■信長には息子が“11人いる!”
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では本能寺の変で織田信長が討たれ、凡庸な子どもたち、信長の次男・織田信雄と三男の織田信孝の権力闘争が繰り広げられつつある。「豊臣兄弟」では四男の秀勝までしか登場しないが、信長は11男11女の子だくさんだったといわれている。
信長の長男・織田信忠は兄弟の中で比較的優秀だったらしい。天正3(1575)年には信長から織田家の家督を譲られて尾張・美濃の2カ国を与えられた。天正10(1582)年2月の武田攻めの総指揮を任されたが、同年6月2日の本能寺の変で、京都妙覚寺に宿営していた信忠は二条城に籠もり自刃してしまう。
信長は長男以外の待遇にはあまり気を留めなかったらしい。永禄11(1568)年から翌永禄12年にかけ、信長は伊勢の諸城を落とすと、国衆との和解のため、三男の織田信孝を神戸具盛(かんべとももり)(友盛ともいう)の養子とし、次男・織田信雄(のぶを、のぶかつとも読む)を伊勢国司・北畠具教(きたばたけとものり)の婿養子とした。
■次男と三男はどちらが優秀だったか
信忠が信長から織田家の家督を譲られると、信雄・信孝兄弟はその指揮下に入った。天正7(1579)年に信雄は7000の兵を率いて伊賀に出兵して敗北を喫した。父・信長に無断の単独行動だったから、きつい叱責を受け、しばらく謹慎を余儀なくされた。
比較的優秀といわれた信孝は、信長に対してたびたび四国征伐を申し出、天正10(1582)年5月に四国国分(くにわけ)が定められ、三好山城守の養子になって、四国に攻め入る算段となった。ところが、その翌月に本能寺の変が起こり、信孝軍は四散してしまう。
一方、信雄は居城の伊勢松ヶ島城におり、すぐさま伊賀を経て近江甲賀郡まで出陣したが、伊賀の国衆が不穏な動きを見せたため、軍を進めることに躊躇してしまう。
清須会議の後、秀吉は岐阜城の信孝に三法師を預けた。後日、三法師は安土城に移される約束だったが、信孝はその約束を守らず、柴田勝家と組んで秀吉との対立を深めていく。羽柴秀吉は対抗上、信雄の擁立へと動いた。
天正11(1583)年4月の賤ヶ岳の合戦で勝家は敗北して自刃。信孝も5月に切腹させられた。
■次男・信雄の日和見な生き方
「豊臣兄弟!」の第34話(9月6日放送)でも描かれるようだが、天正11年9月になると、秀吉は織田家の上に立つことを明らかにした。大坂城を築城して旧織田家臣、および織田信雄らに上洛出仕を求めたのだ。これに対して信雄は上洛せず、徳川家康と同盟を組むことで対抗。翌天正12年、小牧・長久手の合戦へと流れ込んだ。局地戦で信雄・家康連合軍は秀吉軍に勝利したが、膠着状態に陥り、信雄は勝手に秀吉と講和してしまう。
天正18(1590)年の小田原合戦後、小田原北条家が治めていた関八州に徳川家康が転封となり、信雄はその旧領に転封を命ぜられる。しかし、信雄は尾張・伊勢に留まりたいとその命を拒んだため、秀吉の怒りを買い、下野烏山2万石に大幅減封される。翌天正19年には出羽秋田に配流(はいる)となるが、文禄元(1592)年に秀吉の御咄(はなし)衆に呼ばれてちゃっかり復帰。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦ではひそかに家康につき、晩年は従姉妹(いとこ)の淀殿(豊臣秀頼の母)を頼って大坂城にあったが、大坂冬の陣直前の慶長19(1614)年9月に大坂城から退去した。そして、大坂夏の陣では徳川方へつき、大和国宇陀郡および上野国甘楽・多胡・碓氷郡において5万石を賜り、子孫は大名として存続した。
■本能寺の変で死んだのは長男だけではない
織田研究の谷口克広氏によれば、出生順も巷間伝わっている順番でない可能性が高いという。ただし、ここでは煩雑さを除くため、『寛政重修諸家譜』の出生順で述べていく。
