光秀が本能寺の変を起こした要因は何か。元国税調査官の大村大次郎さんは「信長は、ほかの戦国武将とは根本の経済思想が違っていた。
この信長と光秀の経済思想が真っ向から衝突したとき、『本能寺の変』が起こったといえる」という――。
※本稿は、大村大次郎『お金の流れで読み解く戦国武将』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
■築城の名手・光秀が築いた巨大な城
光秀は、近江の地に坂本城という当時としては巨大な城を築いていた。光秀は築城の名手でもあったのだ。
近江の坂本城は、光秀の死後、秀吉によって廃城にされており、当時の絵図なども残っていないため、どういう城だったのかはあまりわかっていない。しかし断片的な資料を集めるだけでも、相当に壮麗で巨大で先駆的な城だったことが窺える。
たとえば、安土城の画期的な部分として、瓦屋根がある。当時、瓦はまだ寺社などに使われる程度であり、城もほとんどは板葺(いたぶき)か藁葺(わらぶき)だったのだ。
しかし、光秀の築いた坂本城は、安土城よりも前に瓦を使用しているのだ。当時、城に瓦を使用したのは、畿内で一時代を築いた松永久秀の多聞城くらいしかなかった。
光秀は、その先駆の技術を活用し、信長もそれを採り入れたということである。
また日本の城には、名物的なものとして「鯱瓦」がある。
鯱瓦というのは、城の屋根の上に乗った魚の形をした瓦のことである。
■安土城より5年早く完成。日本でもっとも壮麗
荘厳なイメージのある城の中でユーモラスな雰囲気を醸し出している鯱瓦は、名古屋城の「金の鯱」など日本の城には欠かせないイメージとなっている。
この鯱瓦も、もともとは光秀の坂本城などで使われていたものである。それを信長が安土城に採り入れたことにより、全国に広まったと考えられる。
元亀2年、完成した坂本城を訪問した吉田兼見は、その壮麗さに驚嘆している。吉田兼見は名門の公家であり、京都吉田神社の神主でもある。彼は「兼見卿記」という詳細な日記を残しており、これは戦国時代の一級史料とされている。
また宣教師フロイスは、光秀のことを「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主だ」と述べ、光秀の坂本城を「安土城に次ぐ壮麗さだ」と記している。フロイスは、信長の岐阜城などにも訪れており、その上での発言なので客観性がある。
坂本城は、安土城よりも5年早い年に完成している。ということは、安土城ができる前は、坂本城が日本でもっとも壮麗な城だったということになる。

