■お市は北ノ庄城から脱出することもできた
天正11(1583)年4月24日、お市の方は越前・北ノ庄城(福井県福井市)で、夫の柴田勝家と共に自刃して果てた。享年37。
この日、北ノ庄城は羽柴秀吉の軍勢に囲まれており、退路を絶たれた勝家とお市は覚悟して自害に及んだ。軍記物語の『柴田合戦記』には、勝家がお市に「(あなたは)信長公の身内なのだから、秀吉も粗略に扱うことはない。敵陣に送り届ける」と、落ち延びることを勧めたが、お市は「夫婦として契ったのだから、一緒に死ぬ」と、城を出ることを拒んだと書かれている。
『柴田合戦記』は戦いの模様を過剰に脚色するなど、フィクションらしき記載も散見され、すべてを事実と捉えるのは無理がある。だが、お市が城を脱出するのは、決して不可能ではなかったと考えられる。
・勝家とお市の結婚は前年の清須会議で、織田家宿老たちの勢力均衡をはかるため秀吉自身が勧めたものだった。そうである以上、お市は政略の道具に過ぎず、秀吉も積極的にお市を亡き者にしたいとは思っていなかったはず。
・そもそも亡き織田信長の身内であるお市に対する憎悪など秀吉にはない。
……などが、そう考える理由だ。お市が生き延びても、秀吉にはたいした不利益は生じなかった。
それにもかかわらず、お市自身が北ノ庄で死を選んだ。その胸の内を知るには、天正元(1573)年の小谷城落城を振り返る必要があると思う。なお、お市の生年月日は正確には不詳だが、ここでは現時点の定説にのっとり天文16(1547)年とし、没年時やその他の年齢もこれに準じる。
■お市が抱えていた過去の悔しさ
よく知られている通り、北ノ庄城落城はお市にとって、2度目の嫁ぎ先滅亡だった。1度目は天正元年、前夫・浅井長政の自刃と小谷城(滋賀県長浜市)の落城である。
このとき、お市は27歳前後だったと推定される。長政が織田信長にお市と茶々(ちゃちゃ)・初(はつ)・江(ごう)の3人の娘の引き取りを要請し、信長が承諾。お市と三姉妹は城を出たというのが、一般的な解釈として定着している。
ただし、お市がその指示に納得していたか、胸の内はわからない。実際、お市と三姉妹の動静を伝える『渓心院文(けいしんいんのふみ)』に、次のような一文があるという。
「御いちさま仰せには あざい殿時分出させられさえ 御くやしく候」
(お市は浅井滅亡の折りに城を出されたことが「悔しい」と語っていた)
「豊臣兄弟!」の時代考証を務める歴史家の黒田基樹氏は、この「御くやしく候」に、お市の本音が隠されているのではないかと指摘する。すなわちお市は「婚家に殉じる覚悟にあった」(黒田基樹『お市の方の生涯』/朝日新書)というわけだ。
嫁いだ以上は婚家と運命を共にするのが使命――お市はそのような価値観を持った女性だった。それゆえ小谷での悔しさを、北ノ庄で晴らす、そんな決意に満ちていたのではないか。
■覚悟か、あきらめか、安堵か
もっとも戦国時代の女性の胸の内を、文献史料をもとに正確に解明するのは困難だ。「御くやしく候」も城を出されたのが悔しいというより、もっと単純に、浅井が「戦いに負けた」ことが悔しい、そう読むこともできるだろう。
お市の考え方については研究者たちがそれぞれの見解を示しているので、筆者の知る限りあげておきたい。
北川央氏(織豊期政治史)
織田信長が荒木村重の妻子、家臣たちの妻子、女房たち数百人を惨殺して以降、縁坐(えんざ)が拡大する傾向にあったため、秀吉に投降せず勝家と共に死ぬ決断をした(縁坐:罪を犯した本人のみならず家族・親族まで処罰されること)。
田端泰子氏(日本中世史・女性史)
北ノ庄城落城の時点で三法師や織田信雄(信長二男)は健在だったが、すでに三男信孝は秀吉に降り、また信雄と秀吉の関係も予測不能ゆえ、お市が帰るべき織田家はもはや存在しなかったため、死を選んだ。
もうひとつ、やや古い参考図書だが桑田忠親氏(日本中世史/故人)の意見もあげておきたい。
・お市は自分の運命に忍従(嫌な指示でも言いなりに従う)する女性だったが、北ノ庄ではついに生き抜くことの悲しみに堪えかねた。
4人の研究者の意見から筆者が思うのは、お市には「もう、どうしようもない」というあきらめと、「(北ノ庄で)やっと楽になれる」という達観した感情が、複雑に混じり合っていたのではないか、ということだ。
■織田家はお市をとことん利用しようとした
筆者がもうひとつ注目したいのは、小谷落城(1573)から北ノ庄への輿入れ(勝家との再婚/1582)までの9年間、お市がどこで、どう過ごしていたか――である。
この“空白の9年”、お市はまず叔父にあたる織田信次(のぶつぐ)の庇護の下、尾張・守山城(愛知県名古屋市)にいた。信次は織田一門の長老だ。
1年後に信次が戦死すると、天正2(1574)年以降は岐阜城に引き取られた。当時は信長自身が治めていたが、同3(1575)年に嫡男・信忠に家督を譲り、岐阜城も信忠のものとなった。
重要なのは、お市は最初こそ一門の長老の下にいたものの、以降は信長→信忠と、一貫して織田家当主の下に置かれていたことである。すなわちこれは、いざとなればまた政治の道具として、お市を利用する目論見(もくろみ)があったと見て良い。