信長の五男・津田信房(一般には武田勝長)は、はじめ美濃岩村城の遠山景任(かげとう)の養子となったが、元亀3(1572)年11月に武田家臣・秋山虎繁(とらしげ)が岩村城を陥落させ、信房を人質として甲斐に送還する。天正7(1579)年に武田勝頼は外交方針を転換。人質・信房を織田家に返還することで局面の打開を図った。信房は織田家に戻され、犬山城主・池田恒興の婿養子となった。
当時、恒興は摂津で荒木残党の掃討作戦を主導、鎮圧後に摂津を与えられていた。
■秀吉の養子になった四男の死
信長の四男・羽柴於次秀勝(おつぎひでかつ)は、天正5(1577)年頃に羽柴秀吉の養子になった。当時、秀吉は姫路城に入って中国経略を進めていたが、秀勝は近江長浜城にしばらく留まっていたらしい。つまり、信長は、近江長浜城主の秀吉を播磨に移し、秀勝を秀吉の養子にして長浜城主に据えたのであろう。遠方に派遣する有力部将に、信長の子どもを養子に送り込んで、居城の留守をさせる(その後に回収させる)。この構図は池田恒興と信房にも見た事例である。
秀吉が三法師(信忠の嫡子・秀信)を推したため、すっかり忘れ去られているが、清須会議で柴田勝家が一番警戒したのは、秀勝を信長の後継者に推すことだったのではないか。しかし、秀吉は秀勝を主君の遺児として遇していないように思える。清須会議の後、柴田勝家が長浜を通って北ノ庄城に戻ることに警戒したため、秀吉は秀勝を勝家の人質として差し出しており、将棋の駒のように使っているのだ。秀勝は天正13年に死去。享年わずか18(数え年)だった。
■織田信成選手の先祖は七男・信高?
信長の七男・織田信高は、本能寺の変の際には美濃におり、大垣城主・氏家行広(卜全の子)に養われ、下野宇都宮で蟄居していたという。天正13(1585)年に秀吉に招かれ、近江国神崎郡のうちに1060石を賜り、のち加増され、2000石を領す。『寛政重修諸家譜』によれば、関ヶ原の合戦では徳川方につき、子孫は旗本に列した。
フィギュアスケートでオリンピックに出場した織田信成氏は、その名が示すように、信長の子孫(信長の七男・織田信高の子孫)を名乗っている。信成氏の家が公表した家系図によれば、初代・信高から九代の信真までを掲げ、信真から信成氏の祖父までを省略している。その間は個人情報の関係で伏せているとのことだ。なぜ、信真まで掲げているのかといえば、図書館で信高の子孫を調べれば、そこまではたどり着けるからだろう。なぜ信成氏の祖父までは開示できて、それ以前が開示できないのか。そのロジックには首を傾げざるを得ない。
■影の薄い六男と八男以下
信長のその他の息子たちは、ほとんど実績らしい実績がない。
六男信秀は、信長の父と同じ名前である。歴史研究者の小和田哲男氏は「名乗りは祖父と全く同じである。
八男信吉(のぶよし)は同母兄・信高とは異なり、関ヶ原の合戦で毛利・石田方に属したため、所領を没収された。徳川家康の四男・松平忠吉、五男・武田信吉はともに秀吉が「吉」の字を与えたといわれている。同様に信吉も秀吉の偏諱を受けた可能性が高い。
九男信貞は本能寺の変で難を逃れ、秀吉に属して近江国神崎郡・蒲生郡のうちに1000石を賜った。関ヶ原の合戦では兄・信高と相談して徳川方につき、子孫は旗本に列した。ちなみに信貞は信長の祖父と同じ名前である。六男に信長の父と同じ名前を付けてしまったので、信貞と名付けたのだろう。あの秀吉ならやりかねない。
10男信好(のぶよし)には特段、事績が伝わっていない。
11男長次(ながつぐ)は『寛政重修諸家譜』によれば、関ヶ原の合戦では兄・信高を介して、帰陣する家康に赦され(=反徳川軍だったらしい)、討ち死にした。
この成り行きを見れば、信長の子どもたちはいずれも凡庸だったと言わざるを得ない。実際は世評より有能だったのかも知れないが、信長が不世出の英雄だったので霞んでしまうのはムリもない。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『一目で流れがわかる業界変遷100年史』(KADOKAWA)など。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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