インフレと物価高が止まらない。明治大学ビジネススクールの白鳥和夫教授は「外食や食品業界もおおむね値上げ戦略に走るなか、日本マクドナルドやくら寿司、ローソンはあえて低価格戦略に乗り出す。
その背景に消費心理の変化が微妙に変わり始めたことがある」という――。
■マックが打ち出す「セット500」
スーパーに行くたびに、「また高くなった」と感じる。食品の値上げが止まらない。帝国データバンクの調査では、主要食品メーカー195社の2026年1~11月の値上げ品目は1万8347品目に達する。8月は2311品目、9月には4531品目、10月も2720品目の値上げが予定されている。
ところが、こうした「値上げの秋」を前に、逆の動きが目立ち始めた。
日本マクドナルドは、以前から販売している「セット500」について、8月から「500円」を前面に押し出した新CMを展開している。くら寿司は9月4日から一部商品の最低価格を115円から110円に引き下げる。そしてローソンは9月29日から、手巻おにぎり全品を原則10円値下げする。
原材料費も物流費も人件費も上がっている。企業が相次いで値上げに動くなか、なぜ有力企業はあえて「安さ」を打ち出すのか。背景にあるのは、物価高そのものだけではない。
企業が強く意識し始めたのが、長引く物価高によって変化した消費者のマインドだ。
■実質賃金はプラスなのに財布はかたい理由
数字だけを見れば、家計を取り巻く環境には明るさも出ている。厚生労働省の毎月勤労統計によると、6月の実質賃金は前年同月比1.6%増え、6カ月連続でプラスとなった。名目賃金にあたる現金給与総額も3.4%増えている。
長く続いた「物価上昇に賃金が追いつかない」という状態から、ようやく脱しつつあるようにも見える。
しかし、消費者が「これで安心だ」と感じているかといえば、そうではない。理由の一つが、物価の先高懸念だ。日本銀行が発表した7月の企業物価指数は前年同月比7.2%上昇した。企業同士で取引するモノの価格で、いわば消費者物価の「川上」にあたる。さらに輸入物価指数は円ベースで前年同月比29.1%上昇した。
原材料、エネルギー、包装資材、物流などのコスト上昇が川上に残っていれば、時間を置いて店頭価格へ転嫁される可能性がある。実際、食品では秋に大規模な値上げが控えている。

消費者が見ているのは、今日の値段だけではない。
「来月はもっと高くなるのではないか」

「また値上げされるのではないか」
こうした先行きへの不安が、生活防衛意識を強める。
実質賃金がプラスになったからといって、すぐに財布のひもが緩むわけではないのである。
■「値上げ疲れ」でもう買わない
企業側にも異変が起きている。物価高が始まった当初、食品メーカーや外食企業で評価されたのは「値上げ力」だった。原材料費が10%上がったのに価格を据え置けば、企業の利益は削られる。人件費も上昇している以上、持続的な賃上げのためにも適正な価格転嫁は必要だ。
だが、値上げには限界がある。例えばペットボトル入り緑茶飲料は、7月の平均価格が前年同月比4.8%上昇した。一方、来店客1000人当たりの販売金額は6月に16.7%減、7月にも10%減った。
価格が上がれば、消費者は購入頻度を減らしたり、より安いPB(プライベートブランド)へ乗り換えたりする。もっとも、その反応の大きさは商品によって異なる。
場合によっては、その商品を買うこと自体をやめることもある。
食品業界では、値上げ後の販売数量の落ち込みが想定以上になっているケースも出始めた。消費者の「値上げ疲れ」が顕在化。企業にとって重要なのは、もはや「値上げできるか」だけではない。値上げした後も、顧客が買い続けてくれるか。価格戦略は次の段階に入りつつある。
■9割の人は「ワンコイン」を希望
その変化を考えるうえで興味深いのが、日本マクドナルドの「セット500」だ。同商品は今回新たに投入されたものではなく、2025年から販売されている。ハンバーガー、マックチキン、マックポークの3種類からバーガーを選び、サイドメニューとドリンクMサイズを付けて500円。平日だけではなく休日も、昼だけではなく夜も500円で提供する。注目したいのは、物価の先高懸念と節約志向が強まるなか、マクドナルドが改めて「500円」という価格そのものを強く訴求していることだ。
同社が全国の16歳以上の男女751人を対象に調査したところ、「ワンコイン500円で満足のいく食事がしたい」と答えた人は89%に達した。