何しろ美人と評判だった女性だ。『渓心院文』は、
「ことの外御うつくしく御とし頃より若かに御廿二、三にみえさせられ候」
と、記している。お市が30歳を過ぎた頃の記述と想定されるが、「美しく、若々しく22~23歳に見えた」とある。
実の容姿は想像する他ないが、少なくとも美女の誉高かったのは確かなようで、言葉は適正ではないが婚儀の際の「餌」としての利用価値は、まだまだ高かっただろう。
その一方、このことがお市の心理にどう影響したかを考えると、複雑な思いを抱く。
北ノ庄城で、ようやくその宿命が終わる――もはやお市には、生への執着などなかったと思える。
■母が命がけで見せた最期の行動
こうしてお市は北ノ庄で生涯を閉じたが、娘の3人は秀吉に引き渡された。三姉妹が城を出る様子を、『渓心院文』はこう記す。
お市の方は小谷城を退去したことを悔しく思っていたので、今回は残ると決心していたが、3人の娘だけは生かしたいと願っていた。
羽柴秀吉は信長から厚恩を受けていたから、悪いようにはしないだろうと、勝家から秀吉に交渉し、お市の方も自筆の書状をしたため、秀吉に依頼した。
3人の娘が乗った輿一丁を見送るため、お市の方が三の間に姿を見せると、秀吉の軍勢はぱっと開いて輿を通した。
これが事実だとしたら、とても劇的なシーンだ。「三の間」が城のどこに相当するかは不明だが、仮に「三の丸」を指すとすると、城の最外郭である。そこに城主の妻という要人が現れ、敵方に姿を晒すなど、通常はあり得ない。危険を犯してまで娘たちを見送った母の思いが、伝わってくるようだ。
茶々15歳、初14歳、江11歳(いずれも数え年)だった。
■戦国の姫の生涯最後の意地か
三姉妹を城から逃す決定を、最終的に下したのは勝家だったろう。だがそこには当然、娘たちに何とか生き延びて欲しいという母としてのお市の願いもあり、かつ信雄でも三法師でもない、お市の血を引く織田の人材を残したいという、強い意思があったのではないかと思える。
それはまた、男たちの言いなりでしかなかった戦国の姫が、生涯最後に押し通そうとした意地だったかもしれない。
そう感じたのは、「豊臣兄弟!」でお市が小一郎に「おまえら(羽柴)に勝ち目はない」と、ラスボスのように毅然と言い放つシーンを観たせいだろう。現実にあった会話とは思えないが、実際のお市も心の底で、あのような燃えたぎる憤怒を抱えていたのではないだろうか。
幸いなことに勝家と三姉妹は血縁関係になく、養子縁組も結んでいなかったらしい。つまりお市と勝家は夫婦だが、娘3人は柴田と「運命をともにする筋合いにはなく」(黒田基樹氏)、城を出るのに差し支えはなかった。
三姉妹はその後、社会的には浅井長政とお市の娘と認知され、この両親の供養は茶々が執り行った。一方、勝家の供養はしていない。3人はあくまでも信長の妹・お市の娘、つまり織田の血を引く者として厚遇されていく。
■「婚家に殉じる」母娘に貫かれた信念
とはいえ信長の姪である三姉妹は、秀吉にとって極めて価値の高い政略の道具であり、秀吉は徹底的に利用していく。
もとより3人には秀吉に頼らず生きていく他に道はなく、二女の初は京極高次へ嫁ぎ、三女の江は最終的に徳川秀忠の正室となり、のちの江戸幕府3代将軍・家光の母となった。
誤算といえば、やがて江の婚家である徳川が、茶々(のちの淀殿)と彼女が産んだ豊臣秀頼と戦う悲劇に見舞われることだ。予期せぬ事態だったろう。
だが、この戦い(大坂の陣)は、秀吉と小一郎の豊臣兄弟が没した後のことである。兄弟の生存中は、3人それぞれが豊臣から課せられた役割を果たした。母が信長の言いなりだったように、三姉妹も結局は秀吉に従わざるを得なかった。
母は2度の落城を経験し、3人の娘は乱世の最後まで戦うことになる。
信長と秀吉に利用され尽くし、波瀾万丈の人生を送った母娘。特に最後は悲劇的な結末を迎えるお市と茶々は、一方は近江と北ノ庄の敗者の妻、一方は天下人・豊臣の妻であり、その後継者の母という立場の違いはあるものの、根源に同じ価値観を共有していたと感じられる。
嫁いだ以上は、婚家に殉じる覚悟を持って生きるという共通した信念が、ふたりにはあった。
もっともお市と茶々に限らず、この信念は初にも、江にも、さらに戦国に生きた姫たちすべてに共通していただろう。それでもお市と茶々の存在が際立つのは、やはり信長と同じ血が流れていたから――筆者には、そう見えてしまう。
参考図書
・黒田基樹『お市の方の生涯』(朝日新書、2023年)
・北川央『大坂城をめぐる人々』(創元社、2023年)
・田端泰子『戦国の女たちを歩く』(山と渓谷社、2004年)
・桑田忠親『人物叢書新装版 淀君』(吉川弘文館、1985年)
----------
小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
----------
(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
