なぜ日本の実質賃金は上がらないのか。立教大学教授の首藤若菜さんは「近年のインフレのせいだけではない。
2000年代以降、企業業績が回復したり、輸入コストが上昇したりしても、企業は価格を上げることを嫌った。そして、労働者の賃金を抑制することでその負担を転嫁してきた」という――。
※首藤若菜『なぜ賃金は上がらないのか 日本経済30年の陥穽』(講談社現代新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
■賃金は上がらないが、雇用は守る
1990年代後半、バブル崩壊と金融危機の影響のもとで、企業業績は大きく悪化した。売上高経常利益率は低下し、多くの企業が債務圧縮や設備投資削減を迫られた。価格を引き上げられない環境のもとで、まず利益が圧縮された局面があったことは確かである。
しかし2000年代以降、企業業績が回復しても賃金はそれに比例して回復しなかった。1990年代後半から2010年代にかけて、日本では名目賃金の抑制が続いた。
非正規雇用の拡大によって平均賃金水準が押し下げられ、正社員についても、賞与や労働時間による調整を通じて、雇用維持が優先されてきた。
春闘においても、企業環境の厳しさを背景に、労働組合はベースアップを求める統一要求を断念し、定期昇給の確保にとどまる局面が長く続いた。
その結果、雇用は一定程度守られた一方で、賃金は上がらなかった。生産性上昇の鈍化と交易条件の悪化が重なるなかで、実質賃金は長期にわたって低下してきた。

■日本人の給料は「価格固定」のために使われた
近年、しばしば、「賃上げが物価上昇に追いついていないから、実質賃金が下がっている」と説明される。確かに、コロナ禍後のインフレ局面において、物価上昇率が賃上げ率を上回り、実質賃金が低下しているという、短期的な現象としてはその通りである。
しかし、長期的に見ると、日本の実質賃金の低下は、インフレだけで説明できるものではない。
輸入コストの上昇を国内製品価格に反映し、売り上げが価格上昇と同率で拡大すれば、その増収分は中間投入費を差し引いたうえで、企業利益だけでなく賃金としても労働者に分配されるはずである。
その場合、名目賃金は引き上げられ、実質賃金も確保される。ところが、日本では国内価格が大きくは引き上げられなかった。
ここまで確認してきた事実を並べると、次の特徴が見えてくる。輸入コストは上昇したが、価格は大きく上がらず、企業利益は長期的には維持された。一方で賃金は、企業業績が改善しても伸びなかった。
この組み合わせは、交易条件の悪化に対する調整が、価格や利益ではなく、主として賃金停滞としてあらわれてきたことを示している。すなわち、賃金は景気変動に応じて上下したというよりも、企業利益や価格での変化があらわれにくいなかで、結果として負担の受け皿となってきたと考えられる。
■「賃金と価格の連動」が日本にはない
一般に賃金をめぐる問題は、企業と労働者の間の分配関係として捉えられることが多い。

実際、労働組合が強く、賃金交渉の結果が産業全体や社会全体に波及する場合、賃上げは価格に反映されることで調整される可能性があり、分配をめぐる調整は賃金と価格の連動を通じて社会に広がる。
しかし、日本ではこうした連動は十分には機能してこなかった。価格は動きにくく、企業利益は長期的には維持されるなかで、調整は主として賃金に集中してきた。
本稿では、こうした分配関係を踏まえつつも、実際に調整が生じてきた領域として、価格と賃金の関係に着目して検討する。
なぜ価格ではなく、賃金が調整弁になってきたのだろうか。1つ目の理由は、調整コストの非対称性である。日本では、賃金は価格よりも、社会的摩擦が表面化しにくく、「静かな調整」として機能してきた。
■なぜ賃金が調整弁になったのか
価格を引き上げれば、消費者の反発や需要減少のリスクが表面化しやすい。とりわけ生活必需品の値上げは政治問題化しやすく、企業にとっても売り上げ減少や市場シェアの喪失という具体的なリスクを伴う。
日本では、このリスク認識が長期にわたり共有されてきた結果、価格調整はきわめて慎重に行われてきた。
これに対して、賃金調整は、より緩やかな形で行うことができる。賃金を一気に引き下げる必要はない。