8月18日から放映しているテレビCMのタイトルは「空飛ぶ500円玉」篇だ。オフィス街の空に巨大な500円玉が現れる。それを見た多部未華子さんが「500円といえば、これですから~」とセット500を思い浮かべ、マクドナルドへ向かう。商品の中身以上に「500円」という数字を印象づける広告である。
消費者は外食をしなくなったわけではない。しかし、「この店に入ったら結局いくらかかるのか」に以前より敏感になっている。
単品の価格は安く見えても、サイドメニューや飲み物を注文すれば支払額は膨らむ。そう考えれば、外食そのものを控えるという選択肢も出てくる。そこで「500円で食べられる」と明確に示す。最初から支払額が分かっていれば、消費者は安心して店に入ることができる。つまりマクドナルドが売っているのは「500円で済む」という安心感だ。
■子どもに人気の商品は下げ、サーモンは上げるくら寿司
さらに興味深いのが、くら寿司だ。
同社は9月4日から一部商品の価格を改定する。全国551店舗のうち313店舗では最低価格を115円から110円に引き下げる。
「熟成びんちょうまぐろ」「ねぎまぐろ」「たまご焼き」「ハンバーグ」など、ファミリー層、とりわけ子どもに人気のある商品を中心に価格を下げる。
なお、くら寿司で一番人気の「熟成まぐろ」は今回の値下げ対象ではなく、価格据え置き、または店舗によって価格が上がる場合がある。
新たな商品も加え、最低価格で提供するすしは37品目となり、全すし商品の約4割を占める。
だが、ここで重要なのは、くら寿司が全面値下げに踏み切ったわけではないことだ。「サーモン」「生えび」など33品目については逆に5円値上げする。
原材料価格やエネルギーコストが上昇し、とりわけ円安による輸入水産物の価格上昇などを自助努力だけで吸収することが難しくなったためだ。
値下げと値上げを同時に行う。一見すると矛盾しているようだが、マーケティングの観点から考えれば合理的である。ファミリー客が価格を意識する商品は110円に下げ、「くら寿司なら家族で行っても、それほど高くならない」という印象をつくる。一方、原価上昇の大きい商品では必要な値上げを行い、収益を確保する。

