代新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
■人手不足の業界ほど賃金が上がらない
厚生労働省「賃金構造基本統計調査」を用いて、産業別に直近数年間の名目賃金の上昇率を見ると、興味深い傾向が確認できる。
人手不足感が強いと指摘されるサービス業や介護・福祉などの分野では、賃金上昇率が相対的に低い水準にとどまっている。一方で、人手不足感がそれほど強くない業種のなかに、賃金上昇率が高い分野が存在する。
労働現場に目を向ければ、賃金が十分に上がらないために人材の確保や定着が進まず、人手不足が解消されない。その結果、現場の負担が増し、離職が進むことで、人手不足がさらに深刻化するという悪循環が生じている。人手不足は結果であると同時に、原因にもなっている。
この事実は、経済学が想定するほどには、現実の賃金や価格が市場メカニズムに即して柔軟に調整されていない可能性を示している。
日本では、人手が足りなくても、企業が容易に賃上げに踏み切れない状況が見られる。その背景には、賃金を引き上げる前提となる価格を引き上げにくい環境があるのではないだろうか。
日本で価格を引き上げにくい理由は、大きく2つに分けて考えることができる。
第一に、社会的に不可欠であるがゆえに制度的に価格が抑えられている分野、第二に、市場競争のもとにありながら、その競争のあり方が価格引き上げを困難にしている分野である。
■医療・介護、交通は賃金が上がらない
前者の代表的な分野として、医療や介護業界がある。医療や介護のサービス価格は市場で自由に決まるわけではない。診療報酬や介護報酬といった公定価格によって、価格水準が制度的に規定されている。
この仕組みのもとでは、需要が増え、人手不足が深刻化しても、事業者が自由に価格を引き上げることはできない。その結果、賃金を引き上げる余地は限られる。
価格が制度的・社会的に制約されている分野は他にも存在する。例えば、鉄道やバスなどの公共交通分野である。鉄道運賃は市場で自由に設定されるわけではなく、国の認可を前提とする制度のもとで決定されている。
人手不足が深刻化し、現場の負担が増しても、それが即座に運賃改定や賃金上昇につながるわけではない。この点で、交通分野は医療・介護と同様に、人手不足が、価格の見直しや引き上げを通じて、賃金に反映されにくい構造を抱えている。
■地域住民にとっては生活基盤の路線バス
とりわけ地方の路線バスは、この問題がより深刻である。
人口減少により需要は縮小している一方で、高齢者や学生など、自家用車を利用しにくい地域住民にとっては、日常生活を支える不可欠な移動手段であり続けている。
運賃を引き上げれば利用者の負担が増し、自治体の補助にも影響が及ぶため、価格の変更は容易ではない。その結果、人手不足であっても価格を通じて収入を増やすことが難しく、賃金水準は抑制されやすい。
その帰結としてあらわれるのが、人手不足の慢性化と路線の縮小、さらには廃止である。ここで論じたいのはバス路線運営から退出することの是非ではない。
退出や縮小は、人口減少下における合理的な資源配分の結果と捉える見方もあり、需要に応じてサービス供給が縮小していくこと自体を否定するものではない。
■バスの運賃を上げれば利用者が減る
ただ、こうした分野に共通するのは、サービスによって生じる便益の範囲に比べて、費用を回収する取引の範囲が限られている点である。
バスが走ることで、高校生は学校に通い、高齢者は病院に行き、人々は商店や飲食店を利用できる。学校や医療機関、地域の経済活動も間接的に支えられ、地域社会の維持そのものにも関わる。
しかし、費用の回収が主として利用者の運賃に依存する場合、価格を引き上げると利用者が減少し、収入を十分に増やすことができない。そのため、人手不足が生じても賃金上昇が難しく、供給の縮小としてあらわれやすい。
人手不足が賃金上昇をもたらさず、サービスの維持そのものを困難にするのは、このような調整経路の制約によるものである。

■「物流危機」でもドライバーの賃金は上がらず
他方で、運輸や建設といった分野では、市場競争が存在するにもかかわらず、価格が上がりにくいという別の問題がある。
これらの産業でも、深刻な人手不足が長年続いてきた。近年は、賃金も価格も上昇傾向にあるが、過去を振り返ると、例えば運送業界では、1990年の規制緩和により事業者数が増大し、運賃が低下してきたことに対応するかのようにして、賃金が低下していた。
価格競争の激化によって運賃を引き上げることが困難になるなかで、賃金が事実上の調整弁として用いられてきた。
その後、なり手が不足し、「物流危機」が繰り返し叫ばれてきたにもかかわらず、ドライバーの賃金は人手確保に結びつく水準まで上昇してこなかった。その背景には、運賃を十分に引き上げることができなかったという事情がある。
直感的に考えれば、人手が足りなければ、荷物を運ぶことができなくなる。そうなれば、運送を依頼する側は、輸送が不可欠であれば、より高い運賃を支払わざるを得なくなるはずである。それにもかかわらず、運賃はなぜ上がらないのか。
■人はいないのに「物流業者」が多すぎる
その理由は、この分野が、単に人手不足であるだけでなく、過当競争の状態に置かれていること、小規模事業者が多く、多層的な下請け構造になっていることと無関係ではない。
こうした構造のもとでは、価格転嫁が困難であるだけでなく、採算が厳しくなっても、低賃金や長時間労働によってかろうじて事業を継続する事業者を生み出す。結果的に、事業者数が減らず、激しい競争が長期にわたって温存されてきた。

ここで特徴的なのは、事業者数が多いまま維持される一方で、各事業者が十分な労働力を確保できていないという実態である。過当競争とは事業者が多すぎることを指し、人手不足とはドライバーが足りないことを指す。
「多すぎる」事業者が同時に求人を出すため、有効求人倍率は高止まりする。しかしそれは、社会全体として労働力が絶対的に不足していることを意味するわけではない。
もし荷物の総量に対して、ドライバー数が足りていなければ、物流の停滞といった形で、経済活動そのものに深刻な影響が及ぶはずである。しかし現時点では、過重労働や現場の無理を前提としながらも、社会全体として物流が全面的に停滞する事態には至っていない。
実際には、個々の現場では深刻な負荷が生じているものの、社会全体としては退出が起きないまま事業者が分立する構造のもとで、人手不足が構造的に再生産されてきた。
■賃金の停滞は日本経済全体に波及する問題
このように、日本で人手不足なのに賃金が上がらない理由は、労働組合の交渉力や日本型雇用の特殊性だけでは説明できない。
賃金は、価格と密接に結びついている。価格が抑え込まれている限り、人手不足であっても、賃金は上がりにくい。
人手不足にもかかわらず賃金が上がらないという問題は、介護や運輸といった特定の産業に固有の現象のように見えるかもしれない。
しかし実際には、賃金の停滞は日本経済全体に波及する構造的な問題である。


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首藤 若菜(しゅとう・わかな)

経済学者

立教大学経済学部教授、経済学者。1973年東京都生まれ。日本女子大学大学院人間生活学研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。山形大学人文学部助教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス労使関係学部客員研究員、日本女子大学家政学部准教授などを経て現職。専攻は労使関係論、女性労働論。

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(経済学者 首藤 若菜)
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