業績悪化を理由に賞与を減らす、ベースアップを見送る、昇給を抑制するなど、段階的に人件費を抑えることができる。正規雇用を非正規雇用に置き換えるといった対応を積み重ねることで、年々少しずつ人件費総額を調整することもできる。
2000年代以降に進んだのは、こうした明示的な賃金抑制や削減だけではない。企業は組織再編や事業体制の変更を通じて労働条件を見直しながら人件費を引き下げる調整を進めてきた。
■価格を上げるより、人件費を引き下げる
分社化や転籍を経験した労働者のあいだでは、「雇用は守られたが、気づけば別の会社で、給料や休暇、福利厚生が変わっていた」といった声も聞かれる。日本では雇用の継続が重視される一方で、その雇用が同じ職場や同じ労働条件で維持されるとは限らない。
こうして、労働条件の見直しを伴いながら雇用が継続されてきた側面がある。
このような調整の積み重ねによって、表面的には雇用が維持され、企業活動も継続できるため、個別の現場では対立が生じながらも、それが社会的な対立として顕在化しにくい形で進められてきた。
こうして日本では、価格を動かすよりも、賃金を上げない、もしくは人件費総額を引き下げるほうが穏便な選択とされ、繰り返し選ばれてきた。ただし、この調整は、負担の所在を見えにくくし、後から大きな歪みとしてあらわれやすい。
■欧州は、賃上げ分を価格に転嫁
2つ目の理由は、制度的な切断である。日本の労使関係の特徴として、労働組合が主に企業別組合によって構成されており、賃金交渉が各企業の経営状況を前提に行われやすいことがある。

そのため、欧州に見られるように産業全体や社会全体で賃金水準を引き上げる仕組みは限定的である。
このこと自体は、従来から指摘されてきたが、重要なのは賃金交渉と価格形成が切り離されてきたことである。
労働組合は賃金や労働条件を交渉する主体ではあったが、価格をどう設定するのか、コスト上昇をどこで引き受けるのかといった問題は、主に経営側の問題として扱い、関与しにくかった。価格は、市場や取引慣行の問題とされ、労使交渉の射程外に置かれてきた。
それに対して、産業別交渉や労働協約の拡張適用が続く欧州では、賃金改定が当該産業に広く及ぶため、個別企業が賃上げ分を価格に転嫁しても競争上の不利が生じにくい。
先行研究では、団体交渉が強く機能している国ほど、原油や原材料価格といった外生的コストショックが生じた際に、賃金が上方に反応し、その結果、賃金と価格の連動を通じてインフレが持続しやすいことが示されている(※1)。
こうした制度のもとでは、賃金と価格は切り離されるのではなく、相互に結びついた形で変化する。
■雇用を守るためなら、賃金は安くてもいい
日本では、価格を動かせないことを前提に、賃金だけが企業内で調整される構造が固定化されてきた。その結果、コストが上昇しても価格に反映されにくく、賃上げは企業の負担増として扱われやすくなるため、人手不足が生じても賃金が上がりにくくなる。
3つ目の理由は、賃金抑制が、雇用維持を優先する制度的・政策的選択のもとで、社会的に正当化されてきたことにある。日本では長らく、「雇用を守るためなら賃金を抑えるのはやむを得ない」という考え方が広く共有されてきたし、今日でもそれは大きく変わらない。
バブル崩壊後の長期停滞のもとで、失業者を増やさないことが最優先課題とされ、賃金抑制は雇用維持のための合理的選択として受け止められてきた。
その結果、賃金は柔軟に動かせる変数として扱われてきた。
■実質賃金が長期低下する日本の末路
賃金を調整弁とする方法は、今日の視点から見れば望ましくない選択に映るかもしれない。
しかし当時の状況では、雇用を維持し、事業を継続させ、経済・社会の安定を守る合理的な対応として広く共有され、制度、慣行、労使関係、そして社会的合意のもとで選択され続けてきた。
その結果、日本では交易条件悪化の負担は、価格や雇用の急激な変化としてではなく、賃金の抑制として引き受けられてきた。危機は、目に見える形であらわれず、賃金が上がらないという形で日常のなかに埋め込まれていった。
短期的には安定を得られたが、それは負担を消したのではなく先送りしたにすぎない。その帰結が、投資の停滞と成長余地の縮小、そして実質賃金の長期低下として、現在にも残っている。
(※1)Morsy, H. and Jaumotte, F. (2012) "Determinants of Inflation in the Euro Area: The Role of Labor and Product Market Institutions", IMF Working Paper 12/37.

International Labour Organization (2023) A Review of Wage Setting Through Collective Bargaining, Geneva: ILO.

Bates, C., Bodnár, K., Healy, P. and Roca, I. L. M. (2025) "Wage Developments During and After the High Inflation Period", ECB Economic Bulletin, Issue 1/2025.

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首藤 若菜(しゅとう・わかな)

経済学者

立教大学経済学部教授、経済学者。1973年東京都生まれ。日本女子大学大学院人間生活学研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。山形大学人文学部助教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス労使関係学部客員研究員、日本女子大学家政学部准教授などを経て現職。
専攻は労使関係論、女性労働論。

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(経済学者 首藤 若菜)
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