すべての商品で同じ価格政策を取る必要はない。集客する価格と、利益を確保する価格を使い分ければよい。くら寿司の価格改定は、一律値上げから「選択的な価格設定」への転換と見ることができる。
■商品によって「価格弾力性」は違う
ここで重要になるのが、経済学やマーケティングでいう「価格弾力性」という考え方だ。簡単にいえば、価格を変えたときに需要がどれだけ変化するかを示す。
価格を少し上げただけで販売数量が大きく減る商品は、価格に対する需要の反応が大きい。反対に、価格を上げても販売数量があまり変わらない商品もある。大切なのは、価格弾力性がすべての商品で同じではないことだ。
日常的に購入し、競合商品との比較が容易な商品ほど、消費者は価格差に敏感になりやすい。一方、独自性が高かったり、強いブランド力を持っていたりする商品では、価格以外の要素も購買を左右する。
物価高が長期化すれば、この違いを見極めることがさらに重要になる。消費者が価格に敏感な商品を一律に値上げすれば、販売数量や客数を大きく落としかねない。一方、価格以外の価値が評価されている商品なら、適正な価格転嫁をしても需要への影響を抑えられる可能性がある。
くら寿司が個々の商品の価格弾力性をどのように分析しているかは公表されていないので断定はできない。ただ、ファミリー層に人気のある商品では最低価格を引き下げ、原価上昇を吸収できない商品では値上げする今回の価格改定は、商品によって価格に対する消費者の反応が異なることを意識した戦略とみることができる。
問われるのは、「値上げするか、しないか」ではない。どの商品なら値上げしても選ばれるのか。どの商品を値下げすれば来店につながるのか。その違いを見極めることが重要になっている。
■ローソンおにぎり10円値下げの背景
ローソンは9月29日から、エリア限定商品を含む手巻おにぎり全品を、商品の仕様を変えることなく原則10円値下げする。「シーチキンマヨネーズ」は181円から171円、「熟成紀州南高梅」と「北海道産日高昆布」は194円から184円、「炙り熟成紅鮭」は221円から211円となる。
値下げする理由は明快だ。米の市場価格が低下したからだ。これまで企業は、原材料費や物流費、人件費が上がったことを理由に値上げを進めてきた。消費者も、ある程度はそれを受け入れてきた。
しかし、原材料価格が下がったときはどうするのか。コストが上がれば値上げする。しかしコストが下がっても価格はそのまま。それでは消費者に不信感が残りかねない。
ローソンは米価の低下を販売価格に反映することで、「原価が下がれば価格も下げる」という姿勢を示した。しかも、おにぎりはコンビニの価格イメージを左右する代表的な商品だ。
ローソンによると、米価格の高騰などを背景に、1人1カ月当たりの精米消費量は2025年度平均で4435グラムと前年比6.1%減った。2026年6月も4518グラムで、2024年6月の4804グラムを約6%下回っている。
ローソンは今回の値下げを通じ、米の消費拡大も応援するとしている。つまり、原価低下を消費者へ還元すると同時に、価格上昇によって弱くなった需要をもう一度喚起する。これがローソンの狙いだ。
■これからは「いくら安いか」ではない
マクドナルド、くら寿司、ローソン。3社の値下げの理由は同じではないが、共通するのは、消費者が価格をどう感じるかを、以前にも増して意識していることだ。
重要なのは「値ごろ感」だ。値ごろ感は単なる安さではない。100の商品をすべて10円安くする必要はない。消費者が価格をよく覚えている商品、購入頻度の高い商品、来店のきっかけになる商品を選び、価格を下げる。
そうすれば、店全体の価格イメージを変えることができる。逆に、価格への感応度が比較的低い商品や、原価上昇の著しい商品では適正な価格を取る。重要なのは、その組み合わせである。
長いデフレの時代、日本企業は「値上げできない」ことに苦しんできた。インフレ局面に入ると、今度はコスト上昇を適切に価格転嫁できる「値上げ力」が企業の競争力として評価されるようになった。それ自体は間違っていない。
適正な価格を取れなければ利益は生まれず、賃上げも投資もできない。しかし、値上げが何度も繰り返されれば、消費者にも限界がくる。そこで次に問われるのが、「価格戦略」ではないだろうか。
■「この価格なら買いたい」とどう言わせるか
どの商品を値上げするのか。どの商品を据え置くのか。どの商品をあえて値下げするのか。500円、110円といった分かりやすい価格をどこに置くのか。そして、原材料価格が下がったときには、それをどこまで消費者に還元するのか。
さらに重要になるのが、価格を変えたときに消費者がどう反応するかを見極めることだ。価格弾力性を踏まえて商品ごとの役割を考え、値上げ、据え置き、値下げを組み合わせていく。これからの価格戦略は、より緻密にならざるを得ない。
物価高が続き、しかも先高懸念が消えないときほど、価格は単なるコスト転嫁の結果ではなく、強力なマーケティング手段になる。
消費者は「安いものしか買わない」わけではない。必要なもの、価値を感じるものにはお金を使う。一方、日常的に購入する食品や外食では価格を厳しく見る。
だからこそ企業には、すべてを安くするのではなく、「ここは安い」と消費者が実感できる価格を意図的につくることが求められる。
物価高だから値上げする。そんな一方向の価格戦略から、企業は次の段階へ入り始めた。物価高だからこそ消費者の心理を読み、値上げ、据え置き、値下げを使い分ける。これから問われるのは、どこまで値上げできるかではない。消費者が「この価格なら買いたい」と感じる値ごろを、いかに見つけ出すかである。

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白鳥 和生(しろとり・かずお)

明治大学専門職大学院グローバル・ビジネス研究科専任教授

1967年3月長野県生まれ。明治学院大学国際学部を卒業後、1990年に日本経済新聞社に入社。小売り、卸、外食、食品メーカー、流通政策などを長く取材し、『日経MJ』『日本経済新聞』のデスクを歴任。2024年2月まで編集総合編集センター調査グループ調査担当部長を務めた。その一方で、国學院大學経済学部と日本大学大学院総合社会情報研究科の非常勤講師として「マーケティング」「流通ビジネス論特講」の科目を担当。日本大学大学院で企業の社会的責任(CSR)を研究し、2020年に博士(総合社会文化)の学位を取得する。2024年4月に流通科学大学商学部経営学科教授に着任。著書に『改訂版 ようこそ小売業の世界へ』(共編著、商業界)、『即!ビジネスで使える 新聞記者式伝わる文章術』(CCCメディアハウス)、『不況に強いビジネスは北海道の「小売」に学べ』『グミがわかればヒットの法則がわかる』(プレジデント社)などがある。最新刊に『フードサービスの世界を知る』(創成社刊)がある。

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(明治大学専門職大学院グローバル・ビジネス研究科専任教授 白鳥 和生)
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