■家臣から領土を接収するようになった信長
家臣に気前よく領地を与えていた信長だが、晩年には所領をなるべく織田家に取り込もうとしていた。しかも織田家の所領を、近畿や尾張に集中させるようになった。
具体的には、近畿や尾張にあった家臣たちの所領を取り上げ、遠方に転封させたり追放したりしたのだ。
たとえば柴田勝家に越前を与え、滝川一益に上野を与え、その代わりに近畿・尾張にあった彼らの所領は、織田家に収公された。また佐久間信盛、林秀貞らを追放し、彼らの持っていた近畿・尾張の土地を収公した。
勝家、一益、信盛、秀貞などは、織田家でもっとも大きな所領を持つ家臣たちである。彼らが近畿・尾張に持っていた所領の明確な広さはわかっていないが、織田家の重臣だったので、かなりの広さがあったはずだ。
その彼らを近畿・尾張から追い出し、その土地を織田家が収公すれば、相当な土地が織田家に入ってきたはずである。
これには、近畿から尾張までの一帯を織田家の所領にしておきたい、という信長の意志が見て取れる。
当時、日本の政治経済の中心は京都・大坂だった。京都には朝廷もあるし、室町幕府もここに置かれていた。また大坂は日本最大の港である堺を擁し、商工業の中心地でもあった。
近畿を支配すれば、日本を支配できるということである。
さらに、地元の尾張から近畿一帯を織田家が所有すれば、織田家の財政は非常に安定する。また、戦乱が終わったばかりで混乱している土地を家臣に与え、治安が落ち着いた土地は織田家が回収しようという意図もあった。
そうして織田家の財政力を高め、ゆくゆくはかつての朝廷のような中央集権政権を築こうというわけである。
■信長が光秀に命じた「国替え」
近江に関しても、天正8(1580)年ごろには、光秀領以外はほとんど織田家関係の領地になっている。しかも光秀は、新たに丹波に国を与えられており、光秀の近江領もいずれ織田家に収公されるのは目に見えていた。
また、信長が新たに建てた安土城の位置を見ても、近江国は織田家の直轄領にしようとしていたことがわかる。
安土城は、近江東側の中ほどに位置し、琵琶湖の中継地である草津湊が眼前にある。近江全体を統治するには打ってつけの場所だ。光秀の坂本城とは、直線距離にしてわずか30キロ程度しか離れていないのである。
実際に本能寺の変の直前、信長が光秀に国替えを命じたという説がある。
これは『明智軍記』に記されているもので、信長の使者が来て「丹波、近江を収公する代わりに、これから攻め入る出雲、石見を与える」と命じたという。
光秀はそれに怒りを覚え、謀反を決意したと記されている。
『明智軍記』は、光秀の死後100年くらいに書かれたものなので、一次史料とは言い難い。が、それでもまだ死後100年ということは、現代の我々が知りえなかった事実が記されている可能性は大いにある。
また織田家の状況から見ても、当時、近江国の大半を織田家が押さえており、残っているのは光秀領くらいのものだった。
■光秀が本能寺の変を起こした動機
しかも、織田家の家臣たちはほとんどが転封を命じられており、光秀にだけいつまでも転封が命じられない方が不自然だった。近江の光秀領は織田家に収公され、光秀には中国あたりの土地を与えるというのは、まったく自然な流れだった。
「丹波、近江の代わりに出雲、石見を与える」というのは、そのままの事実ではないかもしれないが、それに近い事実があった可能性は低くない。もしそうであったとすれば、光秀にとっては我慢ならなかったということも想像に難くない。
この時点で、光秀に国替えの命令が出ていなかったとしても、近いうちに必ず命令が出ていたはずである。それは光秀にとって、大きな憂いとなっていたと考えられる。
光秀が本能寺の変を起こした動機というのは、おそらく1つの理由ではなく、いくつかの要因が重なって生じたものと思われる。
■相反する経済思想が真っ向から衝突
信長は、ほかの戦国武将とは根本の経済思想が違っていた。
ざっくり言えば、信長は武家社会を廃して、古代朝廷のような強力な中央集権政権を築こうとしていたのだ。
武家社会は「全国で何万、何十万という武家が、各々に領地を持ち、その統治をする」ということで成り立っている社会だった。各武家は領地内の農業経営を行っており、自分で耕作する者も多々いた。
つまり武家社会というのは、中央集権とは真逆の「各地域の独立性の高い社会」だったのである。中央政権の軍事力や統制力が弱い上に、各地域に武装した集団が割拠しているわけで、当然、紛争が起こりやすい。鎌倉から室町にかけて治安が乱れ、戦乱が絶えなかったのは、この「弱い政府」のせいでもあった。
この武家社会の矛盾を解消するために、信長は「強力な中央集権政府」を築こうと試みていたのだ。
鎌倉・室町の武家政権は、土地制度によって大きな制約を受けていた。具体的に言えば、国を運営するほどの税収や軍備が確保できないということである。
室町幕府の財政基盤が弱かったのは、結局、直轄領からしか税を徴収できなかったことが大きい。しかも、各地の土地の所有権における争いが絶えず、領主同士は、たびたび紛争を行う。信長には、それが非常に不合理な社会システムに見えたのだろう。

政府が国全体を一括管理すれば、行政も徴税もスムーズに行えるし、地域間の争いもなくなる。信長は、そういう国家づくりを目指していたようだ。
しかし光秀には、それが受け入れられなかった。彼はあくまで武家社会の中で生きており、自分の土地を「一所懸命」に守るということを最善としていた。そのために、近江・丹波の統治に心血を注いだのである。
この相反する経済思想が真っ向から衝突したとき、「本能寺の変」が起こったということである。

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大村 大次郎(おおむら・おおじろう)

元国税調査官

国税局に10年間、主に法人税担当調査官として勤務。退職後、ビジネス関連を中心としたフリーライターとなる。単行本執筆、雑誌寄稿、ラジオ出演、『マルサ‼』(フジテレビ系)や『ナサケの女』(テレビ朝日系)などの監修で活躍している。ベストセラーとなった『あらゆる領収書は経費で落とせる』(中公新書ラクレ)をはじめ、税金・会計関連の著書多数。一方、学生のころよりお金や経済の歴史研究を続けており、『脱税の世界史』『脱税の日本史』(ともに宝島社)など、「歴史を経済で読み解く」ジャンルの本も多く執筆し、好評を得ている。YouTubeで「大村大次郎チャンネル」配信中。

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(元国税調査官 大村 大次郎)
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